トマトときゅうり前編


 いつもなら三寒四温で段々とゆっくり温かくなる春のはずが、今年はどばーっと雨が降ったかと思ったらそれからいきなり温かくなった。・・・というより、暑くなった。

 私は事務員で制服はないのだけれど、一応スーツを着ているが、インナーがTシャツに変わった。

「ほんと
、あっついわね〜・・・」

 隣で本日もゴージャスな仲間さんがうんざりした声を出す。私はその素晴らしい美しさを垂れ流しにしながら書類をめくる仲間さんを見て、一人で凹んだ。

 それに気付いて仲間さんは笑う。

「あら、また瀬川さんが悲しんでるわ」

 細くて白い腕を伸ばして仲間さんがよしよしと頭を撫でてくれる。

「楽しく行きましょ、何も今生の別れってわけじゃあないんだから」

 綺麗な猫目でウィンクを飛ばしてきた。私はそれで、何とか笑顔を作った。

「すみません、余りにもショックで・・・」

 この素敵な縁の下の力持ち、わが事務所が誇る無敵の事務長仲間さんは、この4月の人事異動で本社へと行ってしまうことが決定されたのだ。それで、ここ最近の私は凹んでいる。

 仲間さんが居なくなったら、寂しい。目の保養もなくなる。しかも―――――仕事でも、めちゃ困る〜・・・。

 彼女がいるからこそ、男性エリートばかりを集めたこの事務所での膨大な事務仕事が期限までに処理できるのだ。それが大黒柱が抜けてしまったら、一体どうしたらいいのだあああああ〜!!

 あの大量の契約処理を。あの大量の給付金処理を。経費の計算とか会議の準備とか死亡の処理とか・・・あああああ〜・・・・。

 小動物的杉並さんは既に達観していて、「どうにかなるから大丈夫よ」と慰めてくれていたけれど。それってどうにかなるんじゃなくて、するんですよね、って。

 がっくりと、頭を垂れる。

 くすっと優しく仲間さんが笑い、その後でキラリと瞳をきらめかせて言った。

「瀬川さん、私のことばかりに凹んでいたら、楠本君がまた拗ねるわよ。それは面倒臭いし、営業部長からもお叱りがくるからおすすめしないわ」

「・・・はあい」

 このバレンタインの時に、彼女である私をダシにして楠本君に経保を取らせました、そう仲間さんが営業部長にバラしてから、営業部長は事務所に来るたびに私のところへやってくるのだ。

 非常ーに、迷惑だった。

「楠本さんの成績は私には関係ないです!」といくら言っても、それが関係あるらしいからさ〜と言っては事務カウンターに寄る。一度きゅうり本人が居たときにバッティングして、その時の営業部長の微笑みは恐ろしかったものだった。

「楠本!大切な彼女の前で格好悪いとこは見せられないだろ?あと4件、何とかならないか?」

 そう言ってきゅうりの背中を大きな手でバシバシ叩いていた。

 きゅうりは私の赤面した、しかも露骨に嫌そうな顔をちらりと見てから苦笑して、部長を振り返る。そしていつものようにやたらと迫力のある素晴らしい笑顔を浮かべて言ったのだ。

「彼女は俺にぞっこんですから、今更成績とったところで変わりませんよ」

「!!!」

 何だってええええええ〜っ!!!

 爆笑する営業部長ともども事務カウンターから追い出して、私はその後1週間きゅうりを無視したのだ。

 その時、きゅうりは拗ねて仲間さんに愚痴を言いまくったらしい。

 私は思い出して顔を顰めた。

「・・・子供やんか、男なんて!」

「そうそう、男なんていつまでも子供よ」

 盛大に頷きながら、仲間さんがそう言って笑う。そしてカレンダーを指差した。

「瀬川さんはすっかり忘れているようだから一応教えておくわね。明日はね、ホワイトデーなのよ」

「はい?」

 私は瞬きを繰り返しながら首を捻る。

 ・・・ホワイトデー・・・・。はあ、それが何でしょうか。

 仲間さんはじっくりと私を見詰め(照れるわ〜)、ため息をついた。

「・・・ちょっとばかり、楠本君に同情するわね」

「え?あのー、仲間さん、もっとちゃんと解説お願いします。ホワイトデーだから、何ですか?」

 仲間さんは美しい目を私に据えた。緊張した。ああ・・・何だろう、私ったら、失言かました!?

