フローズン・パール
あれは暑い夏の、暑い夕方だった。
私はショートパンツにタンクトップ、足元はビーチサンダルというかなりラフな格好で、近所の銀行へお出かけしていた。
翌日は友人達とビーチでパーティーの予定だったのに、私の財布の中には500円玉が一枚しか入っていなかったのだ。
麦藁帽の下に手を差し込んで、汗で濡れた額を拭う。
銀行から外に出た時は、一足で強烈な後悔が襲ってきたほどだ。
暑すぎて、死ぬかも・・・って。
そんなわけで、帰り道にコンビニに寄ったのだ。目的はアイスクリーム。ここで買えるアイスクリンと呼ばれる昔ながらのアイスが私は大好きだった。
シャリシャリしていて薄い卵色をしていて、へなへなのコーンに入っているやつだ。
それを嬉しく買って、再び灼熱の外の世界へ出た時、彼にぶつかった。
「あ」
って言ったのはどちらだったか。
今ではもう忘れてしまった。
だけど、私がアイスを突っ込んでしまった彼の左胸のTシャツが緑色だったことは覚えているし、顔を上げた私とずっと見詰め合ってしまった彼の目も覚えている。
私達は、その日その時、恋に落ちた。
そんなことが有り得るなんて思ってなかった。
それほどストンと、真っ直ぐに、景色も見えずに急激なスピードで、私は彼が好きになった。
彼も私が好きになった。
というか、後に彼が言った言葉で正しく言うなら、彼はその時、「この女が欲しい」と思ったらしいんだけど。
何せ6年前のことで、そのぶつかった瞬間から先はちょっと記憶が曖昧なのだ。
だけど翌日のビーチでのパーティーに私は行かなかったし、それ以来、彼と同じ部屋に一緒に住んでいる事実は、今も続いている。
彼と恋に落ちて、私は変わった。
私と恋に落ちて、彼も変わった。
前は飲めなかった赤ワインが好きになったし、タバコの銘柄をいくつか覚え、新聞を読んだりするようになった。
聞かなかったジャズを聴くようになり、興味がなかった旅番組を見るようになった。
私達はお互いを掏り合わせてお互いに変わっていったのだ。
夜は抱き合って、朝、手を繋いで目が覚めた。
パン食だったのに、彼が食べるならと和食のご飯を準備するようになった。
色んなことを話し、色んなところに行って、一緒に物事の移り変わりや通り過ぎていく季節を見てきた。
その二人が、また変わりだしたのは一体いつからなのだろうか。
ハッキリと線引きは出来ないけど、それは段々少しずつ、二人の毎日の中に侵入して、侵食し、じわじわと灰色に染め上げていったのだろう。
ゆっくりと、だけど確実に。スペースは遅くともじりじりと全体にその灰色は染み込んでいく。
ファスナーの噛み合わせがうまくいかなくなるみたいに、何かしらのイライラすることがあったわけではない。
残業を入れるようになった。
休日に別行動をとるようになった。
片方が朝ごはんに起きれなくなって、片方が夕ご飯に間に合わなくなった。
会話の途中に電話に出るようになった。
相手の言うことに興味がなくなり、ノイズに思えるようになった。
右から左だ。いくら聞いてるフリをしても頭にちっとも残ってないから相手を怒らせてしまう。
喧嘩をした後、怒って出て行くなんてことが起こりだした。
笑顔が少なくなり、挨拶がなくなった。
そして今では―――――――――――――・・・・
「ねえ」
ある日、私は呼びかけてみた。
彼はダイニングの椅子に座って新聞紙を開けながら反応しない。
「・・・ねえ」
もう一度呼びかける。
まだ反応しない。聞こえてないのだろうか?私の声が小さかったのかもしれない。それとも面白い記事を読んでいて、邪魔をされたくないとか?
「ねえ!」
声を大きくしてみた。彼は、まだ振り返らない。
私は声を小さく戻した。
「ここにいるのよ」
反応なし。さっきの声で聞こえてないなら、今のは絶対に聞こえてないはずよね。
「私は、あなたの何なのかしらね」
もう届かなくなってしまったのだ。私の声は。
その前日、スーパーで一人で買い物をしていて、レジの後ろに並んだ新婚カップルらしき人たちの会話。
それを聞いていて、ぼんやりと、いいなあ〜、と思ったのだ。それに気付いてハッとした。
私、惚れた男と住んでるよね?って。
なのに、最近、こんな会話したっけ? そう思った。よく考えたら・・・・。
最後に抱き合ったのは、いつだったっけ。
居ても立ってもいられなくなって、逃げるようにスーパーを出てきたのだ。
あら?あらら?
おかしいな、いつから私達、手を繋がなくなった?というか、私、彼と一緒にいたいと思ったっけ?休みの今日、買い物に一緒に行こうって誘ったっけ?
部屋まで走って帰って、ちょっと呆然としたのだ。
私は小さくため息をついて、彼の元へとぺたぺたと歩く。
そして肩をトントンと叩いた。
「・・・ねえ、さっきから話してるんだけど?」
彼はやっと振り返った。
ずり下がってきたメガネを右手の指でなおしながら、え?と突っ立つ私を見上げる。
「ごめん、聞こえなかった」
低い声で、呟くように言った。
そしてガサガサと音を立てて、新聞に向き直る。
彼の視線が離れると同時に、私は天井を見上げた。
ベランダから入ってきた光が、床のリノリウムに反射して弱い輝きを天井に投げている。それをじっと見た。
I can't follow you.(聞き取れませんでした)
私は彼の肩から手を離した。
・・・そして、Once more, please.とは続かないのね。私の話すことには、もう完全に興味がないんだね。
また部屋の隅っこまで歩いて行って、爪の手入れを再開した。剥げていたマニキュアを綺麗にとって、指先のマッサージをする。淡々と作業をした。
同じ部屋に二人の人間。
でも、一人でいるのと違いはない。
それが、今の二人の現実なのだ。
その次は、ブルーのカラーコンタクトを購入した時だった。
瞳に入れて、その出来に鏡の中の私は笑っている。
えらく印象って変わるものなんだなあ!そう思って、一人で楽しんでいた。
そこに彼が帰って来たのだ。
私はその新しい私を見てもらおうと、いつもの無関心は封印して「ねえねえ」と彼につきまとった。
すると、疲れてるんだ、と不機嫌な声で返して、彼は台所へいってしまった。
そしてその夜は、一度も私の顔を見なかったのだ。
だって反応がなかったもの。私の瞳は濃いブラウンから明るいブルーに変わっているのに、彼は全く驚かなかった。
そりゃあそうだよね、目があってないんだもん。
見て欲しくて私は彼をじっと見ていたから判ったのだ。ああ、そうか、って。
私も普段、彼を見ていなかったんだなって。だって、知らない間に彼はヒゲを伸ばしていたらしい。そして形を整えていたらしい。それに気付いた。
右目の下にある傷跡はなんだろう?いつついたのだろう?私は今まで何を見ていた?って。
彼は結局私のブルー・アイズに気付かなかった。
3日間つけて、それは洗面所で流した。
バイバイって呟いて。
まるで、私自身に言ったみたいだった。
忘れていた存在を思い出した。それは結構な罪悪感を背負った寂寥感の塊となって私に押し寄せ、潰されないようにと足を踏ん張る。私は一人でバタバタと抵抗していた。
今更かもしれない。
だけど・・・
流されていた日々を振り返って、彼が好きだったときの私を捕まえようとした。
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