3、自動的忘却
目を覚ましたら、自分がどこにいるのか判らなかった。
「・・・うん?」
いつものように布団から手を伸ばしてペンギンの目覚まし時計を止めようとして、まてよ、何か布団の感触が違うくない?と思って目を開けたのだった。
これ、私のタオルケットじゃない―――――――――――
寝ぼけた目でふと隣を見て、私はそのままぎょっとして声を上げそうになる。だって隣に男が寝てたんだよ!そりゃあビックリするってもので――――――――・・・
だけど、さすがにすぐ思い出した。
「・・・あ」
驚きでドキドキする心臓を押さえて、私はゆっくりとため息をはく。・・・ああ。そうか〜・・・。
薄暗いホテルの部屋の大きなベッド、私の隣でまだ寝ている男は小暮。私の同期で、出世頭の、この間まで本当に1ミリだって何とも思ってない男だった。
それなのに、ああ、何てこと。
ぼりぼりと頭に手を突っ込んで掻く。・・・私、小暮と寝ちゃったのか〜・・・。
そろそろと起き上がる。ホテルの小さめの窓の外はまだそれほど明るくなく、今がかなり早朝なんだって判った。
大人二人で寝ても十分な大きさのキングサイズのベッド。それだけでなく、いいものに見えるデスクや椅子や間接照明なんかも、ここがただの場末のラブホテルなんかでなく、それなりにいいランクのホテルなんだとわかった。
昨日は呆然としすぎて見えてなかった色んなことが、起き上がった私の頭に一気に押し寄せたのだ。
・・・小暮、どうしてこんなホテルの存在知ってるんだろう・・・。つか、まあ、他の女の子と来たことがあるんだろうねえ。ああ、そうに決まってるじゃん!とか、昨日は確か木曜日だったから、何てこと!今日も会社行かなきゃなんじゃん!とか、そういえば昨日の飲み代、自分の分小暮に払ったっけ?とか。
まあ色々な考えが飛来しては、一瞬で通り過ぎて行った。
ちらりと小暮を振り返る。
朝で少しのびた髭が、彼の顎に影を作っている。短い黒髪。伏せた瞼。規則正しい呼吸が、部屋の中を漂っている。白くてふかふかの夏用布団に包まれて、いい年齢の男が、いい色気を出しながらそこにいた。
「・・・」
何よ、あんた・・・やっぱり格好いいじゃないの。私は視線をそらせなくなりながら、じっくりと彼を眺めていた。
当たり前だけど裸で眠っている。その初めて見るかなりプライベートな姿に、薄暗い部屋の中で、一人で赤面してしまった。
・・・寝た、のよね、小暮と。私が。昨日の夜。
何度目かの確認をする。だけど今やちゃんと目覚めてしまった私には、昨夜の久しぶりすぎる艶っぽい記憶がしっかり存在して、これでもかってほどに何度も浮かび上がってきていたのだった。
短い時間とは言えなかった。
あれほどお酒を飲んでいたにも係わらず、二人ともかなり素面に近い感じでいたと思う。つまり、それほど緊張して、それから一生懸命だったのだ。
普段、日中のプライベートな小暮がお喋りかどうかは知らないけれど、少なくとも昨夜の彼は静かだった。ただ、揺らされる私が時折目を開けるといつでも彼と視線が会った。いつもは細められて笑顔を作っているあの瞳は、少し切ない色を浮かべて私をじっと見ていた。たまに、力抜いて、とか、痛くないか、とか聞いたりしただけで、にやりとした笑顔と共によく投げられる意地悪な言葉なんかもなかったのだ。
何だか熱くて、わけが判らない感じで、それから・・・明るくて柔らかいイメージのひっついてくる行為をしてしまった。
・・・小暮と。
腰から下がいやにだるい。・・・エッチって、こんなんだったっけ?わしゃわしゃと髪の毛をかき回して、それからヨロヨロとベッドから降りた。
