・A



 横内は移動教室らしい。あたしはまだそのままでこの教室を次も使うので、椅子に座ったままで言った。

「ごめんね引き止めて。でも、あの・・・」

 ん?と彼が聞き返す。

 どうしよう、聞くべきか・・・。あたしはしばらく悩んだけれど、とにかく教室を移動しなければならない彼には時間がないはずだ。それに、せっかくここまで話せたから・・・。

 もうちょっとだけ、話したい。

「あの、そんなに眠いなら、夜にもうちょっと早く寝たら?」

 思い切りが必要だった。

 だってあたしには関係ないプライベートな話だし。

 だけど横内はなんとも思わなかったようだ。自分の席から離れて歩きながら、あたしに届くように大きめの声で言った。

「夜も寝てるよ。でも朝錬があってどうしても眠くて。うちの部、試合が近いからハードで」

 チャイムがなる。騒がしいままの教室の自席で、あたしはやっと次の教科の準備を始めた。


 ・・・・テニス部、試合が近いのか。


 授業中、その言葉をずっと頭の中で転がしていた。




 『物理の授業に恩を受けてしまった』


 そう一行日記に書き込んだ次の日に、何とその恩を返すチャンスに恵まれた!

「横内、君。これ、えーっと、よかったら」

 あたしが差し出してるのは数学2−Bのノート。うちの高校はガンガンというわけではないにせよ、ある程度の進学高でもあるのだ。自分達でもたま〜に忘れるほどの力の入れ方、といえばいいだろうか。

 その学校で、一番怖い先生は誰ですか〜?と聞かれたら、全校生徒が口を揃えてコーラスする名前であると思われるのが数学2−Bを担当する貝原先生。

 高い身長でペラペラの薄い体を持つ、50歳を越えている名物教師だ。

 眼鏡をかけていて、そのガラスの奥から覗く瞳に容赦の文字はまったく見えない、ものすごーく怖い先生なのだ。別に怒鳴ったりするわけではないが、迫力が半端ない。

 問題を当てられて答えられなかった場合、シーンと静まり返った教室の中、生徒は冷や汗をダラダラ垂らしながら直立不動するはめになる。その生徒が自力で解いて答えられるまで、眼鏡の奥からじーっと見て、待っているのだ。

 すでに瞬間冷凍している生徒が答えられるわけがない。太陽すら凍るか、と思われる冷たさの眼で、先生は静かにため息をつく。そして、いきなりその前後の席の生徒を指して「代わりにやりなさい」というから周囲も堪ったものではないのだ。

 自分の周囲の生徒があてられて答えられなかった場合、いつ自分にとばっちりがくるかわからないから、皆必死で教科書と睨めっこして問題を解きまくる、というわけ。もう涙目で必死なのだ。当てられた生徒も、周囲の生徒もお互いに生きた心地がしない授業、それが数学2−Bという科目。

 当てられるのはその日の日付を出席番号にあてはめて、その生徒から順に全員がまわる。だからどの席にいても必ず当たるのだが、どの問題が当たるのかは当日にならないと判らない。

 そんなわけで、貝原先生の数学2−Bを取っている生徒は毎回必死で予習をしてくるのだ。当てられたときにすんなり正解が答えられるように。滞りなく、授業が進むように。

 我がクラスの眠りん坊である横内も、さすがにこの先生の時には突っ伏して眠ることはない。

 まあ寝てるんだけどね、椅子に座ったままで上半身起こして目を閉じてね。

 でも自分の当てられるときにはちゃんと起きて(というか、周囲が起こして)問題をとくのだ。

 それなのに!

