3−A
私は確認する。
「じゃあ、あんたが私のところにきてからの6月からの記憶は、消されないのね?」
ダンは頷いた。
「そう。今まであったことは、そのままムツミの記憶の中でしまわれる。神と接触した人間の記憶を修正しないのは例がないそうだが、ムツミが条件を守りさえすればこちらは何もしない」
「どうせ誰に喋ったって、相手にしてもらえないわよ。日本人には無神論者が多いのは知ってる?鼻で笑われるだけだわ」
ダンはふむ、と頷いて、ふわりと私の前に座った。
「どうして記憶を直さないんだ?そうすれば泣けるほどの幸せな記憶を貰えるんだぞ〜?」
「・・・あんた、その喋り方何とかならないの?」
私は不遜にも人差し指で神を指しておいて(すぐに風で払われたけど)、顔を顰めた。それから親切にも説明してやることにする。
「ずっと言ってたでしょ?私のものは私のものよ。一分一秒だって、私だけのものであるはずなの。それをどんな素敵なものであったとしても変えられるのは嫌だわ」
ダンが、ふ、と笑った。
「ムツミは頑固だ」
「知ってたでしょうが」
「まあ、そうだな〜」
ムツミは確かに、頑固で、意固地で、淡白な上に歪んでいて、大変な人間だったって。・・・うるさいわね。
風が通って、ダンの細いブロンドの髪の毛を揺らしていく。
この「神」が私の元へやってきてから、本当に毎日が大変だった。個人的な修羅場がいくつも現れて、自我が崩壊するかと思ったんだった。
まだほんの数ヶ月前のことなのに、私はやたらと懐かしく思い出す。
だけど。
だけど、この神がいなかったら―――――――――――・・・
「ねえ、ダン」
背中のほうから聞こえる歓声に負けないように大きめの声で、私は言った。
「あんたに会って、私、目元の皺が増えちゃったわ。あんたが来てから毎日毎日、よく怒って叫んだり怒鳴ったり、泣いたり――――――――――――それから・・・よく笑ったり。ほんと、大変だった」
ダンが私に顔を向ける。その表情は、穏やかだった。多分、私も同じように―――――――――
私は目を細めて口角を上げる。そして、ゆっくりと言った。
今までは人生なんて、「こんなもの」だと思ってたのよ。
戦争だって大きな病気だって私は知らない。世界には凄く悲惨なこともたくさんあるって知識はあったけれど、とりあえず私には関係ない。だから、自分だけがとにかく平和であれば、退屈だろうが何だろうが構わないって。
ダンはじっと私を見ている。その不思議な色の瞳の中には私がうつり、それは笑顔だった。
「それが今までの人生論というか、私なりの幸福論だったのよ。人のことも、自分のことも気にしない。それが一番面倒臭くないし、平和で大事だって」
だけど。
その私が、変わってしまったのだ。
ダンに会って、根本から。
「あんたが来て、私の周りはすごく騒がしくなった。人間関係も否応なく広がって、色んな人と喋ったり、仕事をしてみたり・・・なんか、必死だったわよね、あんたが煩くて。しかも、人間同士みたいには簡単に離れられないっていうどうしようもない存在で」
「ちょっとまて。侮辱するなら―――――――――」
ダンがむっとした顔で口を挟む。私はそれにしれっと返した。どこが侮辱なのよって、ちゃんと聞きなさいよって。・・・まあ、褒めてはいなかったけどさ。
「だけどその騒がしい人間関係の中にいると・・・思ったより、心地良いって判ったわ」
まだ暫く不機嫌な顔をしていたけれど、ダンもその内にため息をついた。
「本当に、全てに恐ろしい無関心だったものな〜。こんな人間につくなんて、俺ってついてないって何度考えたか・・・」
「それは私にも言えるわよ。これだけの数の人間が世界中にいて、どうして私なの!そして、どうしてあんたなのよ?―――――――――まあ、とにかくいいのよ、今は」
パッと手を振って、私は帽子を被りなおした。
折角いいことを言っていたのに、やりなおしじゃないの、全く。
