1、愛情の塊。@
翌日。ヤツが起きるより早く起きて朝食を作って置いておき、連絡ボードにマジックで書き殴った。
「お盆でバイトも休みだし、しばらく実家に戻ります。都」
事実上、ヤツとは夫婦でないから実家という単語は使いたくない。だがしかし、家を出ている身ではあるのでそう言うしかない。
同居人としては素晴らしいが、男として意識してしまえば実にムカつく喧嘩(ま、一方的に怒っていたのは私。それは判っている)をしたので、暖簾に腕押し状態が嫌で逃げることにしたのだ。
アッデュー!ダレダレ面倒臭がり宇宙人!
しばらく、なんて期間は決めてない。
だけどすぐに契約解除で離婚届けってわけでもない。
微妙な話題で沸騰してしまったし、合わせる顔がないっていうのが正直なところ。
恥かしいのだ、とどのつまり。いやあーねえ、奥様ったら!と爽やかな空に手刀を降り下ろす。
とにかく、ヤツが起きる前に全ての家事を終わらせて、私は鞄一つでアパートを脱出した。
まだ早朝の光と風が私を包む。
駅までゆっくりと歩いて、昨日の喧嘩(何度も言うが、怒ってたのは私だけ)のことを思い返したりしていた。
・・・・言っちゃったなあ〜・・・。
頭に血が上ったとはいえ、結構露骨なことを言っちゃいました。あーあ。
あの後はそのまま部屋から出なかったから、やつがどうしたのかは知らない。音だけで想像すると、いつものようにお風呂に入り、座椅子でダレダレと読書をして、寝たらしかった。
怒った私の部屋を訪ねての話し合いは興味がなかったらしい。・・・もしくは、ただ単に面倒臭かったか。そっちの方が有り得る。
それともそれとも!もしかしてすぐに忘れられていて、なかったことにされているかも!・・・・それも、じゅーうぶんに、有り得る・・・。ああ、そうだったらマジで泣ける。
一人で勝手にがっくりして、私は両親の住む家まで向かう。
電車の中は朝も早くと言うのに家族連れが多かった。
・・・そっかあ〜・・・皆、お盆で帰省かなあ〜・・・。それか、家族旅行。
子供達のキラキラした笑顔と弾ける笑い声で電車は騒がしかった。
いつもなら気にならないそんな声も、今日の私には眩しいぜ!もう、ヤツとの子供は期待出来そうにないしな。あの調子じゃねぇ。
どんよりとした私とは裏腹に見事な夏晴れ快晴の青空の下を、私は一人で家に帰った。
「何であんた一人なのよ」
当たり前だけど、開口一番母親が言ったのはそれだった。
・・・お帰り、があってもいいと思うのですが。
私は顔も上げずに後ろむきに手だけをひらひらと振って言った。
「ヤツは繁忙期でも私は休み。だから主婦は休業」
「何言ってんの、あんた」
忙しいダンナさんをそこで支えてこその主婦でしょうが!と主婦歴40年の母が後ろで怒鳴っていたけど、無視した。
そして元自分の部屋に入ったら、そこは綺麗に片付けられていて、既に私の部屋ではなくなっていた。
母親の衣服の詰まった箪笥や鏡台なんかが引越ししてきていた。娘が無事に嫁いだと思って家の片付けもしたのだろう。
・・・・くっそう・・・結婚とはこんなに恨めしいものだったのか。
母親は一人でいきなり戻ってきた娘に夜までぶつぶつ言ってたけど、無口な父親と二人なのは実際寂しかったらしく、夜ご飯は私の好物で溢れていた。
おお〜!と嬉しく思って、手を叩く。こういうところが、母親だよなあ!素直にお帰りって喜べばいいのに〜、などとうきうき食卓につく。
好物ばかりの食卓を両親と囲んで和やかに談笑し、テレビを見て和む。
その間一度だけ、ほったらかしてきた面倒臭がり屋のヤツのことを考えた。・・・ご飯、食べたかな。
