・都 in 砂嵐
そんなわけで晴れて漆原家の一員となった娘の桜は、母子共に健康ですと太鼓判を受けて新しい我が家に帰ってきたのだった。
ダンナである大地が私の実家の近くに土地を買ってくれたので、私は里帰りはしなかった。だってその必要もぜーんぜんなかったのだ。毎日、毎日毎日毎日、まーいにち、二人の母親がくるからだった。
「おばあちゃんよおおおおおおお〜っ!!」
って叫びながら。二人の母親は代わる代わる娘を抱いては赤ちゃんていい匂い〜などと喜んでいる。
夫の母親である冴子母さんは最初から「おばあちゃん」発言していたけれど、うちの母親は「おばあちゃんとは呼ばせない」などとぬかし、自分の下の名前を娘に言い聞かせていた。この子には日本語は正しく覚えさせたいわと腰に手を当てて威嚇する私が言って、仕方なく「私はおばあちゃん」と呟いていたのだ。
母親たちが世話を焼いてくれるので、ぶっちゃけ私がしたのは授乳くらいだ。女体の神秘でバストは3サイズもアップ(ひゃっほーい!!)し、そのたぷんたぷんと揺れる(ひゃっほーい!セカンド!!)胸にしゃぶりつく娘を眺めているだけ、で私の一日は終わるのだ。
あとは、夫の母である冴子母さんが家の掃除をし、うちの母が料理を3食分作っておいていく。私がやるより遥かに家の中が綺麗に保たれて、私はお下の傷がいえるまで(つまり所謂床上げまで)本当にトイレと授乳以外は眠っていられたのだった。
それは感謝している。もう神様に両手をあわせて、この境遇に感謝しまくりだったのだ。勿論ちゃんと、母親たちにも感謝を表明しまくった。
ありがとうございます!お陰さまで私は元気です!
なので、体は普通の産後の母親よりはかなり楽だったと思う。加えて家事でイライラすることもなく、床上げが終わって外出できるようになれば「気分転換にいってらっしゃい」と両母親が送り出してくれたので、私は大好きな川原に散歩まで行けたりしたのだった。
それも、非っ常〜に感謝している。
ただしかし、女性というのは欲深く、コレが叶えば次はアレと出てくる生き物だとはよく言ったなあ、と思うのが、現在発動中のホルモンの嵐の中に放り込まれていた私には苦痛なのだ、と判った時だ。
常に家の中に人がいる。それは結構ストレスだと気がついた。
そんなわけで、娘の一ヶ月検診が終わるのとほぼ同時くらいに、両家の母親には頭を下げてお願いして、家に手伝いにくるのは週に2回で十分でございます、と伝えた。
母親たちは一瞬残念そうな顔をしたけれど、彼女達だってそれなりに忙しい身なのだろう、あっさりと頷いて、私は娘と二人で家にいられることとなった。
うららかな春の光を浴びて昼間にぼーっとする。しかも、後ろにはすやすやと眠る赤ん坊つきで。・・・この私が!!うわーお、ほんと、神様ありがとうございます!大事に育てます!そう、一日に何回も心の中で祈りつつ言うのだった。
実をいうと、その間、夫の大地のことはほとんど忘れていた。
つまり、出産してからここ1ヶ月の間。
だってねえ、ほら、ヤツは無口なのよ。無口なの。ただデカイ男がぬぼーっと帰ってきて、ほぼ無言でご飯を食べているのよ。それで娘と私の位置を確認すると、これまた無言で自分の世話をして、あとは就寝まで本を読んだりするの。つまり、これまでと同じく。
今までは私しかいなかったのでアレコレ話しかけていたけれど、今は何かあれば全身の力で泣き叫ぶ赤ん坊がいるために、元々薄いヤツの存在感は今ではほぼ無くなっていた。え、誰かいる!?ってたまにぎょっとしてしまうくらいに、存在がない。深夜の授乳と夜泣きがあるからと私は娘と寝るので、仕事のあるヤツは別室で寝ている。それも原因の一部だろう。
たまーに、ふと、気がつくのだ。・・・あら?そういえば、私って結婚してるのよね?って。シングルマザーじゃなかったわよね?って。ということは、夫と呼ばれる存在の人間がいるはずだけれど、その男はどこにいるの?って。
ついさっきそれを改めて思い出し、カレンダーをみて指を折ってみた。
・・・もう、10日も話してないじゃん!!
