5−B
『仕事が終わったの。無事に成功したよ。ねえ、いつなら空いてる?』
そんなメールを打ったのは二日後の深夜。
そして、朝起きると同時にメールの着信に気がついた。
で、待ち合わせしたの。
場所は、正輝の会社の近く。いつもの、そして懐かしい、あのバーで。
カラン、とドアの鐘が鳴って、ダウンライトに支配された店へと踏み出した。
「いらっしゃいませ」
「今晩は」
真っ黒のスーツに蝶ネクタイ。魔法使いみたいな風貌をしたマスターが、にっこりと微笑んでくれる。
私も勿論顔中の笑顔で頷いた。
嬉しかったのだ。すごく久しぶりにきたこのお気に入りの店で、いつものカウンター席、それに静かな音楽も照明も店中を満たす香りも全部が。
お客は他には誰もいなかった。それも素晴らしい。
「喉渇いてるの」
「すぐに」
すでにマスターは作り始めていたようだった。いつもよりも素早く、私の為に作られたゴールドのキラキラ光る素敵な飲み物が出てくる。
シュワシュワと小さな泡をたてて、バーカウンターの上の照明で光って輝く。
・・・・・・うーん、素敵。
これよこれよ!!これを待ってたのよ〜!!私は心の中でそう叫びまくって、目立たないようにカウンターの下で足もバタバタさせて、ようやくそのジン・トニックを口へと含ませた。
思わず零れ出る満足の吐息。目を閉じて、うっとりと舌への刺激を味わっていた。
うーきゃー!
「・・・うーん、最高」
「ありがとうございます」
目を開けると、マスターがニコニコと笑っていた。
私も笑う。すごく満足していた。好きな店で、この最初の一口が。私の好きなゴードンのジンで作られるジン・トニック。ここの店のこれが一番。
マスター、適当に何かつまむものちょうだい。私はそう頼む。その間にきっと、私は2杯目のジン・トニックを飲むだろう。そのくらいで丁度いいのだ。酔いのレベルとしては。
イベントを終了させたばかりで、今日は3時間だけの仕事だった。
だから私は自分に約束した高級エステにもいったし、化粧品カウンターで新商品の試しもした。それからゆっくりシャワーを浴びて全身を磨き上げ、香水を少しだけぬりこむ。
しっとりした肌にのせていくのは上質なパウダー。
ハニーベージュのストッキング。値段もヒールも高いバレンシアガのヒールサンダル。ピアスは小振りでネックレスは3重のゴールド。それからブラックの膝丈スカート。肩までのストレートボブは一本の乱れもなく、バーの照明の下では黒々と光っているはず。3度重ねたマスカラと頬紅。今晩の唇はヌードな色で艶やかに仕上げた。
どこからどうみてもいい女だった。自分で言うのはなんだけど。
恋人に会うためにお洒落をする、その行為はあくまでも自分のためよね、っていつも思う。それで笑顔が増す。自分に自信をもてるようになる魔法の儀式なのだ。
男がそれに気がつかなくても、いいって思えるのだから―――――――――いや、やっぱりちょっとは気がついて欲しいけど。そんでもって褒めて欲しいけど。
カラン、とまた音がしてドアが開いた。
振り返ったそこには、私の愛しい男。
「お待たせ、会議が長引いた」
正輝が息を弾ませながらこっちへと歩いてくる。
・・・・わお、いい男。私はにっこりと微笑んだ。ちょっと遅れるかもって走ってくるところが素敵。乱れた髪もそそるし、ネクタイも直してあげたくなる。・・・まあようするに、彼は彼ってだけでオッケーなのだけれど。
「マスター、ビールお願いします」
隣に滑り込んだ正輝がそう注文して、やっと私に笑顔をくれた。
ってか、まずは女の全身を見なさいよ。そして褒められるところは最大限、大げさなくらい褒めろっちゅーの。私は笑顔のままで、心の中でそう呟いた。もう、本当に鈍いんだから・・・。
ビールとジン・トニックで乾杯をする。
「仕事お疲れ様。無事に終わって何よりだけど、大成功だったらしいな」
「お疲れ様。そうなのよ、自分でいうのもなんだけど、素晴らしい成果よ」
お皿にストーンチョコやチーズを盛り合わせて出してくれたマスターが、ああ、と言葉を零した。
「御多忙だったんですね。最近どちらもお見えにならないから、心配してたんです」
私は一杯目を飲み干して、ううんと首を振る。
「違うの、マスター。逃げてたのよ私」
え?と驚いた顔のマスター。隣で正輝は苦笑している。
「私そっくりの格好したあの子、それからこの人からも」
にやにやしながらそう言うと、マスターは、ああ、と手をポンとあわせる。
「田中さんですね。そういえばあの方も最近は見えてないです」
「辞めちゃったのよ、あの子」
「え?」
今度は正輝が反応してこっちを見た。私は肩をすくめてみせる。
嵐のように現れたあの新人さんは、打ち上げ会で暴走したあと、会社に来なくなった。あとで聞いた話によると人事の部長にあの夜の間に電話して、ぎゃんぎゃん喚きまくった挙句に「やめますから!」って叫んで一方的に電話を切ったらしい。
