「ノア・ハウス」 プロローグ





 逃げてきた場所だった。

 今までのことは全て忘れて

 明日のことは考えないようにして。

 ここは、その為の場所なんだ。

 街の片隅、ボロボロのビル。

 不快な音をたてるドアを押し開けて。


 ここが、ノア・ハウス。





 かつてあった温かい手の感触を思い出してしまった。

 歩いていく、夕暮れの中で。

 駅前の商店街はほそぼそと続いていて、色んな場所から夕飯用の食べ物のいい匂いが漂ってくる。彼はそれをちらりとも見ずに、ゆっくりと歩いていた。

 特別裕福でもなかったけれど、ちゃんとした日常があったあのころを思い出して、不機嫌に口元を歪める。全てではなかったけれど、必要なものは、あのころはちゃんとあったのだ。温かい手も、無邪気な心も。ポケットの中に突っ込んだ両手には力がこもり、それに自分で気がついて舌打ちした。

 彼は意識して、一度大きな欠伸をする。

 歩くのは、やめなかった。





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