 何と、予習したノートを忘れてきたらしい。

「・・・・あ、俺死んだ」

 そういう呟きが隣の席から聞こえてきたから、あたしはぎょっとして振り向いたのだ。

 するとかなり凹んだ様子の横内の姿が。

 片手で目を覆って頭も抱えている。

 そこで、さすがのあたしも声をかけることが出来たってことなのだ。あたしはお腹に力をいれて、声を出した。どうしたの、って。

 そしたら彼は手を顔から離してあたしを見て、調子が悪そうな顔で言ったのだった。

 数Bのノート、家に忘れてきた、って。

 そんなわけで、あたしは彼にノートを持った手を突き出している。

 横内はあたしが差し出したノートをびっくりしたようにちょっと見ていたけれど、すぐに手を伸ばして受け取る。

 それからサンキュ、と短くお礼を言ってノートをあけ、今日やるのだろう問題集に猛然と答えを書き写しだす。

 結構な速さだった。

 ・・・おお、真剣になれば、それだけのスピードでシャーペンを動かすのか。あたしはつい観察してしまってそんなことを思う。

 早いわ、って。

 5分やそこらで、彼はあたしが1時間はかけてした予習を全部うつし終わった。それでもまだ休み時間が余ってるくらいの早さだった。

「わお」

 あたしは小さな声で感想を漏らす。それはしっかり横内に聞こえたようで、彼はちょっと笑ってあたしにノートを返してきた。

「マジで助かった。ありがと」

「あ、いえいえ。昨日物理で助けてもらったし・・・。てか、横内君でも貝原先生は怖いんだ?」

 あたしの言葉に彼はあはははと声を出す。

「だってあれはキツイだろ。出来なかったら恐怖の朝学習だし。俺今クラブがハードでそれに出てる余裕もないしさ」

 ああ、そうか。あたしは頷いた。

 恐怖の朝学習。それは、貝原先生のクラスで予習を忘れたもの、テストで赤点をとったものに課せられる、午前7時半からの数学特訓だ。

 あたしも一度出たことがある。あれは、本当に恐怖以外の何者でもなかった!

 朝から始発で学校へいき、朝学習に参加する生徒は視聴覚室に集められる。そして、自分が解けなかった問題ばかり100個ほど連なるプリントをバン!と目の前に置かれるのだ。

 貝原先生はその時、にこりともしないでこう言う。

『朝礼までに、終わらせること。開始』

 正直、あれには二度と参加したくはない。

 うわ〜、たしかにねえ、とあたしが一人で頷いていたら、そういえば、と隣から声が聞こえた。

「佐伯って、下の名前ななみでいいの?何か海に関係ある家の人?」

 あたしは一瞬固まった。

 ・・・今。

 今、今、今!佐伯って呼んだよね??・・・うわー!

 なんか近くなったような気がしたのだ。昨日まで佐伯さんって呼ばれていた、それがさん付けがなくなっただけで。凄まじく驚いたけれど、高校生活においてクラスメイトを苗字で呼び捨てにするなんて普通にあること。あたしも一瞬だけ固まって嵐の到来のごとく頭の中で騒いだけど、表面は凪のような静かさだった。・・・と、思いたい。

 ちょっと嬉しい・・・。だけど、あたしはまだ横内、とは呼び捨てに出来ない。

 そこまで考えて、やっと気がついた。

 彼は返事を待っている。肘を机について顎を片手でおさえ、こっちをじっと見ているじゃないの!

 きゃー。

「え?ええ・・・っと。あ、うん。ななみ、であってる。それでもって、うちのお父さんが・・・海自だから・・・」

「かいじ?」

 横内がまだあたしを見ている。あたしは何とか不自然にならないように目をそらして、ノートの上に教科書を置いたりしてバタバタと動いていた。

「あ、海上自衛隊。元々海が好きで・・・それで、七海ってつけたって聞いたけど」

 へえ〜、とのんびりとした相槌が聞こえてホッとする。よかった、あたしの挙動不審は誤魔化せたようだ。

「俺も海に関係ある名前だからさ、ちょっと気になっただけ」

 あたしは思わず考えた。・・・横内、航。ああ、航海の航か!

 手をとめて隣をちょっと見ると、横内は筆箱を転がしながら話している。

「俺はじいちゃんが漁師でさ。初孫だってんで、決められたって母親が言ってた。じいちゃん家は瀬戸内で滅多に行けないけど、暖かくて綺麗な海なんだよ。俺は好きなんだけどさ、この名前」

「へえ」

 ・・・おじいちゃんが漁師なんだ。うちのお父さんと同じ海が好きって言っても、それはちょっとばかり感覚の違う話なのかもしれない。

 だけど、あたしはその時心の中で、すごく父親に感謝した。ありがとうお父さん!お陰で横内と繋がりが出来た!ちょっとしたことだけど。本当に、ちょ〜っとしたことなんだけど。

「海自かあ。なんかそれって格好いいな」

「そんなことないよ。お父さんはいつでもいないし」

「ああ、遠征ばっかで?」

「そう。基本的には母子家庭」

 恐怖の大魔王である貝原先生が入ってくるまで、何とあたしは横内とそうやってお喋りをしたのだった。隣の席だからこそ出来る気軽さで。隣の席だからこそ出来る近さで。

 他のクラスメイトには聞こえないような小さな声ってわけではなかった。だけど、それで余計に緊張が取れたのもある。他愛のない話だから。誰にもバレずに、楽しめたって思うのだ。

 誰にも不審がられずに、からかわれずに。

 何だか体がぼうっとあたたかかった。





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