でもヤツは、基本的には何でも出来る。実家暮らしだった割には家事全般が出来る。苦手だとは言っていたけど、便利な男なのだ。
だから繁忙期の彼を放置してきたことへのちょっとの罪悪感は、バラエティ番組の笑い声ですぐに飛ばされてしまったほどだった。
両親の家にいる間、ここぞとばかりに腰痛もちの母親にこき使われた私だった。廊下の電球替えから大きなものの買い物、世間話の相槌から祖母のお見舞いの付き添いまで。
偽装結婚で、しかも喧嘩したという秘密を抱えている私は下手に突っ込まれないようにと素直に同行し、お盆休みなのに結局バタバタと働いた。
その間、母が一度、埃だらけになって物置を掃除する私を振り返って言ったのだ。
「あんた、結婚指輪は?」
ううむ、来たか。どうしようかな〜・・・母親に見えないように汗だくの眉間に皺を寄せて、一瞬考え込む。
だけども自分の母親だし、小さな嘘も積み上げるのに疲れたしな、と思って正直に答えた。
「まだ買ってない」
「え?」
案の定驚いた母親ににっこりと笑ってみせ、ここからは罪のない嘘を並べる。曰く、一度見に行ったけど気に入ったのがなく、結婚も忙しなかったから指輪だけは時間をかけて好きなものを選ぼうと二人で話し、それが長引いているのって。
それを聞いて嬉しそうにした母親の顔はちゃんと見れなかった。
・・・ああ。素敵な嘘。それが本当だったらどんなにいいか。
私は続けて愚痴で曖昧な表情を誤魔化した。
「友達やら職場やら皆に聞かれてちょっと面倒臭いわ。でもファッションリングだとやっぱり判っちゃうし、家事の邪魔だからって言ってるの」
すると母親はパッと笑顔になって、そうそう、それじゃあね、とバタバタ物置を出て行く。
うん?首を捻ってしばらく待ったけど戻ってこないので、物置の掃除を再開した。
何とか片付けて、ふう、と息をついたところで、家の中から呼ぶ声が聞こえた。
「みやこー!」
・・・はいはい。次はなんですか。若干げんなりしながら戻ると、母親がニコニコしながら指輪を差し出した。
「・・・何、これ」
「何って、結婚指輪よ。お母さんのだけど」
「え?」
顔に汗を浮かべながらニコニコと微笑んで、母親は言った。
「最初の結婚指輪なの。それから指が太っちゃって、入らなくなったのよ。お父さんも同じくらいにやっぱり入らなくなったから、買いなおしたの。あんたが小学生くらいの時にね」
・・・へええ〜・・・。そういえば、なーんとなく、見覚えあるかも・・・。
母親の手のひらでまだ幾ばくかの輝きを持って、私こそが結婚指輪である!と主張するように光るリングを見詰めた。
「今の都なら同じくらいのサイズだと思うの。周囲に聞かれるのが嫌なら当分これをしておきなさいよ。お父さんのも二つで、どうせ都に上げようと思ってたのよ。本当にお金に困った時には質屋に持っていけるくらいには高価なものだしって」
私はもう一度、そのリングをじっと見詰めた。
若い父と母が二人で選んで決めた指輪。まだそんなにお給料もない時に買い、大切にしていた指輪を。
「・・・貰って、いいの?」
母親はカラカラと笑った。
「うちの子はあんただけだしね。私達には今のがあるから」
私は手を洗うついでにもうシャワーにしようと全身を綺麗にして、それから母親にその結婚指輪を貰った。
夕食のときには父親も自分の分を出してきて、生前分与だな、と笑いながらくれた。
母親のそれは私の左手薬指にぴったりと嵌り、キラリと輝いた。
「うーん、その細さが羨ましいわ〜!嬉しかったわねえ、それ初めてつけた時」
ふふふと笑いながら照れて、母親がベラベラ喋る。それを父親が隣で頷きながら聞いていた。
私に出来ることが、これを受け継ぐことならば。それで両親が喜んでくれるなら。そう思って、私も笑顔でお礼を言う。