私は仰天して目玉が落ちるかってくらい目を見開いた。
あらあら!ちょっと私ったら!って。その場では、大いに反省したのだ。だから、今晩はちゃんと起きていて、彼の帰りを待とうって、そう思ったのだった。
だって、妻という望みまくった身分をくれた男でもあるわけだし。最近してなかった感謝をヤツにも込めるべきだと気がついたので、ね。
だけどいざ、そうしてみると・・・・・イライラした。
まず、泣いていた娘を抱っこしたままでウトウトしているところに、ヤツが帰宅した。私はその玄関の開く音でハッと目を覚ます。そして顔を上げると同時くらいに、ヤツがドアをあけて入ってきた。
「あ、お帰り〜」
片手で桜を抱いて片手で目を擦りながらそういう。申し訳ないが微笑みは勘弁してくれ、マジで眠いんだ。
ヤツはちょっと驚いたようだった。久しぶりにみる夫は私の記憶の通りに今晩もシンプルな服装をしていて、大きな黒い仕事用の鞄を肩から提げていた。前より髪の毛ものびている。
「・・・寝るなら布団で寝れば」
ボソッとそう言いながら居間に入ってくる。私は久しぶりに聞いた夫の第一声がそれだったので、ガックリと肩を落とした。
「・・・うん、ええ、まあ、その通りなんだけどね、とりあえずただいまって言って欲しかったわ」
ヤツはスタスタと前を横切って鞄を置きに隣の部屋へ消える。それから私がぼーっと見ている前を戻って来て、台所で晩ご飯を温めだした。
「あ、ごめん。私やるわ」
そう言って、眠った桜をベビーベッドへ下ろす。赤ん坊がこれだけ重いなんて、誰も教えてくれなかったぞ。今では私の左腕は確実に筋肉がついているはずだ。
ヤツが無言でレンジを使っている間に、私はお茶をいれ、ご飯を装って、彼のお箸を並べた。
「頂きます」
両手をあわせてヤツが食べだす。ああ、この挨拶も久しぶりに聞いたなあ〜・・・私は前の椅子に座りながら、ぼんやりとそんなことを思った。
無言でご飯を平らげていくヤツを見るともなしに見ていたら、ちらりとヤツが目を上げて私を見た。
「・・・寝ないの」
うーんと、これは疑問系?一瞬悩みながら、私はヒラヒラと手を振る。
「いやあ、ここのところずっと君の顔を見てないなあ、と今日気がついて。前にいたら邪魔?」
ヤツはヒョイと肩をすくめた。・・・うん、ああ、そうそう、こんな感じだったわね。私は少しずつ、二人で生活していた時のことを思い出しつつあった。子供が生まれてからはいつでも明るくお喋りな両家の母親に囲まれて、自分から口を開く必要がなかったのだ。うわー、二人も人間がいるのに静かとか!久しぶりだわ〜!ちょっと感動すらした。
でも・・・何というか。うーんと・・・こんなに、喋らない男だったっけ?改めてそう思って、私はついマジマジと夫である男を眺める。
しーん・・・・としているのだ。ほんと、静寂。娘の静かな寝息や、時計の針の音が聞こえるくらい。
ヤツは淡白で無感動な表情でご飯を平らげていく。その表情からは今日の仕事はどうだったのか、嫌なことがあったのか、それとも嬉しいことがあったのか、今食べているご飯を美味しいと思っているのかそれとも不味いと思っているのかなどは、ちいーっとも判らない。ついでに今言えば、私がこうして久しぶりにヤツと向かい合わせで座っていることを喜んでいるのか邪魔に思っているのかも判らないのだった。
・・・何か、ムカつくんですけど。
「今日はお仕事どうだった?」
眉間によってしまう皺を意識的にのばしながら私がそう聞くと、ヤツは少しばかり首をかしげる。それから呟きで返事をする。
「いつもと同じ」
その、いつもを私は知らねーんだよ!とは口に出さなかった。頑張った会話もこれで終了だ。まったく、本当に何も話さない男だわね!私は若干イライラしながら、ヤツが食べ終わったらしい食器を持って立ち上がった。
「お風呂、沸いてますよ〜」
後ろでうんと聞こえる。顔をみていたらイライラするのだった、見なければ良いのだ、そう思って、私は食器を水につける。
ああ、久しぶりの対面なのに!だけどだけど、落ち着くのよ都。前々からヤツはこんな野郎だった・・・ってことは、私がやっぱり短気というかバランスが狂っている状態なのだろう。何と言うか、とても役に立つ母親が二人も手伝ってくれている今、ダンナってなんで必要なの!?とか考えてしまうわ・・・ダメダメ、ダメよ、そんな罰あたりな!
無表情にイライラする。
無口なのにイライラする。
リアクションがないのにイライラする───────────
台所に立ったままで、ゆ〜っくりと深呼吸をした。
息を吸って〜吐いて〜吸って〜吐いて〜・・・・ふううううう。とにかく落ち着こう!
彼は今までと同じ。イライラするかしないかは、私一人の問題なのよ!