「とにかく、今では感謝してるのよ。私が・・・またこの世界を楽しめるようになったから」
ダンは揺れる草を見ているようだった。
青い空には所々に白い雲。歓声がまた上がって、それがハッとするほどの青に吸い込まれていく。
ふう、と息を吐いてからダンが立ち上がった。
「観察はこれで終わりだな。俺は、今はめちゃくちゃな観察ノートだけど、それを何とかまとめて提出しなきゃならないんだ」
どうやらもうすぐ天上世界へ戻るらしい。
私は一つ思い出して、ねえ、と声をかけた。
「うちのおじいちゃんと、何話してたの?」
「ん?」
「ほら、実家に帰ったときに。おじいちゃんと二人で部屋にいてさ」
ああ、とダンは頷いた。
気になっていたのだ。だって、その後すぐにダンは姿を消してしまったから。おじいちゃんとの話は何だったのかって。
だけど祖父に直接きくわけにはいかない。第一、祖父はあの光と表現していて、ダンの姿は見えていないようだったし、神様だなんて思っていないはずなのだ。
チャンスが来たわ、私はそう思った。何の話をしていたんだろう?
ダンは私を真っ直ぐに見て言った。
「ムツミの祖父は――――――――後悔をたくさん持っているようだった」
「・・・は?」
後悔、ですか?
「それの処理に困っていたんだ。自分が今まで他人や妻、家族へしてきたことへの後悔を、年をとってから何度も思い出しては苦しんだらしい。これは罰なのだろうか、と聞いて来た。だから俺は記憶を消してやったんだ。長期間思い悩んできて、それでもう十分自分を痛めつけている。丁度俺がいたし、すぐに終わることだった」
私はぽかんとした。
まさか、そんなことだとは思わなかったのだ。祖父は厳しい人だったけど、それでも家族には頼りがいのある優しい人だった。過去に何かがあって、その後悔で長年苦しんでいるなどとは・・・。
「・・・それって何?」
ダンはにやりと笑った。
「教えな〜い。・・・知りたければ俺と天上世界へくるんだな」
うう、ムカつく。一々交換条件を出してくるやつだ。まあ、きっとダンもそう思っているんだろう、私に対して。
さて、そう言ってダンは空を見上げる。
「今日は空気が澄んでいる。道も真っ直ぐだな」
「・・・戻るの?」
「そうだよ〜」
「飛行機にぶつかったりしないでよね、無様だから」
「・・・・・ムツミ、最後まで喧嘩を売るのはやめろ」
うふふ、と私は笑う。
「じゃあ、これで本当に終わりね?」
「そう、終わりだ」
あんたとバカみたいなことで怒鳴りあうのも。
あんたとバカみたいなことで笑いあうのも。
あんたと、一緒にした、いろんなアレコレも――――――――・・・
私は数メートルの高さまで浮かび上がっているダンを見上げる。ヤツは太陽をバックに浮いていて、それはまるで後光のように見えた。
・・・まったく、最後まで眩しい男だわ。
手をかざして影をつくる。それからダンの不思議な瞳を見た。
数ヶ月前、神が降りてきた、固まって地面に這いつくばる私の元に。
そして、ヤツは奇跡を起こすのではなく、滅茶苦茶に生活をひっかきまわしてくれて――――――――――私を、少しだけ、変えた・・・。
口元に笑みが浮かんだ。
「・・・私は、ここで生きるわ。人間だもの、地上を這うの。それで、出来るだけ楽しくいられるように努力してみる」
ダンが、にっこりと笑った。
それから手を優雅にまわし、爽やかな風を周囲に巻き起こす。いい匂いのするその上昇気流に乗って、ダンの体はそのままスッと空へ上っていく。
彼の髪の毛がパラパラと舞った。
キラキラが、小さくなる。
ゆっくりと旋回して、少しだけ浮かんでいる雲を揺らして。
ダンは―――――――――――天上世界へ、戻って行った。
私は芝生の上に寝転びなおして、それをじっと見ていた。
ねえ、あんた、本当に神だったのね。そう心の中で呟く。
こんなに頑固で意固地な無気力女をひと夏で変えるなんて、なかなかの影響力じゃあない?
