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「・・・・危なかったですよ・・・何で叫んだんですか?」

 後ろから兄ちゃんが呆れた声で私に言う。仕方なく、苦笑してみせた。

「・・・いやあ、咄嗟に、つい」

「危ない人だな・・・。どうか、長生きしてくださいね、たまたま今回は無事でしたけど」

 つられたか、兄ちゃんが苦笑した。よく考えたら、この兄ちゃんも危なかったのだ。私のすぐ後ろにいたのだから。私は彼のその顔を見て、やっとの安心感からつい笑う。今回は、じゃないの、実は。心の中で言った。命を狙われるのは、数え切れないくらいなのよ。そんなこと勿論言わないが。

 疲労と安堵と空腹感も手伝って、ケラケラと兄ちゃんも一緒に笑っていた。ボロボロの裸足で汗だくで、スーパーの床に座り込んで笑っていた。



 そんなこんなでやっと外へ出た時にはもう既に夜の6時だった。

 小さなショッピングモールの周りには沢山の警察車両や救急車、テレビ局などや人質ご一行様の家族や知人が駆けつけてきており、大変な騒ぎだった。

 両親も勿論来ていて、警察から話を聞いている。

 私は兄ちゃんと店員のおじさんと一緒に救急車で手当てを受けていた。足には切り傷が数箇所と、左腕にはナイフの切り傷。怪我をしたのは私だけだったようだから、それは良かったけど。大変な恐怖を味わった人だって何人かはいるはずだ。可哀想に・・・。

 頂いた冷たい紅茶を飲んでいたら、座っている私の前に人が立ったから固まった。視界いっぱいに広がる、黒い大きなスニーカー。

 ・・・・このごつい、黒いスニーカーは・・・・。

 紅茶の缶を当てた口元に笑みを浮かべながら、私は目の前に立つ人をゆっくりと見上げる。

「――――やっぱり来ちゃったのね」

 夫の桑谷彰人が、無表情で見下ろしていた。

 ・・・ああ、こんなシーン、何回もあったよなあ、と私はうんざりと回想する。無表情だけれども、安心してはいけない。彼の中で機嫌は台風並みの大荒れのはずだ。

 感情の読み取れない黒目を動かして、私の左腕と包帯を巻かれた足を見ていた。

「・・・怪我したのか」

 低い声が耳を掠める。

 私は立ち上がって、ニッコリと笑った。

「そう。でも無事よ。それよりも、聞きたいわ」

 そしてガラリと表情を変えた。彼に主導権を握られてはいけない。これだけ頑張ったあとで説教なんて勘弁だわ。大体私が悪いんじゃないんだし。だから一気に両目を細めて力を込める。声にもどすを含ませた。

「・・・なぜ、あなたがここにいるの?」

「―――――」

 夫は目を見開いて、少し仰け反った。驚いているようだ。まさか私が攻撃を始めるとは思ってなかったらしい。

「・・・何故って・・・テレビで君の名前を見て・・・驚いて――――」

「雅坊はどうしたの?」

「え。・・・ええーっと、母に頼んだ」

「お迎えを?あのやんちゃ坊主を親なしで泊まらせたことがないのに、高齢のお義母さんに押し付けてきたの!?」

 椅子から裸足のままで立ち上がり、ぐいぐいと間合いを詰める。彼はその勢いに押されてそのまま後ろに下がっていく。

「いや、だって――――」

「だってじゃないでしょうがっ!!」

 何考えてるんだ、この男はー!!

 一気に怒りを爆発させて、私は夫の胸倉を掴む。

「ここにきたってすることがないのは一目瞭然でしょう!私は父親であるあなたに息子を託したのよ!よくも、それを途中でほっぽリ出して―――――」

 怒気も荒くまくしたてる。彼は盛大なため息をついて、片手で両目をごしごしと擦った。そして低く唸る。

「・・・まり」

「帰って」

「は?」

「今すぐ帰りなさい!ちゃんと約束通りに雅坊の世話をして頂戴!なんてことよ、コレじゃおちおち家も空けられないじゃない!」

 彼は見開いた目で私を凝視した。

「・・・それは俺の台詞だろ」

「帰れー!!」

「・・・はいはい、判りました・・・」

 周囲がこの喧嘩を苦笑してみていたのは、私は熱くなっていたから知らなかった。あとでこれを聞いた母親が、あんたを心配して沖縄まで飛んできてくれたダンナに何て薄情な!一日くらい沖縄でゆっくりさせてあげなさいよ、あんたって娘は!と私を叱った。

