1、小暮の笑顔




 蝉時雨もマシになってきた8月の終わり、私は美紀ちゃんの声でハッと我に返った。

「亀山さーん、食堂行きましょう〜!」

「え?あ、はいはい」

 ずっとパソコン画面をにらみつけていて、水分の失った両目をしばたく。現在進行中の新企画に伴って、外部との連携に使うらしい予算編成で、最近はずっとパソコンと計算機と格闘している私だった。

 数字とブルーライトが瞼の裏でダンスをしている。

 ああ、疲れた・・・。

「やれやれ・・・。目の故障だけでなくて、腰痛もちにもなりそうよ」

 うーんと椅子に座ったままで伸びをしていると、自席から迎えにきた美紀ちゃんが労るように優しく笑った。

「ほんと、この梅雨辺りから亀山さんが仕事にやる気出してくれて助かります!今回の計算はちょっと複雑で時間もかかりますよね・・・まだ出来るメンバーがいないから、亀山さんが頼りです」

 そう、私が実に使えないお局を体現していた間、この会社の総務はこの出来る後輩、山本美紀ちゃん一人の肩にかかっていたのだった。彼女は私に仕事を振っては来ていたけれど、それはやはり当たり障りのない、締め切りまで時間があるようなものに限られていた。ところが今では、私がまともに仕事をするので彼女の負担は目に見えて減っているのだった。

 それが判るから私は苦笑して、立ち上がる。自分がやらねば!とか、美紀ちゃんを助けよう!などと殊勝な心がけになったわけでは、残念ながら、ない。そうではなくて、私は突如消えてしまった男神であるダンの存在を頭から追い出すために、今まで以上に仕事にのめりこんでいたのだ。

 ま、これも一種の自己防衛だ。



 ランチも一人にはならないようにして。

 帰りは自転車でDVD屋やコンビニに寄り、雑誌や映画を手に入れてから帰るようにして。

 晩ご飯を一人で食べながら、別の世界へ没頭出来るように。

 ヤツのことを考えずに済むようにしていた。やつの綺麗な顔が頭の中を通り過ぎるたび、まだ名前を呼んでしまうたび、一人の部屋が広いなんて思ってしまうたびに、私はヤツを罵って、ますます一人の世界へ没頭出来るように頑張る羽目になった。

「この夏は結局、一度も海に行かなかったな〜」

 会社の中の空調のきいた廊下を歩きながら、美紀ちゃんがそういう。確かに、清楚な外見とは違って中身はアクティブな彼女は、夏場は海へ潜りにいっていると聞いたことがあったな、私はそう思い出して、話を振った。

「ねえ、例の婚約者君とは旅行とかいかないの?」

 そういえば、彼女に実は婚約者がいるというぶっ飛ぶことを聞いた割りには、私は個人的に砂嵐の中にいたので詳細を聞いていなかったのだった。

 美紀ちゃんはふんわり微笑んで首を振る。

「行きませんねえ。彼とは大体、趣味が全然違うので」

「へえ」

「私は外へ出たいし、彼は中で寛ぎたいタイプ。同じ年なのにえらくオジサンみたいなんですよ〜」

 そう言って、ケラケラと笑う。

 食堂前は混雑していて、食券を買うのに並ぶ必要があった。私と美紀ちゃんはその列に加わりながら進んでいく。

「同じ年なんだ〜。彼氏でなく婚約者ってところがやっぱり驚きだけど・・・」

 私がそう呟くと、彼女はにんまりと笑った。

「亀山さんは本当に人のことも気にしませんね?ここは大体皆、根掘り葉掘り聞くところだと思うんですけど。彼はいくつ?どこで知り合ったの?何で婚約なの?とかね」

「・・・へえ」

 そ、そうなの?私は肩を竦めた。だって、興味がないんだし。

「だから自分から言いますけど、相手はうちの父の親友の息子さんなんです。親同士の馬鹿げた約束だったんで、本人達は全然そのつもりもなかったんですけどね、まあ、近くに住んでて幼馴染でもあるから気心も知れてるし。いいかって、そのままになってるんです」

「親同士の約束?ってどういうこと?」

 そう聞くと、美紀ちゃんはにやりとした。食いつきましたねって言ってるような顔だ。

「俺らいつか家族になりたいなー、ってまだ学生だった父たちが約束したんだそうですよ。で、子供らを結婚させりゃあ家族だなって思ったんだそうです。丁度同じ年にどちらの家にも赤ん坊が生まれて、しかも性別が違ったんで」