「ホワイトデーは、バレンタインデーのお返しをする日なのよ、日本では」

「・・・はあ、そうですね」

「で、あなたは楠本君に本命のチョコをあげたんでしょ?」

「・・・えーっと・・・本命?ああ、まあ、はい。コンビニのですけどね」

 コンビニとかチョコの出身はどうでもいいのよ!仲間さんがイライラと手で空気を切る。私はびびって仰け反る。美人が怒ると条件反射で逃げ腰になるのは仕方がない。

「そこで!楠本君からはお返しがあるはずよ!」

「え」

 私は目を点にした。ええええ〜!?そりゃないでしょ、ないないない。

「いやあ〜、ないと思いますよ?だってコンビニチョコだし、爆笑してたし、まあそりゃお返しがチロルチョコなら有難く貰いますけど、きゅ・・・でなくて楠本さんに限ってそんなことないだろうし」

 私は笑いながらべらべらと喋った。いやあ、驚いたわ〜、仲間さんったら、もう!

 ところが目の前に座る仲間さんは笑わない。

 その綺麗な猫目をぴたりと私につけて、彼女は宣言した。

「子供の命名権をかけてもいいわ、楠本君は、あなたにそれはそれは素敵なお返しをするはずよ。あの俺様営業がそんな面白い機会を見逃すはずがないんだもの」

「は」

 ・・・・あのー・・・・。私は仲間さんをガン見した。

 あれ?ちょっと待って・・・・今、あれ?ええええええええ〜っ!!

「なななななな仲間さん、今、さら〜っと、何を賭けはりました!?」

「あ、しまった。つい、私ったら」

 おほほほほと手を口元において仲間さんは笑う。私は顔を真っ赤にして詰め寄った。

「仲間さん!?」

 仕方ないわね、と小さく呟いて、100万ボルトの笑顔を見せる。そして、仲間さんが言った。

「そうなのよ、実は、妊娠してるの。あ、これはまだ内緒ね」


 うっひゃああああああああああ〜っ!!!!