とりあえず、シャワーを浴びよう。昨日は汗だくのまま寝てしまったし(ごほんごほん!)、それに化粧もそのままだったし。
彼を起こさないようにとベッドを離れ、私はやはりシンプルだけど細部まで行き届いた状態のバスルームへと入っていく。
だるかったけど、何か、機嫌が良かった。口元が勝手に微笑んでいるのが自分で判って、鏡を見られなかったくらいだ。
朝から上機嫌、そんなことは、私の人生において実に久しぶりだった。
「起きて、もう7時なるよ」
シャワーから出たあと、簡単に身支度をしてから私は小暮をゆすっておこす。照れた。だって、男性とホテルで朝を迎えるなんてこと、私の人生では初めての経験だったのだ。
「・・・はよ」
ぼーっとしたままでヤツがむっくりと起き上がる。出世頭のちゃきちゃき営業マンは、どうやら朝が弱いらしい。
「今日も会社だし、私一度家に帰るから先出るね。自転車会社に置きっぱなしだし」
よく考えたら昨日、小暮に電車で送って貰ってたら自転車は放置になっていたのだった。その点だけを考えると、お泊りして良かったというか、なんというか。
恥かしくてヤツの方をろくに見ないで早口にそういう。同じ格好での出社はちっとも気にしないが、化粧だけはしなくてはならない。化粧直しをしない私の化粧道具は全部部屋だし、今からなら部屋に戻ってからの出勤でも十分間に合うのだ。
んー・・・と寝ぼけた声での返答が聞こえた。ぼーっとしているらしい。小暮はベッドの上に起き上がりはしたが、まだ羽毛布団に包まれたままでほとんど目が開いていない。
ちょっとちょっと、大丈夫なの、こいつ?
私は鞄を持った状態で若干心配になりながら声をかけた。
「小暮は家に戻るの?服とか、着替えなくていいの?」
ごしごしと手で顔をこすってから、ようやく少しハッキリとした声で小暮が言った。
「・・・大丈夫。急な出張に備えて、シャツと下着は鞄に常備してる」
あ、そう。私は肩を竦めた。
「じゃあ私、行くからね。ええと・・・それで、お金、どうしたらいい?」
財布を出して小暮を見る。昨日の飲み代もあるのだ。一円も払わずに帰るのは、気持ちが悪い。
ところが顔から手をどけた小暮は、やっとこっちを見てニッと笑った。
「いらねー。金貰うと、なかったことにされそうで嫌だから」
「え?」
「カメとデートして、抱いたっての、終わったことにしたくないっつってんの。・・・あのさ、一応聞くけど、亀山睦さん」
急に真面目な顔になってフルネームを呼ばれて、私は驚いて財布を握ったままで固まった。
「え。は、はい?」
「俺達もう、ただの同期じゃねーよな?」
「う」
「う、じゃなくて」
「ええと・・・」
「昨日の夜あんな顔見せといて、まだいいお友達とかなしだよな。俺の気持ちは知ってる、そんで、お前の気持ちは?」
小暮の口調は穏やかだった。だけど、布団に隠されている両手は握り締められているようだった。私は羞恥心から目をあわせられないがためにそれに気がついてしまって、余計に詰まってしまった。
真剣さがビシビシやってきたのだ。彼が出す真剣なオーラは、真っ直ぐに私に飛んできて突き刺さっていった。
今まで不真面目に、フラフラと漂って、色んなことを見えないことにしていたけれど、今回はそういうわけにいかないってこと。それが凄くよく判った。
答えないと。私も、ここは真剣にならないと。そう思った。彼を断る理由はない、別に嫌でもなかった、それに小暮といると楽しいし、昨日だって、久しぶりに感じてしまった。それに小暮と付き合うとアイツにも叱られたり嫌味を言われたりすることがなくなる――――――――――・・・
え?
私は一瞬、ぽかんとした顔をしてたと思う。
・・・アイツって、誰?