人事では、誰だあいつを採用したのは!?って一荒れあったと聞いた。
あれは一体なんだったんだ?何かの妖精か、はたまた妖怪だったのか?と会社では噂になっているらしい。彼女は他部署の独身男性ほとんどに声をかけていたとか、でも食事まで行ったのは二人しかいなかったとか、梅沢が追い出したらしいぞ、とか、社内では色んな噂が一瞬だけ駆け巡ったけれど、翌日、つまり今日にはなかったことになっていた。
そんな子いたっけ?みたいな。
田中さん?誰それ?みたいな。
皆の記憶から消えるのが早すぎて、私は一瞬本当に彼女は妖怪がお化けだったのではないか、と思ったほどだった。
まあいつも通りに雑誌をぼんやりと読んでいた亀山が、「あいつは迷惑だった・・・」と呟いたから現実だったんだ、と思えたのだけれども。
「あの・・・梅沢さんを慕っていた若い女性ですよね、田中さん」
マスターがそういうのに、私はちっちと人差し指を動かす。
「慕っていたわけじゃなかったんですよ。真似をして、乗っ取ろうって企んでいたらしいです。本人がそう言って暴れてましたからねえ〜。凄いこと考えますよね?」
へえ、と男二人がはもる。恋愛フィルターがかかっているにもかかわらずマヌケに見えるのは、多分本当にそうなのだからだろう。呆気に取られるのはようく判るよ、君たち。私は鷹揚に頷きながら、お酒を口にした。
「で、辞めちゃったのか」
「そう」
「ってことは翔子、全部楽になったってこと?」
「そう。素晴らしい!」
それは良かったな、正輝の手が伸びてきて、何と頭を撫でてくれた。
私は赤面した。
あ・・・頭を撫でられるとかっ・・・!うきゃー、親にされて以来だわ!ダメ、冷静にならなきゃ鼻血でそう。折角全身を完璧に装っているのに鼻の穴にティッシュなんか突っ込んでたら、コメディ以外の何者でもなくなってしまう。耐えろ、鼻血はダメよ、私。
正輝の愛撫を上手かつ紳士的に見ないふりをして、マスターがグラスを拭きながら言う。
「とにかくお二人にまたご来店頂きまして、嬉しい限りです」
うふふと私は笑う。そしてマスターに教えてあげた。私があの子から隠れるためにした、色々なことを全部。
「真似されるのが嫌なら、彼女の視界に入らないのが一番でしょ?どうしても集中しなきゃならない仕事があって、もう本当に死にそうだったんです」
可哀想に、大変でしたね。そうマスターが言いながら、ふと考える顔をした。
「そういえば去年はこの店でも隠れてましたもんねえ・・・」
ぼそっと呟く。私はそれが何か?と首を捻ってみせた。確かに、隠れたよね、そのカウンターの中に。正輝から逃げていて、彼がいきなり店に来たから仕方なくだったのだ。そして正輝に情報を提供しかけたマスターの足を叩いたりもしたのだった。うむうむ。
「翔子は逃げ隠れが好きなのか?」
チョコレートを齧りながら正輝がそうからかうので、私はハッキリと首を振る。
「いいえ、戦いを挑んで勝つのが好きよ」
普段なら、勿論そうしていたはず。だけどタイミングが悪かったのだ。それに、女経験は豊富なくせに中身が薄かった初心で鈍感な正輝が彼女の毒牙にかかったら、と思うと公衆の面前で大爆発も出来なかった。
勿論夢の中では何度も彼女を締め上げたのだ。
首根っこひっつかんで壁におしつけ、ナイフを顔すれすれにぐさぐさと何本も突き立てながら。罵倒して蹴り上げてふわははははは〜!!って仁王立ちになって高笑いするまでの夢も見た。
だけど現実にはそれはしなかった。亀山にも、自力で何とかしろよ、逃げるのはいい加減にしたらどうだ?って面と向かって言われたけれど。それはムカついたので、ヤツの机の引き出しに隠してあったチップスの袋の上に文鎮を置いて中身を粉々にすることで不快感を表明したし(当然ヤツは怒り狂った。だけど口喧嘩で打ち負かした)。
でも、それでも。
万が一を想定して。万が一、戦いを挑んで悪い方に転がり、あの子が私の宝物を奪ったら・・・。
正輝を失いたくなかったから―――――――――頑張ったんじゃないの。それは心の中で呟いただけだったけれど。
「・・・ちょっとは大人になったのよ、私も」
そう言って肩を竦めると、ふうん?ってからかうような返事が来た。
カウンターの下で、マスターに隠れて手を繋ぐ。
彼は判ってる、と頷く。
でもきっと全然わかってないのよ、私が考えてることなんか。男ってそんなものよ。特に、私の愛しいこの男は。その鈍さにイライラして、恋人になる前はよく慰めたり諌めたりしたものだったもの。
だけどいいの。その正輝が、私が好きなのだから。
酔いもいい具合にまわってきた。
それにお腹も空いて来た。
時刻は20時、夜はこれから。
私の目を見て正輝が優しく聞く。そろそろ、行こうか?って。
最後の一滴を飲み干して、ゆっくりと、大きな笑顔で頷いた。
「run and hide2〜春の嵐編〜」終わり。
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