 バカみたいでしょ?そう、美紀ちゃんは苦笑しながらそう話す。私は心の中で「へー」ボタンを連打しながら聞いていた。

「別に好きな人が出来たらどうするの?」

 ちょっとばかり気になったことを聞いてみる。その場合はどうなるの?既にそのつもりのお父さん達の説得をするのだろうか、と思って。

 美紀ちゃんは食堂の看板で本日の定食を確認しながら、どうでも良さそうに言った。

「うーん・・・まあ、なさそうですけど・・・。解消、するんじゃないですか?今は、どっちもそのつもりでいますけどねえ。来年にはって親が盛り上がってるし」

「え、来年には美紀ちゃんたら結婚?」

 私はパッと隣を振り返った。つい声が大きくなってしまったらしい。順番待ちをしている時に話すにはあまりにもプライベートなことだったわ、そう思って慌てて口元を覆う。

 彼女も小声になって言った。

「多分そうなると思います。元々私も彼も恋愛体質ではないみたいだし、このまま進むんじゃないかな」

「え、え、じゃあ仕事は?」

 辞めちゃうの!?私にとってはそこが大事なところなのだ!うちの頼りになる後輩が、辞めてしまったら――――――――事務所、すんごい大変。

 すると美紀ちゃんはにやりと笑って首を振った。

「まさか。妊娠でもすれば話は違いますけど、結婚したからって何で仕事を辞めるんですか?私、亀山さんが心配だし、まだ当分見守らなきゃでしょ」

 私はほーっと胸を撫で下ろした。心臓に悪いったら、全く。

「ああ良かった。私のことはともかく、美紀ちゃんがいなくなるとうちの会社はかなりの損害よ」

 本心からそう言うと、彼女は嬉しそうに笑う。それから、やっと順番が回ってきた食券を買うために財布を開けた。


 時間は進んでいって、こうやって周囲も少しずつ変わっていく。

 古い人が辞めて、新しい人が入ってくる。会社のシステムも少しずつ変わり、5年前の常識が今では非常識になってしまう。

 その変化は体験中はちょっとしたことでも、後からみれば結構な大きさとなっていることが多い。

 私は暑さとパソコンで疲れた胃を慰めるために熱い月見うどんをすすりながら、そんなことをぼんやり考えていた。

 前では美紀ちゃんが明るく話している。

 今進行中の企画、それから事務所のアレコレ。会社のこと、それから昨日のテレビのこと。

 それから―――――――――


「あ、小暮課長、お疲れ様です!」

 彼女の笑顔が更にパワーアップした。

「ぐふっ!」

 私は一瞬うどんを喉に詰まらせそうになって死にそうな思いをする。出た!?出たの、あの男が!?そう思ったからだった。

「お疲れさま、山本さん。亀山――――――ちょっと詰めて」

 爽やかな低い声が頭の上から降ってきて、私はその正体を見る暇もなく隣の椅子に置いた自分のひざ掛けを退ける羽目になる。

「ありがと」

 カツカレーをトレイに載せた小暮が、愛嬌ある笑顔で私を見下ろしていた。

「・・・お疲れ」

 きまり悪くてぼそぼそと返す。あれ?今日は会社にいたの?営業なんだから外回りしてなさいよ、そう頭の中で呟きながら、私はうどんをお箸で掻き回す。

「あ!そうだ」

 次の瞬間美紀ちゃんが前の席から立ち上がって、私はえ?と彼女を見上げた。

「すみません亀山さん。先に戻りますね、笹田さんへ電話しなきゃならないんで」

 に〜っこりと、大きな笑顔の美紀ちゃん。

「え?電話?」

「そうです。今定食食べてて思い出したんですけど、企画の件で、ええ」

 そう言ってニコニコと微笑む後輩を、私は苦々しく睨んだ。思い出しただと!?笹田さんに電話〜??そんな話はカケラもなかったじゃないの、さっきまで!!