「おーい、かーめーやーまー。間が痛いんだけど、間が」
本当に痛そうに顔を歪めて、小暮がそういう。私はその声にハッとして、つい勢いよく頷いていた。
「えと、うん!勿論友達なんかじゃ・・・ない。あの・・・照れるわね、こういうの」
痛そうな顔をやめて、小暮がじっと私を見た。それからゆっくりと笑顔を作る。
「付き合うってことでいいんだな?」
「う・・・はい」
「お前は俺の恋人、そう?」
「うん」
「よし」
に〜っこり、と、小暮が大きく笑った。それから布団に絡まりながらごろごろとベッドの上を転がっている。
「うわああ〜、なんか、すっげー嬉しいもんだな〜」
わーいわーい、と言いながらゴロゴロと転がる三十路男が一名。わーいって・・・嬉しそうだけど、子供かよ、あんたは。
「そ、そう。それは良かった。ええと・・・じゃあまあとにかく、昨日の分と今日の分は、ありがとう」
私はちょっと苦笑しながらそういって、鞄を持ち直す。それから、じゃあ先に出るね、会社遅れないようにね、と言ってドアに向かう。
「カメ!」
ドアを開けたところで小暮の声。私は、え?と振り返る。まだ真っ白な布団に包まれながら、彼がニコニコと笑って言った。
「ありがとう。また、会社でな」
片手をあげて私も笑う。それからゆっくりとドアを閉めた。
一度会社に戻り自転車を引き出して、駅3つ分の私のアパートまでを自転車で走る。夏とはいえまだ朝の爽やかな風が吹いて、さっき洗ったばかりの髪を乾かしていく。
・・・さっき、何か変だった。
私は無意識に自転車を漕ぎながら、少し前の時間へ頭を戻す。・・・何か、忘れてる感じがしたのよ。何か、誰か・・・。
小暮と付き合うって、そのことを考えて、ええと・・・違和感があったような。
一体何を思ってたんだっけ?何を考えて変な気分になったんだっけ?
無理にその「何か」を思い出そうとすると、昨夜小暮とした色々な恥かしいことがバンバン浮かんでくるから困った。
一人で顔を赤くして、いつもの公園に自転車で乗り入れる。
そこでもまた、ぼんやりと変な気分になった。
漕ぐ足は止めなかった。
だけど、私はキョロキョロと公園の中を見回してしまう。
・・・・何か、忘れてる。
違和感だけを感じてもどかしい。それでも自転車は止めなかったから、公園はすぐに通り過ぎてしまった。何かあそこであったような。いや、そんなことないか。だってあそこは毎日通るんだし。でも、いや、だって・・・。
「何だってのよ、全く!」
何か気持ち悪い、その状態のままでアパートへ辿り着き、部屋へ入る。鍵を閉めて電気をつけて、新社会人になって以来ずっと一人で過ごしてきた部屋を見回した。
――――――――――何かが、足りない・・・ような。
きっと眉間には皺がよっていたはずだ。とにかく時間がなかったから、私はパッと着替えて菓子パンを口に突っ込みながら簡単な化粧をする。
それからもう一度、自転車に乗って会社へ向かった。
慣れ親しんだ景色のどこを見ても、何かが足りない、そんな感じがするのだ。気持ち悪い。ぶすっとした顔のままで自転車を漕ぐ。
何かを忘れてる?でも思い出せない?・・・なら、もうそのままでもよくない?
「だって思い出せないってことは、それほど重要じゃなかったってことなんでしょ」
声に出して言って見て、そりゃそうよねと確認する。
きっとすぐ忘れちゃうようなことだったんだろうって。だって、思い出せないんだもの。それについて考えて頭を疲れさせる必要なんてないじゃないの?今日だって、あのやたらと複雑な計算がまってるはずだし・・・。
「あ」
そこで、私は社員通用口の前で手を大きく振る後輩の美紀ちゃんをみつけた。
だから変な気持ち、は即行で捨てた。だって、あの子に色々聞かれるだろう。その方が今は大変なんだわ!そうに決まってる。
小暮と付き合うようになったって、どうやって話そうかな―――――――・・・
多少うんざりしながら、それでも長い間忘れていた自分が主人公の恋愛話をする興高揚した気分を思い出した状態で、私は美紀ちゃんへと向かって行った。
この時、その気持ち悪い「忘れている何か」のことは、完全に放棄したのだった。
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