1、雨の夕暮れ時に@

 雨の夕暮れは物悲しくなって困る。

 千沙はそんなことを思いながら、右手に持っているタバコを包み込むようにして深く吸った。


 ベランダで、音を聞いていた。


 聞こえる喧騒は他人事としてみれば幸せそうでもあるし、自分事としてみれば厳しく辛いものにもなる。親子が喧嘩していて、その内容は他愛もないものであったから、ただ、千沙は笑う。何だかんだ言って、仲がいい証拠だよね、って。だけれども、あの親子当人だったなら、やはり罵りあうのは悲しいことだろうし、相手を一瞬でも憎らしく思ってそれは罪悪感となって数時間は漂うことになるんだろう。

 舌先が痺れるようなピリピリを感じて、撫でるように人差し指を口の中に突っ込んだ。


 タバコを覚えたのはまだ10代の頃からだった。

 それが法律に違反しているという意味で悪いことであるとは判っていたし、別に格好がつけたくて始めたわけではなかったから、誰にも言わなかった。指に匂いが染み付いてしまわないように、髪にも服にも移り香が残らないように、慎重に顔を突き出して青空の下で吸っていた。

 スパイスのようなものが欲しかったのだと思う。

 平坦に続いていく毎日の中で、周りが恋愛だクラブだバイトだと何かに熱中している頃、千沙にはそれがなかった為に持て余した暇を、タバコを吸うということで紛らわせていたのだろうと、今なら彼女は思うのだ。

 そのころの学校の屋上では、まだ空はすごくすごく高く見えて、自分の人生は果てしなく続くようにも、一瞬後に終わってしまうようにも感じていた。それが怖いことではなかったのは若さだったのだろうか。

 そんなことを考える暇も体力も、あの頃にはあった。



 千沙の瞼に滴が飛んでくる。

 この雨は4時ごろから降り出して、もうすっかり暗闇の時間になってもまだ頑張って空から落ち続けていた。

 前髪もぬれて、中途半端に着ているセーターも湿りだしている。時折煙が目に染みて潤むのが判った。

 だけどいいのだ。どうせ見えるのは、ゆっくりと重そうに落ちてくる雨粒なんだから。千沙はそう思って、まだ一人で空を見上げた。是非とも見たいもの、もしくは見ておきたいものなどは、今の千沙の周りにはなかったのだから。




 あの人にふられてしまった。




 最後の電話は乱暴だった。きっとあの人は、電話を壁に投げつけたのだろうと思うような、酷い音が耳元で聞こえて、それから不通に変わったのだ。

 千沙は台所に立っていて、とりあえず、強いお酒でも飲むべきかしら、などと呟いた。だってほら、昔の外国の小説を読むと、必ずあるでしょう、気付けの一杯ってやつが、そう考えていた。

 つー・つー・と耳音で鳴っていた不快な拒否の音を思い出しては眉間に皺を寄せた。何故か泣くことが出来ずに、台所のシンクに体を預けて突っ立っていた。

 君は僕のことなんて好きじゃないんだよ。だから、他の男と平気で会えるんだよね。彼はそう言って、憎憎しげに、吐き捨てるように言ったのだった。

 僕たち、もうダメだよねと。だって、信頼がまったくないんだからさって。

 確かに千沙は、3日前、駅前で彼ではない男と待ち合わせをした。それは社会人クラブに新しく入ってきた男性で、その後の会合の場所が判らないというから千沙が案内を買って出たのだった。

 緊張したその人が道を間違えかけて、腕を引っ張って呼んだ。顔を見上げて一緒に笑った。だけれども、それはあくまでも他人としての距離を保っていたはずなのだ。

 だけど、そんな言い訳もする暇は与えてくれなかった。

 彼は勝手に千沙に幻滅して、色んなことを想像して膨らませ、怒り、絶望して別れを告げる電話を一本いれたのだった。

 そして唐突に切った。待って、の一言も言えずに千沙は立ちすくんでいた。

 大好きだったあの人に別れを告げられて、私の両手の指は震えている。それは意思とは全く関係がないようだった。ぶるぶると震えて、いつもは家の中では吸わないタバコを取り出しても落としてしまったほどだった。

