私の叫び声が煩かったらしい。うるせえよ!と怒鳴ったあとで、リーダーが言う。

『ただの明細、じゃねーんだよ。恐ろしい個人情報のかたまり。あれを放置して誰かに見られたり盗まれたりしたら、首が飛ぶのは俺のだからな』

 大体悪いのは持って帰らなかったお前だろー!と説教まで聞こえてきた。

 くらくらくら・・・。折角あたたまった体も一気に冷えてかたまったようだった。

 そんな・・・出来るだけ避けている男が、わざわざ会いにくるなんて・・・。泣きたい。そう思いながら途方に暮れていたら、少し間をあけて、リーダーが言った。

『まあでも、もう結構経つんだよ。お前が電話に出ないから、部屋にいなけりゃドアの新聞受けに放り込んでこいって言ってあるから、そうしてるかもしれないぞ。折角もっていった奴には可哀想だけど、そんなに嫌なら、もしまだ来てなくても居留守つかっとけよ』

「居留守・・・いいんですか、使っても」

 そう聞くと、電話の向こうで深いため息が聞こえた。

『だって仕方ないだろ。なんでそこまで嫌がるのが判らないけど、嫌ならな。俺はちゃんと仕事してくれたらそれでいいから』

 じゃあな、そう言ってリーダーは電話を切る。私はお疲れ様です、と呟いて、呆然と暗い空を見上げた。

 ・・・平野、どうか、もう帰ってくれてますように。

 忘れて帰ったのは自分だ。だからリーダーを責めるのは間違いだし、本社ついでに寄り道を命じられた平野こそ被害者であると思わなければいけない。私はそう何度も自分に言い聞かせて部屋へと戻る。

 ゆっくりそろそろと階段を三階まで上がって、静かに踊り場から自分の部屋の方を覗き込んだ。

 暗い廊下。でもドアの形はハッキリとわかる。そして――――――――そこの前に立つ、人型の影も。

「・・・」

 あああああ〜・・・・まさしく今着いたところ!?そうなの!?コンクリートの壁に頭を打ち付けたい。一瞬本気でそう思って、いやいやと自分の額を叩いた。

 それから大きなため息。

 お風呂上りでこれ以上冷えるのはよくない。それに、人影はドアを背にして立っているらしいし、ということは、私を待っているのだろう。泣きたいけど泣いてる場合じゃない。覚悟を決めていくのよ、千明!

 私は鞄二つを握り締めて、ゆっくりと足を踏み出した。

 コツンと靴の音がして、それに気がついたらしい。ドアの前の人影がドアから身を起こした。

「・・・藤?」

 その声は紛れもなく平野だった。

「・・・そう」

 がっくりと肩を落として私は自分の部屋へとずんずん歩く。もうさっさと明細を貰って、帰って頂こう。そう思って。

 ドアの前まで来ると、リュックを背負った姿の平野がいた。エプロンと帽子姿でないヤツを見るのは久しぶりだ。私は一瞬だけ目をあわせて、あとはパッと視線を外す。

「明細もってきてくれたんだってね、リーダーに聞いた。あの、ありがとう」

 ぶすっとそう言って手を出す。ここに置いてくれ。そしてさっさと帰ってくれ。その意思表示で。

 だけど平野はそのままの体勢で、いいにくそうに口を開く。

「悪いんだけどさ、トイレ貸してくれないか?冷えてしまって、その・・・近い」

 ガックリ、アゲイン。

 すんごく嫌だったけれど、わざわざ明細を届けてくれた同僚の体が冷えてトイレに行きたがっているのを、無碍に断ることなんて出来ない・・・。私は何も言わずにこっくりと頷いて、仕方なくドアの鍵をあける。もう太陽は沈んでしまっているから、さっきから確かに吹く風も冷たくなっていたのだ。

「ごめん。駅までもつ自信がなくて」

 そう言うと平野はパッと靴を脱ぐ。私が指差した、玄関入ってすぐのトイレへと突進した。

 ふう、とため息をついて、仕方ないから荷物を片付けることにした。狭い1DKのこの部屋は、シャワーブースと別にトイレがついている。洗面所なんて素敵なものはないから、出来るだけトイレ近くには近づかないようにして、電気をつけコートを脱いでから通帳やら印鑑やらを片付けた。それからカーテンをしめて、ストーブのスイッチをいれる。

 トイレのドアが開いて晴れ晴れとした顔で平野が登場した。

「助かった、ありがとう。ってか、もしかしてお風呂上りが何かか?頭濡れてんぞ」

 私は無愛想に頷く。

「・・・この部屋はシャワーしかないから、銭湯行ってたの。リーダーからの電話で急いで出てきたから、髪乾かしてる暇がなかった」

 そのことに今気がついて、ぶわっと恥かしくなる。しかも私ったら今スッピンなわけよね!今更ながらにヤツから顔をそらす。頬が湯だって眉毛もない顔をじっと見られたらかなり嫌だ。電気、つけなきゃよかったぜ!