ふふふ、と笑いが漏れる。
背中には温かい芝生の感触。高い空や広がる林には、会社の運動会で盛り上がる社員の声が響いている。
私はもう一度、帽子をずらして瞼を閉じた―――――――――――
私の手元には、一冊のノートがある。
それは私が一人の「神」と過ごした、あの夏の記録。
何かに躓いたとき、何かに焦ってしまったとき、泣きそうになったとき、私は今でもそれをめくる。そして、腹が立ってしかたなかった、やたらと美形の男神のことを思い出しては苦笑するのだ。
この時にくらべたら、マシだわ、って。
なんてことない、そう思えるわって。
だって私、世の中の奇跡を、目の当たりにしたんだからって―――――――――
会社の中で、人事異動が起きたのはその翌年の春のこと。
社長が心筋梗塞で冬に倒れたこともあって、色々バタバタした春だったのだ。幸い社長はしぶとく(失礼)復活したけれど、自分は最高取締役を退いて引退の形になってしまった。
後を注いだのは、長年社内で縁の下の力持ちと言われてきた技術職の老部長。彼は色んな会社の研修を受けて、トップになるべく戻ってきたのだった。
最初にしたのが会社内の人事整理。今まで有り得なかった女性社員の役職も新設し、結婚した社員に退職を勧めるのは会社の衰退に繋がると断言し、寿退社が常識ではなくなってしまった(ちなみに、事務職員のスカート廃止も受け入れて貰えた)。
そのお陰で美紀ちゃんは結婚を決め、そのまま会社に残って総務の係長職に昇進した。
私は彼女が喜ぶのを嬉しく見ていて、こう思ったのだ。
この子は、最初の女性役員にもなるかもしれないって。
ついでに言うと、小暮も昇進した。営業2課から1課の課長職への異動で、本人はかなり燃えている状態だ。俺は最短で部長になる、が最近の口癖。それを私が適当に聞くので苦情を言っている。
冬には実家に小暮がついてきた。念のために言うと、私はその提案を受けてから長い間拒否しまくったのだった。だけどヤツは諦めなかった。とうとう実家へ帰る前日に私のアパートへ突撃し、私がうんというまで得意の営業トークを披露したのだった。
両親は喜んで、涙さえ浮かべていた。大げさだわ、全く。兄貴はちらりと小暮を見て、それから私にこっそりと言う。
これで俺の自由は確約だな。よくやった、妹よ。
パンチをお見舞いして礼に替えた私だ。
寒い冬の中を、何と恋人と一緒に過ごす。
一人で部屋でごろごろするのも素敵だけれど、これはこれで、温かいし良いものなのかも、そう思って私はよく笑っていた。
目元の皺だって、笑い皺なら素敵なのかも、って。
色んなことを見えないことにして、色んなことを諦めて遠ざけてきた。
それは、自分を守るためだったのだと今は判る。
だけどよく考えたら昔から、「攻撃は最大の防御」って言うわよね、って気がついたのだ。
いつでもガンガンにせめていたら疲れてしまう。だから、ほどほどにね。だけど攻めの姿勢を忘れないこと。その方が、満足度も上がるはず。
ノートの最後にはこう書いている。
「何かに傷付いたら、それを上回る喜びを発見すべし」
そしてノートの一番前には、サインペンでこう書いた。
『カメカミ幸福論』――――――ダンとムツミの攻防戦。
「カメカミ幸福論」終わり。
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