4−A
『どこにいても邪魔なんだから』
いつか派遣の美人に言われた言葉が頭の中を回る。
腹が立つ、とか、情けなくて悔しい、みたいなことはなかった。
だって私は自分が会社の役に立っていないことを知っている。
判ってて、今までダラダラしていた。
そりゃ真剣に働いている人にはムカつかれて当然だろうって思っていた。
だから周囲の声は聞こえないようにしてきたし、それを気にするようなプライドは自分で崩してきたのだ。
美紀ちゃんと別れてトイレに入る私に、天井近くからダンが声をかけた。
「・・・ムツミ、こんな時には泣かないのか?」
振り返る。ダンは、透明な視線で私を見ていた。
「泣かないわよこんなことで」
「どうして?悲しくないのか?」
「特に悲しくはないわ。まあ当たり前だと思えるから」
静かに個室のドアを閉める。
泣く?いいえ、そんな必要はない。こんなことで一々泣いてたら、独身窓際族なんて3年も出来ないのよ。それに悲しくて泣くよりも、私にはもっと驚いたことがあったのだから。
誰かが、私の陰口を聞いて怒ってくれるとは思わなかった。
驚いたのだ。
小暮や、沢井や、美紀ちゃん・・・私の為に、怒ってくれる人がいるってことに。
存在を、受け入れてくれている人達もまだいるってことに。
午後の仕事の間も、美紀ちゃんは怒っていた。
私は電卓を叩く手を止めて、周囲の人間がチラチラと美紀ちゃんを盗み見るのを見ていた。
私が倉井に対して怒らなかったので、彼女は怒りを発散しようがないのだろうと判っていた。だけど、たまたま廊下で立ち聞きしてしまった私を省いた飲み会の会話で、一体何をどう言えばよかったのだろうか?
ちょっと!何で私をハブるのよ!?とでも怒鳴ればよかったのかしら。・・・でもどうしてかって説明してたしな。その気持ちは頷けたし。確かに、今までの同期の飲み会でも倉井から私に話しかけたことなどなかった。きっとヤツはずっと私にイライラしていたのだろう。それで幹事になった今回、形に表したのだろうし。
ふむ、仕方ない。
私はコピー機に行くついでに美紀ちゃんの後ろを通りかかり、彼女の机にメモを投げ入れる。
美紀ちゃんは驚いた顔をして一瞬私を見てから、そのメモに視線を走らせた。
中身はこれ。『今晩時間あれば、頭に来たぜ飲みに付き合ってくれない?』。それで彼女のストレスを発散させよう、でなくちゃ折角最近は機嫌よく過ごしてくれていた頼りになる後輩が可哀想だし、事務所の空気も冷え切ったままだ。そう思って誘うことにしたのだった。
私からプライベートで誘ったことなどない。普段自分からはランチの誘いもしない先輩が飲みに誘ったってことで、彼女の怒りがちょっとでも静まればいい、そう思っていた。
コピー機から戻るとき、くるりと振り返った美紀ちゃんが、真顔で親指を突き立てるのを見た。
『オッケーです!!』
そういう声まで聞こえてきそうなピンと立った親指につい笑ってしまう。
よし、今夜は女の子とデートだ(背後霊つきだけど)!
そんなこんなで何とかムカつきから解放されたらしい美紀ちゃんが立ち直ったので、事務所も普段の空気になる。私は自分に振られた仕事を片付けながら、近寄ってきたダンを無視しようと努力していた。
美紀ちゃんを誘ってから、何故かダンが天井近くから降りてきたのだ。
「ムツミ」
「・・・」
「ムツミ〜」
「・・・今は仕事中なのよ」
ボソッと呟く。キーボードを叩く音を大きくして、自分の声を消した。ダンは私の背後をウロウロしながら肩をポンポンと叩いてくる。
「じゃあここから出よう。ムツミ〜」
「・・・」
「ムツミってば〜。俺が一人で喋ってても意味ないからさ、ね、ほら、外に行こう」
「・・・」
「おーい、カメ女〜」
「・・・」
「仕方ないな〜」
ダンは返事をしない私の前の机にどっかりと腰掛けて、これ以上ないくらいの邪魔物になった。パソコンと自分の間に白くて綺麗でキラキラ光る物体。
私はイライラを抑えながら、何とかあっちに行け、のジェスチャーを控えめにする。うおおおお〜、このお綺麗な顔に研いだ爪を突き立てたい!
するとその整った顔をぐんと私の顔間近に寄せて、ダンが低めた声で言った。
「―――――――無視を続けるならキスするぞ〜」
・・・あ?
私は手を止めて、目の前の男(注:分類上、神)を凝視した。これも端からみたらただ前方をじーっと見詰めているだけの変な女になってるに違いないけれども、今はそれに構ってられなかった。
以前私が、ちょっと「エ」と「チ」を弾んでいう単語を連発したら、恥かしがってゴロゴロと床を転がった物体が、今、何て言った?