 夜が近づいてきてもまだ温かい風が吹いていた。

 雨の前なのか、微かに湿った匂いがする。

 風に乱された髪の毛を掻きあげて、私は自分の部屋へと向かっていた。

 ・・・・ああ、ビックリしたわ・・・。今日は本当に、腰を抜かすかと思った。まだ心持興奮した状態で、ヒールの音を鳴らしながら歩いていた。

 仲間さんったら、あんないきなり凄いニュースを!!もう、もう、死ぬかと思った、驚きで。

 仲間さんはお付き合いしているFPの津田課長との間に子供さんが出来たらしい。それで本社異動になったのだと教えてくれたのだ。

「け、けけけけ結婚するんですかっ!?」

 私の興奮した声にどうどう、と手で風を送る。

「勿論よ。私が婚外出産なんてすると思う?」

「お、思いません!!」

「だから」

 にっこりと超美しく微笑んで見せて、仲間さんが言う。

「勿論結婚するわ。式はこの子が生まれてからにするの。招待したら来てくれるかしら?」

 私は体中を赤くして叫んだ。喜んでーっ!!!って。

 ・・・ふう。

 あかん、思い出してまた興奮してしまった。

 吐いたため息は春風に誘われてのぼっていく。ああ・・・仲間さんの花嫁さん姿・・・それって凄い宝石みたいなキラキラなんだろうなあ〜・・・。

 嬉しくて微笑んでしまった。

 部屋に到着すると、電気がついているから驚いた。

 あれ?と思って。

 急いでドアを開けると、私の部屋にいる時の定位置に座って寛ぐきゅうりがヒョイと手をあげた。

「お帰り」

「く、くくくく楠本さん!?あれ?今日は飲み会って・・・」

 言ってませんでしたっけ?と最後まで言わなかった。それよりヒールを脱いで部屋に入ることの方が先だ。

 先月のバレンタインで、私が突き出したコンビニチョコに大爆笑したきゅうりは、それでもやっぱりそれだけでは終わらせなかったのだ。

 何と、合鍵を強要した。

『俺の部屋に越してくるか、お前の鍵をくれるか。好きな方を選べ』

 そう言って見下ろし、大変美しい微笑みを浮かべたのだ。

 きゅうりの部屋に行ったって、実際のところ私のすることなんてない。それに第一あそこは広すぎて落ち着かない。というわけで、何か釈然としなかったけど、私は自分の部屋の合鍵を作って渡したのだ。

 きゅうりが私に黙って入ってることは一度もなかったから驚いた。しかも、今日はお世話になっている会社の社長と飲みにいくって言ってなかったっけ?

 きゅうりはああ、と片手を振った。

「向こうの都合でキャンセルになった。決算後でまだバタバタするんだろう」

 ・・・あ、そうですか。私は、はあ、と呟いて鞄を置いてカーペットに座り込む。

 何かの資料を読んでいたらしいきゅうりはそれを置いて顔を上げた。

「どうした?何かあった?」

 何で判るんだろう。私ってそんなに顔に出てるのかなー。・・・出てるよね、知ってる知ってる。自分で突っ込んで苦笑する。言っていいのかなー、きゅうりは仲間さんから聞いてるかも知れないけど・・・。うーん。

 黙って悩んでいたら、おい、と声がした。

「トマト?」

「あ、はいはい」

 うーん、でもちょっと気軽には言いにくい話題なんです〜。だって・・・妊娠、だし・・・。

 私は無駄に鞄を開けて用もない中身を取り出しながらパッパと言う。

「今日ね、仲間さんが驚きの話をしてくれはったんです〜。それでまだ驚きが抜けないで・・・えーっと・・・」

 バタバタと鞄の中身を全部出して、それからよいしょと冷蔵庫まで這って行く。

「それでね、何と仲間さん御懐妊してるらしいの。それで今日は一日頭が大変で・・・」

 冷蔵庫の中身を確認する。だけど別に用はない。仕方ないからそのままでしばらくドアの中身を凝視していた。

「だから?」

「だから・・・」

 うん? 私は冷蔵庫のドアを閉めて、振り返った。

「・・・楠本さん、知ってました?」

 きゅうりは資料を鞄に仕舞ってあっさりと頷いた。

「うん。よほどの理由がないと仲間が異動なんてないだろうと思って、聞いた。そしたら母親になるのよ〜って踊ってたぞ」

 ・・・いやいや、踊っちゃ駄目でしょ、妊婦さん。取り敢えず突っ込んでおいて、それから何かムカついた。

 むすっと膨れると、きゅうりがあん?と声を出す。

「何怒ってるんだ?」

「・・・私、知りませんでした」

 そしてあなたは教えてくれませんでした!何でよ〜、そんな大事なこと教えてくれてもいいじゃないのよー!最近仲間さんの異動に関して凹んでいたことを知っているのに、それかい!と思って、私は腹を立てていた。

 こともあろうに、きゅうりは嬉しそうな顔をした。切れ長の瞳を煌かせてにんまりと笑う。

「珍しいな、トマトが怒ってる」

「うるさいです!」

「こっちおいで」

「い、いいい嫌です!」

「あ、真っ赤だ」

 うきいいいいいいいいいい〜っ!!!私は両手で熱くなった顔を挟んでバスルームに逃げ込んだ。ドアをバタンと閉めて、ずるずると座り込む。

 く、悔しい〜・・・・。また遊ばれてしまった。

 でも私は今、怒っているのだ。いつものように素直になんか出来ない。出来ない出来ない出来ないの!

 狭いバスルームの中で、重い重いため息をついた。

 ・・・・あーあ。






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