3−A
涙の浮かんだ両目をぐっと閉じた。
その時、両手に力が戻ったのが判った。私は間髪いれず、渾身の力を込めて抱きしめてくるダンの体を強く押す。
やつの体は空気のようだった。抱きしめられていたのに不思議な話だが、私の押した両手に感触はなかったのだ。だけれども、ハッとしたように言葉を止めて、ダンはふわりと私から離れる。
ようやく戻ってきた呼吸を懸命にしながら、私はヤツを睨みつける。情けないことに両目からはボロボロと涙が落ちていた。だけども拭わなかった。今視線を外したら、認めるようで余計に悔しかったのだ。
私は、私の今までを後悔してなど、いない。
「か、か、勝手な、こと、言ってんじゃないわよ」
ダンはこちらをじっと見る。その光り輝く全身をピンヒールで踏みつけたかった。
「よくもたかが2週間やそこら観察した程度で、私の今までを否定してくれたわね」
「ムツミ」
堤防決壊だった。バケツの水をひっくり返したようにダダーっと出る涙が鬱陶しい。私は、泣いてる、暇なんか、ないんだからー!拳を握り締めて、その痛みを頼りに声を振り絞る。
「消えて、バカ神!この人生はあんたのものじゃないのよ、何が何でも自分の価値観に当てはめようとするのを止めてちょうだい!」
と、私は言ったつもりだった。だけどすんごい涙を流しているせいで、ついでに鼻も壊れていたから酷い発音になっていた。全部に濁点をつけてちょうど、みたいな。
とにかくそう叫ぶみたいにいって、あとは完全無視をしたのだ。
一度か二度は、ダンが呼びかける声が聞こえたような気がする。だけど私は既に子供みたいな号泣をしていて、それには見向きもしなかった。
自分の今までをいとも簡単に否定されたことが悔しかったし、少しばかり悲しかった。私が自分に持っている「これでいいのよ」という自信。それを崩されてしまったら、一体何を拠り所にしていけばいいのだ。この理不尽な世の中で、いつも足を地面につけて踏ん張っている。それはいくらダラダラ生きている私でも、失くしてはいけないプライドだったのに。
誰もいない電車の中、私は自分の降りるべき駅に着くまでおいおいと盛大に泣いた。
頭の中が空っぽになって真っ白に染まるくらい、何も考えずにぎゃんぎゃん泣きまくった。
車掌さんが一度様子を見にきたのかもしれない。だとしても、一人で座席に突っ伏して泣き崩れる深夜の電車女は怖かったことだろう。とにかく邪魔はされなかった。
公共の乗り物で泣いたことなど勿論ない。
しかも怪獣が叫ぶみたいな号泣なんて、自分がするとは思わなかった。
最初は悔しさから泣いていたのだろうと思うけれど、最後の方は泣くという行為自体が目的になっていて、とにかく私は声を上げて泣きまくったのだ。
滅茶苦茶迷惑な乗客だ。車掌さん、それからあの電車のあの座席、すみません。騒音苦情や私の涙でぬれてしまった座席の弁償請求は、どうぞあのバカ神にして下さい。
興奮していたけれど、耳はちゃんと自分の最寄駅のアナウンスをキャッチして、私はヨロヨロと立ち上がる。知らない間にダンは姿を消していて、私はまだぐずぐず言わせながらホームに降り立った。
・・・泣いて、ちょっとスッキリした。いや、かなり、だわ。かなりスッキリした。
別に泣きたかったわけではないと思うのだけれど、ヤツに対して積もった怒りはあの涙で発散できた。それから日々の少しずつの、色んなものに対する思いとか。多分。
夜空には星、その薄い光を見ながらぼーっとアパートまで帰る。ダンはきっと近くにいたのだろうけれど、まだ姿は見せなかった。
たまには泣くのもいいのかもしれない。私は暗い夜道を歩きながら、ぼんやりとそんなことを考えた。家族が見たらビックリするような見事な号泣だった・・・。今までは泣く理由がなかっただけで、とにかくさっきはその理由があったのだし。