父親の分を繊細な銀のチェーンに通してネックレスにする。これで、またセットになった、と思った。
目の前でご飯を食べるこの二人が若い時、一緒に選んで嬉しく嵌めた指輪なんだな。それは文字通りに愛情の塊のように思えて、未だ一人の私の胸を締め付ける。
ああ、羨ましいな。心底そう思った。
私の左手薬指。いつかはって思ってたけど、いまだ嵌るリングはあらず。ほのかにでも好きな男も出来て、しかもその相手と結婚しているのに、一体どうしてよ。
無防備な私の指に、お守りだなってその古くて細い両親の指輪を嵌めたのだ。
眠りに付くまで、指輪の嵌った指を見詰めていた。
―――――――・・・私は、一体どうしたいんだろうか・・・。
いつかはくると覚悟していたけど、8日目で母親が切れた。
「あんた、一体いつまでいるの!?」
昼御飯が終わっても居間で寛いでいた私の前に仁王立ちだ。
多分、すぐに帰るだろうと思っていたのだろう。もしくはヤツが迎えにきてくれるかと。ところが婿はいつまでも迎えに来ないし、娘はここから仕事に行っている。電話をしている様子すらないし、これは一体どうしたことだ!とずっと思っていたんだろうなあ〜。
手に取るように判るぜ・・・などと考えながら、私は適当にはいはいと返事をした。
「・・・繁忙期は泊り込みも多いから、ゆっくりしておいでって彼が」
嘘だけど。ヤツがそんな事言ったら天から槍が降る。それはそれで見物かもしれないけど、実際あったら困るしな。
母親はそれで一瞬勢いが削げたけど、また改めて腰に手をやりガミガミ言い出した。
「それにしたってゆっくりしすぎでしょう!もう帰りなさい!嫁に行った子がどうしていつまでも実家でダラダラしてるのよ!」
異議有りー!!そこには思いっきり手をあげたいぞ!事実、私は右手を高く挙げた。何がダラダラだ、あんなに娘をこき使っておいて。
私はぶーぶー文句を垂れ流しにしたが、母がこの顔をするともう一歩だって譲らないことは経験から知っていた。
だから仕方なく荷物をまとめた。
「・・・じゃあ、帰る。お父さんに宜しくね」
膨れっ面のままで言うと、やっと眉間の皺を伸ばした母親が、一生食えってか!ってくらいの保存食を入れた紙袋を押し付けた。
「・・・重い」
ぼそりと呟いたけど、これも親の愛だ、と更なる苦情を言うのは止めた。
そんなわけで、8月の下旬、私は実家を追い出され、とぼとぼと駅までの道を歩く。
ううーん・・・。どうしようっかなあ〜。普通に帰れるだろうか。相手は忘れてるかもだけど、それにしたって連絡無しで8日間も帰宅せず、だったのだ。
相手からも一度もメールが来なかったところを見ると、よっぽど呆れたか、実は怒ってるか、もしかしたら契約解除になったつもりでいるのかも・・・。
うわあ〜・・・私ったら。
一回くらいメールしておくべきだったかな、とずーんと凹んだ。
凹みすぎて少しよろける。夏の夕暮れ、まだ残る暑さにもうんざりして顔を上げたとき、あの素敵なカフェが目に入った。
「あ・・・」
・・・お茶、していこうかな。気分転換に。美形をみて、なんだったら今更だけどヤツにメールなんかしてみて。・・・晩ご飯、リクエストある?とかって。何でもなかった、みたいに。
自分に頷いた。よっしゃ、それでいこう!ナイスアイディア!
ちょっと笑顔が復活した状態で、角に見えるカフェに向かって歩き出したら、呼び声が耳を掠った。
「―――――――・・・田。兼田!かーねーだ!」
へ?と思って振り返る。私の事?
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