とにかく、ヤツは私達親子にかかるお金を稼いでくださっているのだから!そうブツブツと自分に言い聞かせていたら、隣に立って残りの食器を水につけていた彼が、ヒョイと私を見た。
そして、無言のままですっと右手を伸ばす。
その、私とは全然違うゴツゴツした手が私の頬にかすって──────────全身におぞ気が走り、私は、驚いて悲鳴をあげてしまった。
「うきゃあっ!?」
パッと身を捻って、やつの指が届くか届かないかのギリギリの距離で後ずさる。大げさなほどの大声とリアクションに、ヤツが手を伸ばしたままで固まった。
私はそれだけ驚いた自分にも驚いて、焦るあまりに絡まった舌で何とか叫ぶ。
「なっ・・・な、何何何!?さ、さ、触らないで〜っ!」
「・・・」
指を伸ばして空中に浮かせたままで、やつがちょっとばかり目を見開いて私を見ている。
ハッとした。・・・あら、やだ・・・。私ったら、今、つい、なんつった・・・?
一度瞬きをして、やつが目をそらした。それから指を回収して背中を向けて歩き出してしまう。あ、あ────ちょっと、今のは酷かったわよ、私!そう思って、ワタワタと私は後を追いかけながら聞いた。
「えと・・・ごめんね、驚いちゃって!何、何か用だった?」
ヤツはスタスタとドアへ向けて歩きながら、片手で頭をかいている。それから足を止めるとちらりと一瞬だけ私を見て言た。
「・・・睫毛」
「へっ!?」
ま、睫毛っ!?それが何だっ!?勢い込む私に、ヤツのぼそっとした声が振ってくる。
「頬に睫毛がついてた。とろうとしただけ。風呂入るから」
「あ────、うん。ええと・・・いってらっしゃい・・・」
・・・睫毛。ついて、た、んだ?
ヤツがドアを閉める。私の目の前でバタンと閉じられたその茶色のドアの表面を、じーっと見ていた。
・・・あの、顔。
いつも無表情な、あの男が・・・目を見開いて驚いていた。
触らないでって言ってしまった・・・。
一瞬だったけど、強烈に気持ち悪いって思ってしまったのだった。全身があわ立つほどの拒絶反応が起こった。
もうちょっとでヤツの手を叩いてしまうほどだった。
体中に嫌な汗が噴出したのを感じた。
産後のホルモンバランスの崩れで砂嵐のような状態に、実際のところ、まだ私はいるのだ。だから久しぶりにあったやつを見て、嬉しいとかよりも、威嚇する気持ちの方が強かったのだろう。知識としては知っていたけれど、実際に経験するとあまりにも強烈な嫌悪感で、それに心底驚いていた。
────────触られるのが、すごく嫌だって、思ってしまった・・・。ほんとに、ほんと〜うに一瞬だったけど、ヤツの指で触れられること、それに対して爆発的な拒否反応が出た・・・。
「うわああああ〜・・・・」
ヨロヨロと食卓までふらついていって、私はぐったりと顔をつける。
あからさまな拒否を、そのまま出してしまった。
今のは酷かった。もしも反対の立場だったならば、私は相手に対して露骨に切れて暴れまくったはずだ。
ヤツは───────────きっと、傷付いただろう。
もとより、男性の方が女性より繊細であることもある。普段余計なことどころか必要なこともあまり口にしない彼は、一応でも好きでいる(はずの)私からそんなことを言われて、きっとショックを受けただろう。
彼の少し見開いた目が忘れられない。
ううう・・・そう唸って唇をかみ締める。
私も知識としては知っていた――――――そういえば、まだ独身の時にそんな話も聞いたことがあったではないか!私の周りの女友達はすでに母親になっている子が多いのだから。
一人目を生んだあとからダンナに触られるのが嫌になっちゃって、セックスレスなの、って。でも彼が風俗に行ったりするのは嫌なのよ、どうしたらいいの〜!?って、悩んでいるのを聞いたことだってあるじゃん!
あれが、今の私にきているのだ。
ヤツに触られたくない。凄い嫌悪感が突き抜けてくる。だけど、それは私だけの問題であって、ヤツを巻き込んでいいことではない。
うお〜・・・・。
折角手に入れた妻という立場が、こんなに困難だったとは!私はテーブルの上で頭を抱える。そこから見えるベビーベッドの中では「愛の結晶」であるはずの娘が眠っている。
・・・あの時は、あーんなに楽しかったはずの触れ合いが・・・。今では金をくれても嫌だよ。
がっくりと全身の力を抜いて、ダリの絵みたいにぐにゃぐにゃになっていた私だった。
ホルモンバランスの嵐の中を漂う私、このままでは・・・転覆して、遭難しそうです・・・。
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