 だから、戸棚を見上げた。強いお酒を探そうと思ったのだ。

 だけど27歳総合商社勤めの独身女の部屋に、気付けの一杯になるような強いお酒など置いてないのだ。それは当たり前といえば当たり前だった。

 仕方なく、千沙は冷蔵庫から麦茶を取り出す。そして可愛いコップに注いで一気に飲み干した。この黄色い花が舞い散る柄の可愛いコップは、彼とデートの時に買ったのだった。でもついさっき、それも完全な過去形に変わってしまったけど。

 怒ると完全に自分の世界に閉じこもってしまう男の人だった。聞く耳をもたないというやつで、付き合っている間も、正直に言えば、彼のその点が千沙は苦手だった。

 今はその怒りが一寸の狂いもなく私に向かっていて、それを解きほぐすには時間が必要だって彼女は判っていた。今はどんな言葉を言っても彼には届かないことも。

 大好きだった、あの人。無関心よりは嫌われるほうがマシかしら。いやいや、まさか。大好きだった、って、私はもう自分で過去形にしているのに。自己防衛だと信じたいのね、千沙は自嘲気味に笑う。とにかく、その人に嫌われて、やけ酒ならぬ自棄麦茶。お腹の中でたぷたぷいうそれが、彼を忘れさせてくれるとは到底思えないままで、千沙はユラユラと揺れていた。

 小さな台所で、一人。

 ここは、彼が私を抱いたこともある場所なのに。


 全くもう。


 千沙の視線はふらりと灰色に塗り替えられてしまった部屋の中を彷徨い、木製の手を捉えた。手から腕、それから首と顔に視線をうつし、ああ、と彼女は声を漏らす。

 ピノキオ、だわ。乾いてぱりぱりの唇で千沙はそう呟く。

 椅子の上には昔、父親が買ってくれた人形があった。それは昔ながらの木製で、人間の節に当たる部分がちゃんと曲がるようになっている、手の込んだ操り人形だった。大きくて、等身大とまではいかなくても十分な大人になった千沙の腰の辺りまでの大きさがあった。

 一人暮らしを始めるときに、実家から持ってきたのはこれだけだった。この子は、もう一人の私だ、そう千沙は思っていたのだった。

 ほら、プレゼントだよ、そう言って父親が千沙にくれたとき、ちょうど見ていたアニメと同じ名前をつけたのだ。何度も何度も繰り返してみたアニメの木の人形と同じ名前を。

 あなたはピノキオよ。嘘をついたって鼻はのびないけど、だけどアタシの大事な子供なのよ、って。その時、まだ千沙は8歳だった。それを聞いた父親は笑ったのだった。じゃあ千沙がゼぺット爺さんなんだね、そう言って。

 両親が離婚して一人っ子の千沙は一人ぼっちで家にいることが多かった。それで父親がくれたのは人形なのだ。千沙が寂しくないようにって。命あるものを、例えば犬や猫を与えると、またいつか来る別れで娘が傷付くだろうと考えたのかな、と大人になってからは思った。

 だけどとにかく、その夜以来、千沙は身長110センチほどの木製の人形である「ピノキオ」と時間を過ごしてきた。

 長い夜をいつでも一緒の部屋で寝たし、受験の苦しさや新しい友達が出来た喜びも伝えた。ベランダから一緒に花火大会も見たし、卒業証書を持って一緒に写真にも写った。だからあの彼に恋した時も一番に報告したし、彼と付き合えるようになった時などは、あまりの喜びに一緒にダンスも踊ったのだった。


 ピノキオ、ともう一度千沙は呟く。呼びかけではなく、ただ、名前を零しただけの。

 ねえピノキオ、彼はいなくなってしまったわ、と、今度はちゃんと話しかける。

 だけどどうしてかしらね、指は震えるけど、体から力がなくなってしまったけど、私は泣けないのよ、そう言って、千沙は歩いて行って、ピノキオを抱きしめる。

 ねえ、ピノキオ。泣けないの。私、何故だか泣けない。多分泣けたら――――――――楽になるのだって思うのだけれど。

 動かない木製のピノキオ。

 ピノキオは笑わない。

 だけど責めもしない。

 千沙は少しばかり慰められた気がした。





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