「では小暮課長、失礼します。どうぞごゆっくり」

 おいおい露骨だよ、美紀ちゃん。呟けど、行動力のある後輩はすでにおらず。総務も今忙しいんだな、と隣でいう小暮に曖昧に笑ってみせただけだった。

 ・・・くそ。

 結局騒がしい食堂の端っこで、私は小暮と二人でご飯を食べることになっている。一々確認はしないけど、きっとこれを派遣社員さんの団体さんは睨みつけているのだろうし、それに、ダンも喜んで――――――――――

 ・・・見てねーだろうな、まさか。

 私はお箸を持ったままで、思わずキョロキョロと周囲を見回した。天井の辺りは特に丹念に。やっぱりヤツはいなかったけど。

「どうした?」

 小暮がガツガツと食べながらそう聞く。私は慌ててうどんを凝視した。

「いえ、別に、何でも」

「誰か探してるのか?」

「うん?・・・そんなことないわよ?」

 ふーん、と小暮が呟いて、冷水を飲み干す。焦っていた私はつい、彼にピッチャーで水をサーブしてしまった。

「あ、サンキュ。ってかカメ、よくキョロキョロしてるよな」

「そ、そう!?」

 声が裏返ってしまった。何か硬いもので自分の頭をどつきたい衝動を抑えながら、私はまたもやうどんを凝視する。落ち着け落ち着け。何でもないことでしょ、私!

「うん。だから誰か探してんのかなって」

 スプーンをさっさと動かしながら、小暮は淡々と私を追い詰める。声が思わず低くなってしまったのは仕方ないことだと自分でも思いたい。

「いや、別に誰も探してない」

「だってさっきもキョロキョロと」

「・・・してないわよ」

「してたぞ」

「してない」

 ううう〜!!イライラして、私はぐっと顔を顰める。ああ、これでまた皺が増えちゃうじゃねーかよ、くそ。

 食欲がなくなってお箸を放り出す。

 小暮はチラリと私を見て、苦笑したあとで言った。

「・・・まあ、別にいいんだけど。なあカメ、もしかして、俺って邪魔?」

「へ」

 困った。私はため息をつきたい気持ちを抑えて額に手をやる。あーあ・・・。

「・・・そんなことないわよ」

 だって邪魔ではない。基本的には一人でいるのが楽だけど、美紀ちゃんにランチに誘われるのだって小暮が一緒するのだって、別になんてことないのだ。ただ、もう前みたいに「ただの」同期とは思えないから、困るってだけで。だって、あんたは私にあろうことか真剣な告白をして―――――――――――

 お皿を綺麗にした小暮が、体をこっちに向けたのが視界の端にうつった。

「じゃ、また隣に来ていい?」

「どうぞ」

「本当にいい?」

「うん」

「ほんとーうに?」

「・・・何なのよ。駄目って言おうか?」

 あははは、と小暮の笑い声。何がおかしいのだ一体!私はギロリと隣を睨む。突き刺さっているはずの私の険しい視線は一向に気にしていないようで、小暮は軽やかに言葉を続ける。

「カメ、調子いいのか?」

 私は視線を外して深深とため息をついた。ああ、疲れる・・・。ざわざわと喧しい社員食堂を見回して、誰か助けてくれそうな人を探してみたけれど、小暮の上司とか他の同期とか丁度いい人間は誰も見当たらなかった。だから観念して会話に付き合うことにする。

「そうね。仕事は今ちょっと忙しいけど、体調は悪くないかな」

 ふーん、小暮がそう呟くのが聞こえた。彼は水を飲み干してコップを空にすると、それをトレーの上においてから私を振り返る。

「良かったな」

「うん」

「それは良かった。商売繁盛なわけだ」

「うん」

「しかも体調もいい」

「うん」

「今晩飲みにいかないか?」

「うんってば!―――――――・・・へ?」

 しつこいな!そう思って声を荒げて、つい、答えてしまっていた。私はぱっと隣を見る。・・・今、何てった?

 目の前には嬉しそうに笑った小暮の顔。ガタンと音を立てて椅子から立ち上がる。

「じゃ、仕事上がったら前の居酒屋で」

「えっ!?ちょっと―――――――小暮?」

「お先〜」

 最後ににやりと笑って素早くトレーを持って、多忙な営業職のヤツは行ってしまった。

 ・・・あれ?

 あとに残された私は一人で、食べ切れないうどんの丼を前に呆然としてしまっている。何か今、とても素早く罠にひっかかってしまったような気が?

 ってかそうなのか。私はヤツの、営業トークにまんまと絡め取られて――――――――・・・

 ・・・え?ご飯、食べるってこと?

 小暮と?

 私が?

 二人で?

 今晩?

「・・・ええ〜・・・・・」

 どうしてこんなことに。私はそう呟きながら、脱力して椅子にもたれかかったのだった。




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