 それから、彼にむかって片手を出した。

「明細、くれる?」

「うん」

 平野はごそごそとリュックをさぐり、白い封筒にリーダーの割り印まで押してあるのを手渡してきた。

「え、ここまでする?」

 私が厳重に守られたその封筒を呆れてみると、平野が軽く苦笑する。

「そう。俺、信用はないらしい。個人情報だから、絶対あけんじゃねーぞって何回も言われた。ドアのポストがなかったら手渡すまで帰ってくるなって言われたし」

「・・・それはどうも、すみませんでした」

 私は馬鹿丁寧に頭を下げて、さあ、もう帰れ!と全身から感じの悪い空気を発散した。

 平野はちょっと苦笑して、リュックを担ぐ。それから玄関へと歩きだして――――――――ヒョイと振り向いた。

「藤、一つ聞いてもいいか?」

「は?」

 何だって、と私は顔をあげる。質問なんて出来たら受け付けたくないぞ。そう顔にはがっつり表したのだけれども、平野は気にしていないように話しだす。

「あの頃の藤と・・・今の、不機嫌でキレやすい藤、どっちが本当?」

 へ?

 私は文字通り、目が点になった(と思う)。だって視界が一気に狭くなったもの。そのあとしばらくは質問の意味がよく判らなくて、何て答えたらいいのかも判らなかった。

「えーと・・・?」

「高校のときの藤が怒ってるの、見たことなかったと思って。明るくて楽天的なんだって思ってた。でも今はほぼ毎日カリカリしてるだろ。ちょっと意外だったからさ。そんなに変化がある・・・大学時代だったとか?藤、大学行ってたよな?」

 ようやく頭がクリアになった。

 私はこみ上げてきた怒りを何とか腹の中で押さえつけながら、拳を体の後ろ側で握り締める。それから、一つ呼吸をして淡々と答えた。

「―――――大学には行った。4年で卒業して、あそこに入社したの。高校の頃はそりゃ、平野に気に入られたいと思っていたんだから不機嫌な顔は見せなかっただけよ。いつでも一生懸命だったんでしょ」

 あの頃の私は、あんたが大好きだったのだから。好かれようとしていたのだから。

 眉間に皺がよっているはずのしかめっ面でそう言った私を、平野は頷きながら見ていた。

「それに6年も経てば・・・誰だってちょっとくらいは変わるわよ。そっちだって変化が何もないわけじゃないでしょ?」

 私の問いかけはスルーして、平野が口を開いた。

「ちょっとくらい変わって・・・妄想癖が爆発したのか?」

「は?」

 言われたことが判らなかった。私は口をぽかんとあけたままで、目の前の男をつい凝視する。

 妄想癖、だと?

 どうして今そんな単語が出てくるわけ?

 かなりぽかんとした顔をしていたらしい。平野は一瞬口元を緩めて、ふ、と微笑した。それから――――――――

 つと寄ってきたのだ。といっても狭い部屋の中、ただ突っ立ってる私に近づくのにそんな時間も距離もなかったけれども、気がついたら目の前に平野がいてビックリした。

「え」

「藤の妄想癖が育ったのは大学生活のせい?それとも元々?何だったっけなあ・・・。えーっと・・・そうだ、『お前は俺のものだ。だから―――――』だっけ」

 へっ!?

 私は仰天して目をカッと見開く。ちょっとずつでも確実に近づいてくる平野に圧倒されて、私はいつの間にやら壁際へ。右足のかかとが壁にぶつかって、背中がべったりと壁についたのが判った。

 ちょっと待って待って!あれ?今、今この男が言ったセリフ、何かの引用だよね?そんな間があったよね?それでもってそれでもって・・・私は、それを、知ってるような―――――――・・・。

 こうだったな、そう呟いて、平野が片手を私の顔の横の壁につける。見下ろされる形になった私。それも壁際で。ええっ!?これってこれって・・・。

 うっすらと笑いながら、平野はそのままで少しだけ首を傾げた。

「これが所謂‘壁ドン’ってやつだろ?それから何だったっけかな・・・確か」

 私も頭の中で反芻する。確か、こんな場面で次にくるセリフは―――――――――――

 私はゆっくりと近づいてくる(ように見えた)平野の顔を凝視しながら、金縛り状態で考えた。それから口を開けて――――――平野の言葉と、見事にハモった。

「「『それを判らせてやる』」」


 ・・・私の小説のセリフだ――――――っ!!!