ダンはその美しい瞳を細めてゆっくりと笑う。キラキラと細かい光の粒子をばら撒いて、それは素晴らしく色気のある微笑みだった。整った口元が近づいてくる。その綺麗な唇が少しだけ開かれた状態で、すぐそこに。
私はそれを見て息も絶え絶えになり、クラクラとよろめい―――――――――――たりは、しなかった。
代わりに、思いっきり不機嫌な顔をして目の前のパソコンをぶっ叩いた。
バコン!と凄い音がして、事務所内のアチコチから視線が突き刺さる。奥から課長が、亀山さん?と聞くのに、私は真顔で会釈をして謝罪をする。
「すみません、お騒がせしまして。ちょっとノイズが、パソコンに」
え?と怪訝な顔をする課長以下数名の事務員をスルーして、私は立ち上がる。
「資料室行ってきます。他に持ってくるものある方いますか?」
全員が目を丸くしたままで首を振った。なので私はそのままでスタスタと部屋を出る。ああ、視線が背中に超痛い・・・。
さっきはパソコンを殴りたかったわけではない、勿論、バカ神を殴りたかったのだ。だけれどもそれは叶わなかった。以前にダンがいった、人間は神には触れないってのは本当だった模様だ。私の手は目の前、机に腰掛けるダンの体をすり抜けてしまったのだから。
廊下を早足で駆け抜ける。早く早く資料室に入り、あのバカ神を怒鳴りつけたかったのだ。もうすぐ、もうすぐで資料室――――――――・・・
資料室へ着く、ドアを開ける、中が無人なのを確かめる、それから乱暴にドアを閉めて、後ろについてきたダンを睨み付けた。
「こ〜の〜クソバカ神〜っ!!」
「おや、怒ってるのか、ムツミ?」
うおおおー!この煮えたぎる怒りをどこにぶつければいいのだ〜!!私はイメージの上ではゴ〇ラのように東京タワーを破壊していた。
「あんたねえ!いい加減にしなさいよ!邪魔しないんじゃなかったの!?」
神は殴ることが出来ないから、仕方なく手のひらで本棚を叩いた。パンパンと思いっきり。
ダンはドアの所から私を見て、にやりと笑う。
・・・うん?あら、どうしたのかしら。私は怪訝に思って一瞬怒りが覚めた。いつもと、ダンの様子が違うのだ。言葉使いはそこらを歩いているちゃらちゃらした兄ちゃんのようだが、やはり真面目な態度や対応が「神がいるならこんなのかもねえ」と勝手に思っていたようなものだったのだ。
だから、いつものダンならここは真顔でシレっと謝るはず・・・。それは悪かった、とか言って。
だけど目の前で、ダンは色気増量キャンペーン中の微笑みでこちらを見ている。それにあんなこと、今までのダンなら言わなかっただろう・・・キスするぞ、とか。
ヤツは無駄にキラキラした光の粒子を振りまきながら、更に微笑みを大きくした。これが「神の微笑」か!・・・って、まんまじゃん。
「ムツミを観察対象とすべし、そう思って俺なりに頑張って距離を開けていたんだ。最初は礼儀正しくしていたし、セクハラだと侮辱されてからは手を差し伸べるのもやめて」
礼儀正しくのところで私は噴出したし、手を差し伸べるのところで懸命に爆笑を飲み込んだと言っておこう。一体何なんだ、この勘違い野郎は?
私のあからさまな反応にも気がつかないのか、とにかく美形であることは認める綺麗な顔に微笑みを浮かべたままでダンは続ける。
「だけど、それは本来の俺のやり方じゃないなって」
「はあ」
「だからもう観察も、通例通りじゃなくて好き勝手やろうって」
「・・・はあ?」
「俺は気が向いたらあんたに話しかけるし、ムツミの都合など考えない。俺の好きなように、あんたを観察することにしたんだ」
――――――――クラクラ。
神様!・・・いや、こんなひよっこのバカ者でなく、本物の全知全能の神様!成り損ないがこんなところで油うってますよ〜!お迎えにきてください〜!
私は眩暈が酷くなった為に壁にもたれ、心の中でそう絶叫した。
つまり。
つまり?
ダンは今までの猫かぶり(つってもそれもいい加減だったわけだけど)を止めて、好き勝手やるって言ってるのね?それでいいのね?
私は疲れの為にひく〜くひく〜くなった声でぼそぼそと言う。
「・・・私を観察対象から外して頂戴。お願いだから」
ダンはふふんと口角を吊り上げた。
「い〜や〜だ〜ね」
「・・・」
「俺は頭にきたんだよ。あんたみたいな生き物みてるとイライラくる。自分で幸せを掴み取るんだよ、ムツミ。それを見届けるまでは、観察はやめない」
何だってー!冷や汗が出てきた。私はそれを無意識に手のひらで拭いながら、何とか声を出す。
「あんた学生って言ってなかった!?なら卒業はどうすんのよ!?」
うがあ!と叫んだ私に、ダンはふわふわと軽やかに浮かびながらハハハハと笑う。
「そんなの問題ない。興味本位でいってたところだ。俺はもう決めたんだ、ついさっきね」
「あ?」
「ムツミが、自力で幸せになろうと努力するまで、観察は続けるんだ」
「そんな迷惑な!」
それって一体どんな修行!?これは夢なの?ああ、もしそうならダンが現れたあの夕方からを全部夢にして下さい。どうか、どうか――――――――――
涼やかな声が天井から降って来た。
「だから、言ってるだろう」
見上げる先には美形の男。プラチナブロンドの、極上の美形が笑っている。
「全て終われば、俺がいた期間のことは幸せな過去の記憶にかえてやるって。だからお前は、少しでも早く努力を始めることだ。そうすればそれだけ、俺が離れる日も近くなるんだよ――――――――」
ダンのメモBそもそも、俺らしくないことはすべきではなかったんだな、うん。
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