だけど。
折角の酒も、抜けちゃったじゃないのよ・・・・。
――――――――――あのボケ神め。
結局、私が家に帰るまで、ダンは姿を現さなかった。
目の腫れはどうしようもないが、鼻水だけでもとにかく収まった私は、部屋着に着替えてから小さな家中を見渡せる場所(つまりベッドの上)に立って、腰に両手を当てた。
「こぉら、神!いるなら姿を見せなさい!」
しーん。応答なしで、まるで自分がバカみたいに思える。だって、見た目一人しかいない部屋の中で、ベッドの上にふんぞり返って立って適当に目のビームを発射している私なのだ。
ちょっと恥かしいぜ。その照れを誤魔化すために、私はさらに声を尖らせる。
「あん?消えたの、バカ神!?じゃあこれで観察は終了ってことにするわよ。それならそれで、私は清々するけれど、とにかく覗き見のお礼くらい言ったらどうなのよ―――――――」
「終わりじゃない」
窓際に、するっとダンの姿が現れた。
お、いたのか、やっぱり。
私はそちらに体を向けて、じろじろとヤツを見回す。上から下まで丁寧〜に。・・・くそ、綺麗な男だな、本当に。余計腹が立つわ、ほんと。
ダンは不機嫌そうだった。眉間にうっすらと皺を寄せて、何色とも表現出来ない美しい両目を細めている。
きっとこの姿をみて、涎垂らして喜ぶ女もいるはずだ。
だけど、私はそうならない。そりゃあ正直、やっぱり2秒くらいは見惚れてしまうけれども、そんなことは無視よ、無視。
「バカ神と呼んだのを謝罪して訂正しろ、ムツミ。俺を侮辱するのもいい加減にしてくれ」
「なら私を生きる価値もないダメ女みたいに言ったことも訂正の上で謝罪しなさいよ!侮辱はお互い様でしょうが」
じとーっと見ていたら、ダンは渋い顔をしていたけれどもゆっくりと頷いた。それから、ボソッとではあるが、すまなかった、と謝った。
私はちょっと驚いてマジマジと見詰める。・・・おやまあ、謝ったよこいつ。うーん、神というのは案外素直でいい生き物(なのか?)かもねえ・・・。
だけど相手が謝ってしまったので、社会人として私も謝ることにする。給料は我慢代・・・いや、別にダンからお金は貰えないんだけど、とにかく幸福な記憶は貰えるそうだしね。
「私も悪かったわ。あなたのことをバカとかクソとか叫ぶのはしないように努力する」
両手を腰から離し、一応頭も下げておいて、それから意地悪そうな声を作って言ってやった。
「それで、ダン。カミサマの観察には、対象相手にセクハラしてもいいってことになってるの?」
ダンが首を捻った。
「セクハラ?」
「エロいことよ。電車であんた、私を急に抱きしめたでしょ」
ダンの口元がひゅっと上がった。・・・うわー、何だこの滅茶苦茶バカにした表情〜!感じ、悪!
「あれが問題なのか?人間は、あれで性欲が刺激されるのか?俺はお前を素直な状態にしようと思っただけだ」
「素直!私はてっきり子供扱いされたのかと思ったわよ!抱きしめて頭を撫でるなんざ、母親のすることでしょうが。いい大人を子供扱い、つまり、バカにされたのかしらと思ったわけよ」
「・・・根性ひねくれ過ぎてるぞ、カメ」
「喧しいわエロ神!」
ふん、とヤツが顎を突き出し、今度はハッキリと鼻で笑ったのが判った。
「あのくらいで何をぎゃあぎゃあと・・・誰なんだ、みっともなく号泣した女は?いくら経験がなくてもただの抱擁と性的抱擁の違いくらいムツミでも判るだろう。あれくらいでエロ神などと侮辱されるとは思わなかったなー」
「経験が少なくて悪かったわね!それに、侮辱するならもっとちゃんとやってやるっつーの」
「俺が」
ダンは私のブーイングを生意気にもスルーして薄く笑った。
「・・・本気で女性を攻略しようと思ったら、ただ抱きしめるだけなんてことはない」
―――――――あ?
