「やめろ!手を離せ!」

 驚いた平野がパッと私の手を離す。私はいそいで洗い場に向かいながら、後ろに向かって言った。

「舐めちゃダメよ、生肉だから!」

 走って洗い場にいき、水で流す。洗剤で洗っている間、後ろでは高峰リーダーが平野に説明していた。

「生肉にはカンピロバクターやサルモネラ菌があるんだ!絶対生肉を触った指を舐めるんじゃねーぞ!生肉を触った箸やトングも他に使うときには必ず洗うこと!食中毒はきついし辛い。これは必ず守ってくれ」

 はい、と声が聞こえる。何だよやっぱり私じゃなきゃ返事はするんだな。指先の痛みに顔をしかめながら、私はひとりごちた。全くもう!手が触れたくらいで動揺するんじゃないのよ私も!それもあんな過剰反応を!みっともない〜!絶対平野だって気がついた。平野だって―――――――・・・

「・・・あ」

 っつか、つーか、さっきヤツは何をしようとした!?私はようやくそこに考えがいきついた。

 ・・・私の指、舐めて消毒しようとしたのか?

 カッと顔が赤くなったのが判った。

 いや〜嘘でしょダメでしょ何やろうとしたのよ平野〜!!?ばしゃばしゃと派手に水を撒き散らしながら傷口を洗い、私は完全にパニくった。あんたそんなキャラだった〜!?

 まさかまさか!いきなりヤツがやってきて私の職場にいるってだけでもショックなのに、更にそんなことされたらこれはもう発狂の勢いじゃない!?へ、へへへ平常心なんかじゃいられないよう〜!!

「千明ちゃん大丈夫〜?指切るのは久しぶりよね」

 パートさんがそう声をかけてくれる。私は消毒してバンドエイドをはりながら、大丈夫ですよ、と何とか笑顔をみせる。

 だがしかし!見詰める先には平野がいる自分の作業台。・・・・ああ、またあそこに戻らなきゃダメなの、私?マジで?大丈夫なの、私!?

 あいつが居るのに!?会いたくない、とっくに忘れさっていたはずの男があそこにいるのに!?あうう〜。

 行きたくない。というか、帰りたい。今すぐおうちに帰りたい・・・。だけど高峰リーダーがじろりと見ているのが判っていた。

 ダメでしょ、正社員。バイトが気に入らないからと家に帰るのは、ダメでしょやっぱり。ああ〜・・・。泣きたい。やっと動悸が治まったのに。

「藤〜!何してる!?何本の指の処置してんだお前は!」

「・・・はい、戻ります」

 重い重いため息をついて、私は歩き出した。


 去年の使えないエリート学生に比べたら、平野はまずまずといったところだった。しばらくは苦戦していたようだけれど、昼の休憩を迎えるころには一応形になってきつつあったのだ。

 途中から高峰リーダーがついてじっと見ていたけれど、黙々と串さしをする平野に、うん、と頷いてみせた。

「いい感じだな。もうちょい慣れたら勝手にグラムもわかるようになる。包丁だけはほんと気を付けてくれよ」

「はい」

 私は彼らの会話を隣で聞きながら、動揺する気持を何とか抑えようとしてことごとく失敗していた。いつもは一人で作業できるのだ。後ろにパートさんたちの楽しそうで明るい会話を聞きながら、自分の世界へ没頭することが出来るのだ。

 大体考えるのは、作品の続きだ。書きたいシーンなどを映像化して頭の中でこねくりまわす。といっても場面を変えるくらいのもので、こうしよう、ああしよう、と具体的に考えるわけではなく、登場人物に血が通って一人でに動き出すのを観客として見ている気分だ。

 手は勝手に動くから、頭の中で一人鑑賞会をして仕事をしている。パートさんたちは楽しくお喋りしているが、リーダーや田内さんがどうやって作業中の頭の中を展開しているのかは知らない。だけれども、いわゆる単純作業の退屈から逃げるのは大切なことだ。

 でないと辛すぎる仕事になる。

 時間は果てしなく、肉は永遠に目の前から減らないような気分になるのだ。

 肉を切り、それを順番に串にさしていき、バットに並べる。1つのバットに40本の串。それを10回ほど繰り返すのだ。それを違う種類で7つ。しかも週に5日も。休みは連続でなくシフト制だからもつのであって、これが月曜から金曜までだと皆辞めてしまうだろう。それくらい、退屈やうんざりとの闘いの仕事だった。

 なのに今日は、それがまるで出来ない。

 隣に立つ懐かしくも会いたくなかった男のせいだ。

 心がざわざわして、とっくに封印したはずの過去が襲ってきてはびっくりする。お陰で最近はなくなってきた串の先端を指と爪の間に刺してしまう拷問も、頻発していた。

 指先が冷たくて痛くて泣きそうになる。どうして私がこんな目に。くっそう!!

