・トラの不在@
郊外の、この町の商店街を駆け抜ける風がかなり冷たくなって、私達は冬支度をする。
マフラーを出して、手袋を買って、毛糸の帽子を被ったりするのだ。そうして、次の新しい季節がくるのにワクワクする。
山神の制服は春夏秋冬同じなので、相変わらず店の中では背中に山神と漢字が入っている黒いTシャツとジーパン。それでも、注文される飲み物にお湯割りが入ってきたからやっぱり季節を感じたんだった。
私は大学の卒業論文の書き出しが始まっていて、自分がテーマに選んだものを理解するために、昼間は結構頻繁に大学の図書館にいくようになっていた。
そんなことも、冬の到来をしみじみと感じさせた。
この町には滅多に雪は降らない。だけども、凍える指先や吐く白い息なんかで、一年の終わりが近づくのを感じることは出来るのだ。
そんな中。
山神の店長である夕波虎太郎が、しばらく店を空けることになったのだ。
「ついに、来ちゃったね〜」
いつものようにカウンターで仕事終わりのビール一杯を皆と一緒に飲みながら、店長があっさりと言った。
龍さんも、ウマ君も、私もそれを黙って聞いていた。
秋にあの喧嘩騒動があった時に危篤状態に陥った店長の大切な身内の方が、ついに今日永眠されたらしい。
店にその電話が来たのが夜の9時過ぎ。
いつものように受話器を取って、山神でーす、と言った後の店長がやたらと静かだったので、皆で心配していたのだ。
で、店が終わった後、申し訳ないんだけど〜と店長が話しだしたのだ。
俺、しばらく実家に戻るからって。
「しばらく?それってどのくらいの話?」
その間、店を頼みますね、と言われた龍さんが眉を顰める。同じように思っていた私とウマ君も、店長を見た。
だって、冠婚葬祭でも普通、3日とか4日とかじゃない?仕事を持っているわけで、しかも彼は責任者なわけで。店長の中で、酒処山神は優先順位が高いのがわかっていた。だから、ちょっと違和感を覚えたのだ。
お願いするくらい、長い間戻らないの?って。
夕波店長は壁のカレンダーをチラリと見て、うーんと唸った。
「そうだねー・・・。1週間は戻れないですかね。家族がいていないようなものなんで、俺が荷物の整理とかしなくちゃだし・・・。それにあとは、色々ゴタゴタが、ね」
いいにくい、というよりも、説明が難しいって感じだった。店長はため息をついて口を閉じる。
大切な人が亡くなったことよりも、そのゴタゴタにうんざりしているようだった。ハッキリとは言わないけど、秋から覚悟はしていたのだろう。あの時から、きっともうそんなに長くないって。こればかりは仕方ないことだしって、一度言っていたことがあったし。
「ここで飲んでていいのか?すぐにいかないと、通夜に出れないだろ?」
龍さんが時計を気にして店長に言う。だけど、手をヒラヒラと振りながら、店長はビールを飲み干した。
「大丈夫ですよ〜。前の時に、ちゃんと別れはしてきたんだよ。今度はこなくていいからって本人に言われてるんだよね。もう電車、ない時間だし」
「親戚の方なんですか?」
遠慮がちにウマ君が聞く。
大切な身内、としか聞いてないので、なんともコメントのしようがなかった私は店長がどう答えるのかが気になってビールジョッキを置いた。
うーん、と店長が唸る。腕を組んで眉間に皺を寄せた。
「難しいんだよね、一言で言えないから、身内って言ってただけで。本当は血が繋がってないし・・・まあ、叔母、だよな、きっと」
え?皆で怪訝な顔をする。血が繋がってない人、なの?叔母・・・つまり、年上の女性であることしか判らない単語だな、それって。
でもとにかく亡くなってしまった人なのだ。店長が詳しく話したがらない限り、私達はそれを突っ込むべきではない。それ以上は会話にもならず、とりあえず店長がいない間のことを決めて、終わりとなった。
「じゃあ、お先〜。虎、店は気にしなくていいからゆっくりしてこいよ」
もう客と喧嘩はしないから、そう言って龍さんが額を指で掻く。
「お疲れ様です!」
私達に遠慮して、龍さんとウマ君はさっさと帰ってしまった。
私は結局あたふたとしている内に公認のカップルとなってしまっていた彼氏である夕波店長を待つ。
「彼氏」になってから、彼は家まで送ってくれていた。それで、山神に入る時は帰りが一緒になったのだ。
たまに・・・いや訂正。結構頻繁に、店長はそのまま私の部屋に居座って、私を好きに扱っていく。ほとんどないけど、送ってくれたらそのまま自分の家へ帰るときもある。
今日は後者だな。そう思いながら、森に植物の世話をしに上がってしまった店長を待っていた。
私はまだ人の死にあったことがない。だから表面的なことしか彼の悲しみは判らない。黙っているのに越したことはない、そう考えていた。
