3、彼氏と彼女、母と息子@



「もう・・・夕方?」

 隣から間延びした声がして、彼女はゆっくりと目を覚ました。途端にズキンと頭が痛み、苦い味が口の中を満たすのに気がついた。

「・・・おえ〜・・・」

「もう、千沙ったら」

 隣からは苦笑する、低い声。彼女はブルーのシーツの中でごそごそと回転をして、彼に微笑みかける。

「・・・二日酔いは、ほんと頂けないわね」

 ああ、全くだね。彼もそう言って頷く。

 昨日は二人が付き合いだして1000日目の記念日だったのだ。そんなわけで、夜明けまで飲む理由があるといって、馴染みの店へ二人で繰り出して、本当に始発までを飲み明かしたのだ。

 最初は出会いから、それぞれの印象、嬉しかったこと、実は嫌だったことなどを話していて、料理をいくつか取りながらお酒を楽しんでいた。それがいつの間にか上司の愚痴から遠い未来への大きな希望の話まで飛躍して、最後の方はわけも判らずにただぎゃあぎゃあと騒いでいただけのカップルだったのだ。

 ああ、腹が減った・・・そう言って彼は起き上がる。眠るときに裸でいるのは、彼のクセだった。下着だけをパッと身につけて、彼は冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し大きく煽った。

 細身ではあるが筋肉質な綺麗な体がゆっくりと動く。千沙はそれをシーツの中から嬉しく眺めていた。

「飲む?」

「飲む飲む〜」

 もう体が干からびて砂漠みたいよ、彼女はそう言って彼から水のボトルを受け取った。染み渡るように水分が体の中を駆け巡る、ああ、生きてるなあ〜なんて感想を、こういう時は必ず口に出さずにいられなかった。

「千沙」

 恋人の彼が笑いかける。薄い茶色の前髪がさらりと額をこすっては揺れる。それをつい優しい眼差しになって見詰めてしまうのが、千沙は自分でも判っていた。

 結構長い付き合いなのにね、彼女は心の中で呟く。それでもまだ、私はこんなにこの人にドキドキしてしまうわ、って。

「・・・記念日の翌日に、ここで格好よくロマンチックな言葉でも言ってから君を抱きたいところだけど、さ」

「だけど?」

「涎のあとと、頬についたシーツのあとがねえ」

 彼はそう言ってゲラゲラと笑う。千沙はうきゃーと悲鳴を上げて、彼に枕を投げつけた。

 窓の外はもう夕方で、アルコール漬けで眠りこけている間に冬の一日が終わろうとしていた。何だか損した気分だわ、彼女はそっとそう呟いて、中途半端に閉められていたカーテンをしっかりとしめなおす。

 頭はガンガン痛くて、若干眩暈もする。だけど、目の前にはほどほどに格好いい大事な男、そして、温かい部屋。千沙は程よい幸福を感じてニッコリとする。

 ちょうどいいのよ。そう思ってた。私には、これが丁度いい幸せなのよって。


 学生の時に知り合って、気があったけどそのまま友達として別の進路を歩んだ彼とは、同窓会で再会した。お互いに仕事に情熱をかけ過ぎた結果のフリーで、既に30歳も半ばを超えていた。

 周囲がそれなりに家庭を作って子供達も数人いるという状態で、会話もともすれば家庭の話になりがちだった。だからフリーの二人はお互いに苦笑しながらお酒を手にその場から離れたのだ。

 めくるめくような恋だとは言いがたい。それでも、それは肌にしっとりと馴染むコットンシャツや一度手にすると手放したくはないシルクの下着のように、いつでも彼女を心地よくさせる恋だった。

 さて、と声に出して彼女は立ち上がる。

 彼が抱きたいと思うような女になる為に、私はバスルームへこもらなくっちゃ。そう決心して。シャワーを浴びて、肌を綺麗にして、顔色をよくしなくちゃ。それからいい匂いも必要よね、って。

 そうして彼と思う存分いちゃいちゃしたら、ゆっくりと今晩の献立を考えよう。明日は勿論朝から会議があって、また忙しない一日になるはずだ。休日くらいは、ご飯はゆっくりと味わいたいのだった。

「風邪ひくわよ、いくら暖房かけてても」

 そう言って彼女は彼に上着を渡す。だけど、彼はそれをそのまま椅子にかけてテレビのリモコンを探している。

「いいよ。風邪をひいたらすぐに君にキスするから」

「何て男よ!」

「これも愛でしょ?」

「それは違うと思うわ」

 言い合いをしながら彼女は笑ってしまった。そしてまた、改めてゆっくりと微笑んだ。この幸せをどうにか保存しておけないものかしら、と考えて。

 千沙は髪を頭の上でくくりながら、バスルームのドアを開けた。




********************

「・・・私、ここがいいわ」

「え?」

 目を開けて、あの青い6角形の部屋に戻ったと判ると同時に、千沙はそう言った。

 隣でピノキオが聞き返す。何て言ったの?って。

 彼がマジックで3と書いたドアを指差して、千沙は言う。

「私はこの世界がいいわって言ったの。あなたと・・・恋人同士だった」

「うん、そうだったね」

「笑ってたわ」

「二日酔い酷そうだったけどね」

「楽しそうだった」

 うん、とピノキオは頷く。彼の透明な光をたたえた瞳は、じっと閉じた「3」のドアを見詰めていた。

「私は今より年上だったし、まだ未婚だった。だけど、幸せみたい。だから、ここがいい」

「うん」

「ずっと入ってるわけにはいかないの?」

 つないでいた手を、ピノキオがポンポンと軽く叩いた。

「そう、勿論、そんなわけにはいかない。だって千沙の世界はあそこじゃないでしょう」

 彼女はうんざりとして自分がいた世界を思い出す。さっき戦争をしている世界にいた時は素晴らしく思えたあの「私の世界」が、今は何て色あせて見えることだろうか。

 いつもの自分、27歳総合商社勤めの女に戻ると、一人暮らしの部屋に冷めた晩ご飯。椅子の上のピノキオは、また木製の人形に戻ってしまって私に笑ってくれたりしないんだわ、そう思って彼女は無意識に唇をかみ締める。

 今は温度を持って彼女と手を繋いでいるのに、またピノキオは人形に戻ってしまうのだ。

 3のドアの向こう側では、あんなに綺麗な肉体を見せて、リラックスして笑っていた彼が。また「私のピノキオ」に戻ってしまう・・・。

 それは、第3の世界をみてしまった後の彼女には泣けるほどに悲しいことだった。

 隣のピノキオがじっと見ているのが判っていた。だから彼女は顔を背ける。潤んでしまっている瞳を見せたくなかった。心配させたいわけではないのだ。ここはやっぱり、大人として強がっておこうって。

「・・・千沙。悲しいんだね。そうだよね、僕も、やっぱりちょっと悲しいよ」

 ピノキオの声は少年のようだった。さっきの世界で聞いた大人の男性の声ではなかった。そのことに、また少しばかり涙を流す。

 ピノキオは、彼ではないのだ。それが痛いほど判ってしまったのだった。

「次も・・・幸せな世界だといいね」

 千沙は黙っていた。だけれども、ピノキオは千沙の視線の先を追って、そのドアに「4」と書く。それから、彼女の手をそっと引っ張った。

「さ、行こう」





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