無題
用意するのは真っ赤なボード。それと黒い極太マジック。
蓋を開けると、部屋の中にシンナーの匂いが広がる。私はキュッキュと音を立てて、真っ赤なボードに文字を書く。大きく大きく文字を書く。
そしてボードに紐をつけて、首からぶら下げた。
私の胸元で揺れる真っ赤なボードには黒くて太い文字。
『もう別れましょう』
彼は、どう反応するだろうか。
彼が帰ってくるまで起きていた。久しぶりに、「お帰り」って言ってみた。彼は無言で洗面所へ。
・・・ちょっとちょっと、一発目で無視しないでよ。あたしはムッとする。
ならば。
私は今度は居間であぐらをかいて座る。廊下をこっちに歩いてきたら、嫌でも目に着く場所に。
ところが、彼はタオルで顔を拭きながら歩いてきた。左手にはメガネをぶら下げて。
そしてそのまま、寝室に入っていったのだ。
一言も喋らなかった。
私はその真っ赤なボードを首からぶら下げたままで、居間で寝た。
朝、彼の出勤準備の音で目が覚める。
ぼーっとしたままでそれを目で追っていた。
だけど彼は一度もこっちを見なかった。
折角真っ赤なボードを選んだのに、カラコンレベルの話じゃないぞ。この部屋にはない異色物が、こんなところにあるのに見えていないのだ。
鞄を持つ、靴を履く、ドアの閉まる音、私はそれを居間の床にペタンと座り込んだままで見ていた。
・・・視界にも引っかからなかったらしい。
寝室のクローゼットをあけて、取っておきのピンヒールを取り出した。まだ彼と運命の恋の世界にいる時に買って貰った大事な靴だ。
素敵な素敵なジミー・チュウのピンヒール。
私はそれを振りかざして、『もう別れましょう』と書いた真っ赤なボードを打ち抜いた。
華奢で素晴らしいヒールはその一回では折れなかった。
バンバンと何度も叩き付けた。
ヒールも折れて、ソールだけになってもボードがめちゃくちゃになるまで叩き続けた。
目にうつる全部がボロボロだった。
仕事にはいかなかった。腹痛で、すみませんと就業時間に電話を入れて、フローリングに寝転んでいた。
色々思い出してみた。だけど殆どが、霞の向こう側でユラユラと揺れるだけだった。ああ・・・目をきつく閉じてみる。
泣けない。涙はちらっとも姿を見せない。きっとそんな時期は過ぎてしまったのだろう。私が気付かなかっただけで。
昼ごろ、私は立ち上がった。そして精力的に動いて、部屋を片付けだす。
この6年間の痕跡を消すために。
私など、元から居なかったかのように。
自分のものだけを居間の真ん中に集めて、片っ端から段ボールと旅行鞄と紙袋に入れていった。
もういらないと思ったものは直感で仕分けして、次々ゴミ袋に突っ込んだ。
結果、部屋の中には5つの段ボールと3つの鞄、大きなゴミ袋が4つ。
これが6年間の私の存在証明の結晶か。
私はケータイを取り出して、運送屋さんに電話した。個人で借りているレンタルスペースに荷物を運んで貰うのだ。
一緒に住んでいた部屋から私の荷物だけが見事に消えてなくなると、私は息を吸って冷蔵庫の前に立つ。
この部屋に引っ越してきた時は、冷蔵庫は持ってなかった。
二人で外食して日々を繋げていたのだ。やっときた休みの日に二人で買いに行った冷蔵庫。
『このサイズがいいよ。二人分だし』
彼がそう言って
『デザインと色は譲れないからね』
そう私が笑った。
二人で買った冷蔵庫の中には、一人で買い物に行って私が入れた食材達。
彼が一人でいて、これを使うとは思えない。
だから、この冷蔵庫を開けるかどうか判らない。それに冷凍庫や野菜庫に至っては、次引っ越すときしかあけないのではないだろうか。
だけど、ここに入れていこう。
私は冷凍庫のドアを引き出す。
ほとんど物の入っていない冷凍庫の端っこに、右手薬指から指輪を外して置く。
薄暗い冷凍庫の中で、リングに嵌められた小さなパールが光った。
だけど見えないフリをして、ドアを閉める。
「資産凍結、完了」
エンゲージリングは男の決意だよ。
4年前の冬、彼がそう言って笑った。
婚約期間中に男に万が一のことがあった時用に、大切な女性に指輪を贈る風習が出来たんだってさ。
それを現金化したらそれなりのお金になるようにって。
食べるのに困らないように、君の一生は俺が守るっていうことを形に表したんだって。
だから今でも給料3ヶ月分って言うんだな、って。
照れた顔であの日、言っていたのだ。
だから、エンゲージリングには絶対いいものを贈るからって。ダイヤモンドのついた、いいものを。
それまではこれをお守りにして。
そう言ってくれたのだ。小さなパールがついた華奢なリングを。
パールは私の6月の誕生石だった。ありがとうって言って、彼に抱きついたのを覚えている。
私はそれを仕舞った冷凍庫を振り返って見詰めた。
・・・資産、凍結。世紀の大恋愛は、最終的には凍えてしまったわけだけど。
見回した。部屋には今まで私の色もあったけど、今では彼の色しかなくなっている。
泣き笑いのような顔になって、部屋を後にした。鍵をしめて、それを封筒に入れてポストに入れる。
彼は、私が出て行ったことに気付くだろうか。
身も心も焦がす恋で、既に私は灰しか残ってない。
今から思うと、情熱を激しく燃やしすぎたのかもしれない。
あの人の、指も、後ろ毛のちょっと長いところも、大きな足も、傷跡がある右膝も、眉毛を上げる癖も、笑ったときの目じりの皺が深いのも。
愛し過ぎたのかもしれない。
そして、あふれ出して、制御不能で、満ちたりたのが多すぎて、もうお腹いっぱいだったのかも、しれない。
会話もなかったけど。
最後は、既に私すら見えてなかったけど。
でもそれはお互い様だ。見えないふりに聞こえないふり。それはそのまま事実になってしまったのだけれど。
負けず嫌いな私はこう思いたいのだ。
だけど、素晴らしい恋をしたと。
心身共に非常な影響力がある、激しく火花を散らして爆発するような、そんな恋をしたんだって。
そう思いたい。
顔をあげて、風を正面から受けた。深呼吸を一つしてから、背筋を伸ばす。
前を睨み付けるようにして歩いて行く。
さよなら、今までの私。
直ぐには無理でも、いつかきっと立ち直って、もっといい恋をしてみせる。
してみせるんだから。
いつか、いつか。
「フローズン・パール」終わり。
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