「藤、休憩後はズリとハート教えてやってくれ。3種類出来たらかなり助かるぞ」

 リーダーがそう言って、私は心の中でさめざめと泣く。だけど勿論嫌ですなどとは言えないから、はいと頷いた。


「よーし、休憩しましょうか。お疲れ様ですー」

 リーダーがそういって、やれやれと皆が手をとめた。私もほっと息をついて、食材にラップを被せて手を洗いにいく。

 お昼・・・どうしようかな。ここには社員食堂なんてものはないから、外に食べにいったり事務所でお弁当を食べたりでいろいろだ。間違っても平野とは顔を合わせたくないし、やっぱり今日は外にいくか。

 給料前で実際のところ、財布の中身は乏しかった。本当はスーパーで何か安く買って事務所で食べようと思っていたのだけれど、ここは涙を飲んで外食にしよう。そう決めてからエプロンと帽子を外して棚におく。鞄をとって外へと出ようとしたところで、藤ー、とリーダーが呼ぶのが耳に入ってしまった。

 ・・・何で今なのよ。

 私はいやいやながら振り返る。

「何だその可愛くない顔は。この子は初めてなんだから、お前が色々教えてやれよ。昼、どうする?何かもってきてるのか?」

 最後の質問はぼーっと突っ立つ平野に対してだ。奴は簡単に首を振って否定する。

「だって。お前も外で食うんだろ?一緒に連れて行ってやれよ」

 何だってー!!

 私は必死の形相で首を振った。

「いいいいいい嫌です!ごめんです!お断りしますー!!」

「・・・何だよお前、失礼だろ」

 あっけにとられたリーダーがぽかんとした顔をした。それから隣に立つ平野を振り返る。

「お前ら何かあったの?これってただの久しぶりの同級生に会ったって態度じゃねーよな?」

「・・・藤、さん、は」

 平野が口を開いた。瞬間、私は全身がぞわっとけば立つ。何、何なの何!?頼むから黙って―――――

「高校生の時、俺が好きだったんです。よくアプローチを受けて追いかけられてました」

 のおおおおおおおおおおお〜おっ!!!

 私は顔面が炎上したかと思った。

「へえ。マジで?藤、それって本当?付き合ってたわけではないのか?」

 高峰リーダーが目を開いて私に聞く。私はもう完全なる阿鼻叫喚地獄にいたので、涙目で走り出した。

「過去の話です!!平野っ!余計なこというなああああ〜!!」

 って叫びながら。

 ・・・畜生あの男。一生恨んでやる・・・。



 昼は食べられなかった。

 あまりのショックで喉を通らないだろうと想定して、そもそも何も買わなかったし、お店にも入らなかった。

 さっき暴露された、平野を追いかけていた過去が、私の頭の中でぐるぐると回っている。平野の声と共に。あのちょっと掠れた、昔は大好きだったあの声と共に。

 俺のことが好きだったんです・・・好きだった・・・アプローチをかけられて・・・。

「畜生!」

 口汚くそう罵って、私は無人の歩道橋の上で歯を食いしばる。

 下を眺めれば幾多の車が走り抜ける国道。・・・飛び降りたりはしない!だけど、今ならちょっとは世を儚んだ人達の気持ちが判るような気がする。

 恥かしすぎて、職場に戻れるかどうかが謎だ。

 あの男の元へ。それと、ちょっと面白そうな顔をしていた、リーダーの所へ。

 だってきっと戻ったら、田内さんやパートさん達まであの過去を知っていそうなのだ。一体どういう顔で働けというのだろうか!?

 だけど私はゆっくりと戻ったのだ。食いしばりすぎて痛む顎を抱えて、鬼の形相をして。

 高峰リーダーはやっぱり意地悪そうな顔をして私を見たけれど、私のあまりに怒り狂った顔をみて、不要なセリフは吐くべきではない、と判断したらしい。さすが大人だ。的確な判断。

 そして爆弾発言をして私を一気に窮地に追い詰めた問題の男、平野は平然とした顔で帽子を被りつつ待っていたから、私は最大限感情を抑えた声で午後の研修をスタートさせた。

 負けないぞ。ここは私の職場なんだ!半年やそこら居るだけの男になんか、絶対負けないぞ!

「お待たせしました。じゃあ、始めます」

 低い声で淡々とそう言うと、周囲の物音が一瞬止んだ。

 平野もじっと私を見ているのがわかった。

「・・・藤。あの」

「黙って」

 ぴしゃりとそう言って、私は手を洗い、消毒をして、包丁の切れを確かめる。それから冷蔵庫から大きなビニール袋を取り出して、それを作業台にドンと置いた。

「これはハート。つまり、心臓ですね。上の脂身のところは切り落として下さい。それから横に向けると月型になっているのが判ります?ここに包丁をいれて――――――」

 どんどん進んで行った。相手が着いてきているかは確認しなかった。

 心臓を切り開き、血のたまりを取る。手が真っ赤に染まってぬるぬると光る。いつもは若干ブルーになるその瞬間も、今日の私は大丈夫だった。

 心を強くもつのよ、千明!

 私は過去の亡霊には負けないんだから。もう平野なんて完全に過去なんだから。あんなに辛い思いだって、もうしないんだから―――――――――

 結局その日は一日中、私は平坦な声で鶏肉の各部位の開き方と串の刺し方を教え、やっぱりちっとも返事をしないままの平野はそれを黙って覚えていった。

 午後7時、終業時間には、ヤツはかなり疲れていたらしい。ぐったりと壁にもたれかかり、帰るパートさん達に労を労われている。

「お疲れ様です」

 先に田内さんが退社した。

 高峰リーダーが平野を褒め称えるのを背中に聞きながら、私も家へとすっとんで帰った。

 この悲惨な一日を、何とか忘れたかったのだ。

 それには、小説世界へ逃げるしかないと判っていた。

 私の世界へこもること。

 こんな日には、あれがまるで優しく私を包み込む繭のようにも感じられる。

 作品に没頭するのよ、千明!それが一番素敵な逃避の仕方――――――・・・・・・








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