 その考えが頭ではじけた瞬間、覚醒した私はその場でざざーとしゃがみ込む。真下へと勢いよくずり下がって、冷たい床にドンと尻餅をついた。お尻に結構な痛みを感じると同時に四つんばいで疾走する。部屋の真ん中へ。

「・・・早い」

 まだ壁に手をついたままで、平野がぼそっと呟いたのを聞いた。

「んなっ・・・なっ・・・ななな!」

 ワナワナと震えながら、ショック状態で私は叫ぶ。

「何であんたが知ってるの!?」

 さっきからあんたが口にしているのは、紛れもなく私の小説の内容だーっ!!全身から冷や汗か脂汗か区別がつかないものが、大量に噴出した。

 まだ壁に手をついたままで体を捻って私を見下ろし、平野はニヤリと笑う。

「何でって、読んだから」

「はっ!?」

「『それならあの雨上がりの公園で』だっけ、あれ?ちょっと題名が長くないか?」

「はあっ!?」

「藤が書いてるって聞いたし、夜に暇だったし、読んでみたんだ。そんで思ったんだよ。もしかしてこれって藤の要求なのかな、って。人には言えないけどやって欲しいことを文章にして―――――――――」

「ねえよっ!!」

 自分でもすごい声が出たと思った。平野もちょっと驚いたようで、目を開いて私を見た。

「妄想癖ってそういうことか!そんなの元々で、大学とか別に関係ないわよ!ってかそんなことどうでもいいの!そこじゃない!問題は――――――問題は、どうして平野がそれを知ってるのかってことでしょ!」

 本気で全身が震えていた。ワナワナと、ぶるぶると。私はようやく力が戻ってきた四肢に力をいれて立ち上がる。これ以上は身長以外の理由で見下ろされるのが嫌だったのだ。

 平野はようやく‘壁ドン’の体勢から向き直ってアッサリと言った。

「浜口さんてパートさんに、教えて貰ったんだ」

 くらあ〜。ここ最近では滅多に体験していない強烈な眩暈がした。私は何とか倒れずに持ちこたえて、肩で息をする。

「は、は・・・浜口、さん・・・?」

「そう。藤が休みの時、初めて会って、色々話しかけてくれて。趣味の話になって」

 は〜ま〜ぐ〜ち〜さああああ〜ん・・・。

 私はパッと手を振って平野の話を遮る。・・・みなまで言うな。もう判った。趣味の話になって、読書なの?って浜口さんが聞いたんでしょ。すっごく想像出来る。それできっと、嬉しそうに言ったのだろう、あの人は。私も読書が好きなのよ、嬉しいわね、若い人で本好きがいると。そうそう知ってる?うちの千明ちゃん、そう、藤さんね、書いてるのよ、小説を―――――――――

 あああああ〜・・・。私はがっくりと頭を垂れた。もう立ち直れない・・・かも。何てこと!最大の秘密を、よりによってすれ違いたくもない男に知られてしまっているなんて・・・!

 泣きそうだった。さっきまで、リーダーからの電話を貰うまで確かにいた幸福の中の色など、完全に私の周りからは消えてしまっていた。

 ブルーだ。一面のブルー。

 そのブルーの、まさしく元凶である平野啓二は気軽な調子で言う。

「願望が現れてるなら協力しようかと思っただけ。一読者としてさ。リアリティの追求というか、感覚ちゃんと判ってんのかな、と思って。壁ドンされる気分とか、わかっただろ?」

 私は黙って玄関を指差した。もう顔も上げなかった。

 出て行け。今すぐに。ほんと、私をどうか放っておいて。

 平野は少しの間そのままで立って私を見ていたようだったけれど、その内に玄関の方へ向かって歩く気配がした。

「じゃあな、またあっちで」

 そんな声が聞こえて、ドアがしまる。

 私はノロノロと顔をあげて灰色のドアを見詰める。

 ・・・またあっちで?ああ、作業場でってことね・・・嫌かも。嫌だわ。嫌だ、平野に会うのは!!

「い〜や〜だあああ〜・・・」

 頭の中は混乱してぐちゃぐちゃだった。よく弾むボールが色々壁や天井にあたって思いも寄らない方向へ飛んでいくでしょ?心象風景としては、まさしくそんな感じだった。

 ・・・あいつが私の職場にきてから、ジェットコースターに乗ってるみたいだ。それも、目隠しして。

 『壁ドンされる気分とか、わかっただろ?』

 確かに、たしかーに判った。経験させて頂いた。あの圧迫感、それから一種の恐怖感。

 私はぐったりと床に崩れ落ちた。


 ―――――――壁ドンって、案外ムカつくものなのね。




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