私は目を瞬いた。
ダンは綺麗な顔にうっとりするような色気を出して、ニッコリと笑う。
「天上には女神だってたくさんいるんだ。いい異性は人間だろうが亀だろうが神だろうが競争率は高い。俺は今まで自分の狙った相手を落とさなかったことなどない」
「・・・へー」
「相手を幸せな気分にすることなどお手のものだ。ハッキリ言うが、俺はその点自信がある」
「・・・ほー」
「だから、ムツミを意識して抱く時はあんなものじゃなくて―――――――」
「・・・」
私は無言で耳に小指を突っ込んだ。
ぐりぐりぐり〜。
「・・・おい、聞いているのか?ムツミ」
相変わらずお子様で短気な(私に言われたくはないかもしれないけれども、そこは黙殺)男神であるダンが私に近寄ってくる。
それも黙殺して今度はベッドの上に胡坐をかいて座り、ストレッチを始めた。
ぽてぽてと近づいてきて、ダンは唇を尖らせて私を覗き込む。
「おーい、ムツミ〜」
「ねえダン、知ってる?古今東西世界各地、一番嫌われる話は自慢話なんだってのよ」
「じ、自慢話?」
その瞬いている美しいお目目をアイスピックで突き刺したいぜ。私ときたら相変わらず泣きはらした為に3割増しの不細工な目で、ヤツをガン見した。
「あんたのさっきの話はつまり、俺様ってば超美形だから女はバカみたいにホイホイ寄ってくるんだわ〜ってヤツでしょ?きょーみないわ〜悪いけど」
何と、ヤツはショックを受けたようだった。ムンクの叫びそっくりの顔をして、呆然と突っ立っている。自信満々の俺様ドヤ顔は一瞬で消えた模様。私はそれにちょっとばかり満足した。
「・・・俺はそんなことは言わなかった」
「そう聞こえたわよ」
断じて違う!ダンはそう言って、ぐいぐいと私に近づいた。
「俺は相手を大切にする。それに、美しいものは好きだし女性も好きだ。気に入った相手にはちゃんとアプローチをかける。そうすれば必ず相手も答えてくれたと言っているんだ!お互いに尊敬しあいながら付き合いを深める、その素晴らしさが判らないのかお前には〜!」
「わっかんないわね〜え。だって所詮神でもやることは同じなんでしょ?抱きしめて?チューをして?それから合体して、でしょ?」
「が、合体・・・!」
ダンが、何と今度は赤くなった。恥かしいらしい。ヨロヨロと後ろに下がって赤くなった頬を押さえている。・・・えーと、そんなキャラだっけ、あんた?私はまさかの反応にちょっと呆れてしまった。
偉そうで俺様だと思う時もあるのに、今は幼稚園児みたいになってるよ。もしかして多重人格なの、神って?
「え、もしかして神ってエッチしないの?そういえばどうやって繁殖するわけ?生まれるものじゃないならエッチもいらないわよね、そう言えば」
「ムツミ〜!」
何度もその言葉を言わないでくれ〜!そう言いながら、ダンは両耳を覆って恥かしがる。
「あんた、大人なの、子供なの?」
本気で呆れた。
さっきまでの自信満々な態度の美形の男は姿を消して、うずくまって一人で照れまくっている。ああ、足でガシガシ蹴り飛ばしたい・・・。そしたらきっとヤツはコロコロと転がって・・・あの綺麗な金髪が床の上に広がって・・・うへへへ。私はその悪魔の囁きを無視するのに苦労した。
ダメダメ、どうせ人間は神に触れることが出来ないそうだから。
一度深呼吸をして自分を落ち着けると、神様の繁殖形態という新たな興味を頭の中から追い出した。それから両手に腰をあててダンを見下ろす。
「とにかく、私はそんなことを言ってるんじゃないのよ。いい?あんたは観察対象の私に余計なことをベラベラと喋り、挙句にいきなり抱きしめておいて、素直になれなんて説教を垂れた」
「・・・」
「それは完全に余計なお世話だし、私はあんたにうっとりするどころか言われたい放題に悔しくて泣いたのよ」
「・・・」
私はピシッとつきたてた人差し指を、顔の前で揺らした。
「あんたにとって私の人生が、惨め〜で、切なく〜て、ど〜うしようもない、夢も希望もないようなモノに思えても、私自身はその人生をこよなく愛していて、満足しているのよ」
ダンはショックを受けていた顔を真顔に戻した。
私は幼子に言うように優しくて丁寧な態度で彼を覗き込む。
「だから、私の人生に対して、口を、だーさーなーいーで」
「・・・ムツミ」
「判った?」
ダンがしゅっと目を細めた。唇を噛んで、しばらく無言で俯いている。
私はダンを見ていた。
八つ当たりだと言われ様が何をしようが、私は言いたいことをいったのだ。そしてそれは大事なことだった。少なくとも私には。
ダンが立ち上がる。それから、私に向き直った。相変わらず全身からキラキラとオーラを出しながら、やつはコクンと頷く。
「・・・判った」
「それはどうも」
ダンがするりと後ろを向いて窓に向かって歩き出す。そして、そのままですうーっと姿を消してしまった。
私はそれをじっと見ていた。
頭の中では、ダンの真面目な顔、拗ねた顔、照れてジタバタと転がる姿が浮かんでは消えていく。それから、いつものあの笑顔も。
何となく、胸の中がチクチクした。
だけど気のせいだ。
気のせい。
抱きしめてきたダンのあの強い腕も、今晩中に忘れられる。
・・・忘れてやる。
絶対に。
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