A
それは千沙が彼氏に電話で振られて、3日後のことだった。
秋の夜は柿落とし、そのままで、夕方の美しい時間は省略されてしまい、あっさりとストンと夜が落ちてくる。そんな夜の中、千沙は一人、夕食を食べかけのままでぼーっと窓にうつる自分を眺めていたのだった。
すると、声が聞こえたのだ。
「ち、さ」
その声は、そう言った。
え?一瞬わけが判らずに千沙は目を瞬いた。それから、自分はこの一人暮らしの部屋に勿論一人でいるのだ、ということに気がついた。
当たり前だ。父親と二人の生活から離れて、この部屋に越してから私は独り言が増えてしまった。会話にならない言葉たちはいつでもそのまま天井に消えていくはずだ。こんな風に、話しかけられたりなどしない。
パッと振り返る。声がした方はこっちだと、感覚が判っていたらしい。
そこには椅子が。いつもの、壁際に置かれた古い椅子には千沙の大事なピノキオが―――――――――
いた。
確かに、いた。だけど、立っていた。
千沙は驚いて目を見開く。木製の、腰までの大きさのピノキオが自分の足で立っていた。カタン、と木で出来た足が床を踏む音がして、ぎこちなく、ピノキオは千沙の方を向こうとしている。
「え?」
千沙の手からお箸が落ちて、テーブルの上を転がっていく。有り得ないはずの光景を目にして、千沙は他にどうすればいいのか判らなかったのだ。だからただ、驚いていた。
「・・ち、さ」
ピノキオの木製の顔、そこにペンキで描かれた口から、確かに声が聞こえた。
千沙は動けない。だってピノキオが。現実的になるのよと頭を叩いてみようかと考えた。呆然としているのが判っていた。
木製の人形が動いて話しかけている。それに、どう反応したらまともなのだろうか。
「・・・・ピノキオ、話せるの?」
千沙はそっと問いかける。心のどこかで小さく、でも確実な恐怖を抱きながら、彼女は自分の人形を見詰めた。
カタン、とまた音をたてて、ピノキオは完全に千沙の方をむいた。そして一度も瞬きなどしたことのないペンキの瞳をゆっくりと瞬きさせる。
「ちさ、て、を・・・」
て、手??千沙は何とか立ち上がった。ピノキオは何かを話そうと懸命らしい。だけどもペンキの口を動かすことが出来ないようだった。描かれた顔はいつもと同じなのに、そこには悲しさとか苛立たしさみたいなものがあった。
とにかく、と小さく呟いて、千沙は何とかピノキオに近寄る。
だって、大切なこの子が・・・・何がどうなっているのかはよく判らないけど、とにかく話したいことがあるらしい、そう思って頑張ったのだった。
手・・・手をどうすればいいのだろう。
千沙は少しだけ考えて、それからゆっくりとピノキオの前に跪く。自力で立っているけど、それはやはり紛れもなく、千沙のピノキオだった。
ふと恐怖が消えたのを感じた。それと同時に、周りの物音も消える。
目の前のピノキオに目線の高さをあわせて、千沙は問いかける。
「手を、どうしたらいいの?」
自分の手をピノキオの前に出す。不思議なことが起きていて、それが今や完全に千沙を包んでいた。
「て、を、あわせ、る」
手をあわせる?はいはい、と千沙は呟いて、そっとピノキオの木製の手を持ち上げる。体の自由は利かないのかしら、そう考えていた。持ち上げた木製の手はさっきまでは確かになかった体温があってほんのり温かく、改めてそれに驚いていた。
かちゃん、とピノキオの節が音を立てる。固い木の指を広げて、千沙は自分の右手を合わせてみた。
手を、あわせる・・・これでいいのかしら――――――――――――
ふわりと、体が浮いた気がした。
あ。
千沙の一人暮らしの部屋の中に、ぶわっと強い風がふく。それは一瞬で部屋中の全てを巻き込んで、ぐるぐると渦をまいて小さな塊にしてしまったようだった。
ぐらりと目がまわって、千沙は怖さに目を閉じる。
自分の手が何かを掴もうと大きく回転したのを感じていた。
「大丈夫だよ、目を開けてよ、千沙」
「へ?」
言われて千沙は目を開けた。
海の底にいるかのような感覚がして、千沙は何度か目を瞬いた。実際のところ、海深く沈んだことなど勿論ないから、それはあくまでも感覚なのだけれど。
耳鳴りがするような、空気の圧迫を感じて千沙は周囲にゆっくりと顔をむける。見回すそこは6角形の部屋で、壁も床も天井も全てが青色に塗られていた。
その青い空間で、千沙と、木製の人形であるピノキオが―――――――――手を繋いで立っていた。
ピノキオのはずだ。今までの流れで言えば。彼女はそう考えて、それでも隣に立つものが自分の大事な人形であるとは信じられなかった。
というのは、千沙の隣に立っているのは、彼女の腰までの高さがある木製の人形などではなく、千沙と同じくらいの背丈の男の子だったからだ。いや、男の子というにはちょっと大人びすぎているかもしれない。しかし男性というには躊躇するような、無邪気で無垢な気配の残る瞳で彼が千沙を見ていた。
「あなたは、ピノキオ?」
私のピノキオ?そう聞こうとして、千沙は何故か言葉を変える。だって、あまりにもこの人は人形なんかじゃないから―――――――――
薄い茶色の髪の毛の間から、千沙をもう一度見詰めて、彼は頷いた。
「そうだね。やっと命を貰えたよ。僕の番がきたってことだね」
「すみませんが、どういう意味かが判りません」
つい丁寧な言葉になった。千沙は繋いでいる手を急に意識する。こんなにもがっちりと誰かと触れ合うのは、久しぶりだな、と彼女は思った。
くくく、と小さく笑って彼が言う。
「いいんだ、その内判ると思うから。とにかくあまり時間がないから、ちょっと急がなきゃね。さあ、どれを開ける?」
どれを開ける?その質問の意味は明瞭だ。つまり、この6角形の部屋の6つのドア、どれを開けるのかって聞いているのだろう。
これは、そうか。千沙は思った。きっと夢なんだわって。こういう、夢の中でも夢であるとハッキリ感じることもたまにはある。だって、でないと彼がピノキオだなんて到底無理な話ってことになるし。大体私は晩ご飯の最中だったのよ。だからきっと、白昼夢に違いない。
彼に振られたショックというやつが、今更現れたのかと思ったのだ。だから気を失うように夢をみているんだろうって。
それならば、迷ってたって、同じじゃない?
どれかを選ばなければならなくて、そのどれもが同じように見えた場合、あれこれ悩むのは時間の無駄だわ、そう思って千沙は真っ直ぐに、自分の目の前にあるドアを指差した。
彼が頷いた。
「オーケー、千沙が選んだのはこれだ。僕は、君についていくよ」
ピノキオはドアに近づいて、いつの間にやら持っていたらしい油性の黒いマジックでドアに「1」と記入した。
「さあ、おいでよ、千沙。怖がらないで。一緒にいるから」
千沙は手を伸ばしてドアを開けた。
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