・・・だけど、遅いなー。森に上がって、そろそろ45分経つ。私は立ち上がって、階段の下から2階を覗く。
「店長ー?おーい、大丈夫ですか〜?」
何だか静かだぞ、もしかして、寝てる?と思って声をかけると、普通の声で、おーと聞こえた。
それから本人が姿を現した。
「悪い悪い。ちょっとマトモにやりだしたら止まらなくて」
緑に接して落ち着いたらしい。さっきよりも穏やかな、いつもの優しい細めた瞳で降りてきた。
しばらく空けるから、と世話を丁寧にしていたらしい。店長不在の間はお花屋さんでのバイト経験もあるツルさんが、その世話を引き受けることになっていた。
帰ろうか、そう言って店長がTシャツの上からパーカーを羽織る。それで寒くないのかな、私はいつも思って、でも口に出したことがない台詞をまた飲み込んだ。
思っても口に出せないことが、結構あった。それはきっと彼が上司の立場だからだろうと思っていた。
この遠慮が消えることはあるんだろうかって。だけど自分でも、それは判らないのだ。
店の電気を消して、裏口をしめる。
「うわあ、寒い!今晩は冷えますね〜、いよいよ冬なんですね」
私は全身に震えがきて、コートの前をかき合せながらそう言う。何だか夜になっていきなり気温が下がったようだった。
「・・・本当は」
店長がボソッと言った。
「何ですか?」
先に歩き出していた私は振り返る。商店街の明かりはすぐそこに見えていた。山神が奥まったところにあるので、山神の電気を消すとここら辺は一瞬真っ暗になってしまうのだ。
その暗闇から浮き出してきながら、店長がいつもの優しい笑顔をした。
「いや〜、何でもない」
え?私は首を傾げる。ちょっとちょっと、そういうのって一番気持ち悪いんですけど。
「やだやだ、言って下さいよ店長。何を言いかけました?」
「聞きたい?」
「聞きたいです」
私は大きく頷く。何なんだ、このニヤニヤ顔は。さっきまでの真面目君はどこに消えた?もういつもの店長の雰囲気で、大きな口が三日月型に微笑みを作る。
「シカを抱いて帰りたかったな〜」
「ぶっ・・・」
思わず噴出して、私は振り返って睨む。何てことをいうのだ、この人は!しかも、外に出てからなんて性格悪いぞ。
大股ですぐに私に追いついて、外灯の明りに企んだ笑顔を見せながら店長が言う。
「今日はもう送っていくだけになるし、よく考えたらさ。しばらくシカを弄れないんだよな〜・・・。あーあ、カウンターで襲えば良かった〜」
「てててて店長、あの、もう少し小声でお願いします!」
「誰もいないでしょ」
いい加減その照れ屋、何とかならないの〜?そんな風に言って、あはははと笑った。
カウンターで襲うだって・・・。ぶるぶるぶる!私は細部まで想像してしまって激しく頭を振る。追い出すのよ、私!いらない想像を追い出すのよ〜!!
「あ、想像してる。ホント面白いねー、シカ坊」
「ほっといて下さい!」
「事細かに説明してみようか?まず、その両手を捕まえるでしょ、それから―――――――」
「やややややめて下さい〜っ!!」
そんなやり取りで、私の部屋まで行った。
まだ若干不機嫌なままで、私は店長の顔をみずに言う。
「お疲れ様でした!ありがとうございました!」
彼が苦笑する。そして手で私の顎を軽く撫でた。
「ツンツンすんなよ。ホレ、旅立つ俺にちゅーは?」
「え」
うん?店長がニコニコを首を傾げる。
「あらー?しばらく会えないって判ってるのに、ちゅーもなし?それって冷たくなーい?」
・・・うおおおおおおお〜っ!!!
私はしばらく唇をかみ締めて羞恥心と戦い、それから勇気をかき集めて店長の唇目掛けて突進した。
だって、諦めないのだ。こういう時の彼は、自分の主張が通るまで徹夜でだって粘る。それはこの短い付き合いの中でももう知っている。だから頑張った。
唇が合わさると、するりと店長の手が私の後頭部に回された。有無を言わさずキスが深くなる。うひょ〜!!いつも通り、私は心の中で絶叫する。
慣れない慣れない!こんなの慣れません。だって外だよ、ここ!
音を立てて柔らかく包んだと思ったら、いきなり痛みを感じるほどの力で吸い上げる。私は呼吸も浅い状態で、頭はクラクラ体はふにゃふにゃだった。
ああ、無理だ・・・。こんな、この力の前には私なんて無力でちっぽけなんだろう――――――・・・
唇が真っ赤に腫れあがってしまう、そう思う頃、やっと顔を離してくれた店長が薄目を開けて言った。
「・・・まだだな」
「へ、はい?!」
何、何がっ!?いきなり意味不明の言葉が飛んできて、私は混乱した。
すっと私から一歩離れてニッコリと笑う。その笑顔のままで、店長が言った。
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