 ふん。

 私は膨れっ面でオリオンビールを飲み干す。

 私の心配?そんなの言い訳だ。だったら警察の制止なんてものともせず突っ込んでくるべきだったでしょうが。それにどうせ来るなら雅坊も連れてこれば、そのまま家族で休日を過ごせたものを。

 滝本さんの捜索もほったらかしで来たらしい。全く、あっちでもこっちでも役にたたねー男だったわけだ。

 二日目の沖縄も晴れていた。私は怒りをぶつけるかのように自分の荷物を整理した。そしてほとんどガンガン捨て去り、両親の手伝いもした後、沖縄をあとにした。

 戻ってから、折角迎えに行ったのに礼もなく怒って追い返した私と、想像したとおりに夜泣きで暴れまくった雅坊の世話で完全に屍と化していた夫の彰人を蘇生させるのに時間がかかった。

「・・・ただいま」

 私がにっこりと微笑むと、床に寝転んだままで両目を開けた夫はちらりと私を見た。――――膨れてやがる。

「おかえり」

 ぼそっと呟く。

 私は大げさに部屋の中を見回して、それから聞いた。

「雅洋はどこ?」

「・・・昨日の夜も大変で、これ以上無理と思ったから日曜保育に放り込んだ・・・」

 ―――――あれまあ。即行リタイアかよ。やっぱり無理だったか、母なしでは。

 ため息をついて肩をすくめた私をじいーっと見ている。不機嫌そうだ。

「どうしたらいいの、私?」

 一応聞いとこう。本音を言えばガンガン足で踏みつけたかったけど、円満な家庭環境の為には多少の我慢がいるわよね。

 大人になったぜ、私。

 拗ねまくった上に寝不足で過労の男はぼそっと呟いた。

「・・・最大の賛辞と賞賛、大量の愛情が必要だ」

 私はよいしょ、と方向を変えて、床に転がる夫の上に覆いかぶさった。そして至近距離で見詰めながら、ゆっくりと笑う。

「―――――あなたは、私には勿体無い男だわ」

「・・・ふむ」

「素晴らしい行動力と大切なものを守ろうとする性格を愛している」

「うん」

「あなたの外見も好きだし、賢い頭も、私を甘やかすところも大好きよ」

「・・・それで?」

「この3日間のお礼に、私を好きなようにしてもいいわって言ったら、喜ぶ?」

 私の下敷きになりながら、しばらくじいーっと微笑む私を見詰めていた。彼の冷静な一重の黒目の中に、見慣れた欲望の炎が燃え上がるのをしっかりと見た。

「・・・好きなように?」

「そう、あなたの望むように」

「何でも?」

「何でも。あ、でもスカトロは嫌だ」

「・・・俺だってヤだよ」

 くっくっく・・・と笑い声が漏れる。彼の体が笑いで揺れると、上に寝そべっている私の体も一緒に揺れた。よしよし、機嫌は直ったらしい。私は人差し指で彼のつんと尖った鼻先を弾いた。

「それでチャラ。どお?」

 夫は口の左端をきゅっと上げて、色んなものを含みまくったいつもの笑顔をした。瞳の中ではキラキラと炎が燃え上がっている。

 そして寝転んだままで首を傾けて、壁の時計を見る。

「・・・雅のお迎えまで、あと4時間・・・」

 そう呟いて、熱い視線を私へ向けた。さっきとは違う、子供みたいな無邪気で大きな笑顔でにーっこりと笑った。かなり嬉しそうだった。

「じゃあいまから、俺の、望み通りに」

「畏まり」

 私の返事にもう一度笑って、彼は片手で私を抱いたままガバッと起き上がる。そしてその勢いを利用して、かなり強引なキスをした――――――




 後日判ったこと。

 立てこもりの犯人は、あのショッピングモールのオーナーに人生を破壊された男だったらしい。オーナーを道連れで自殺しようとしていたと聞いて今更ながらぞっとした。そんなものに巻き込まれなくて良かった。そしてあとの二人は中国人で、金を盗んで船で台湾へ渡ろうとしていたと判った。だからショッピングモールでは人質の見張りもせずに各店舗のキャッシャーを壊しては金を集めていたんだと判った。

 夫の彰人は滝本さんの捜索に少しだけ戻った。

 半日程度で戻って来て、「俺の仕事は終わり」と宣言して、後は関わろうとしなかった。後で滝本さんが見付かり、お礼に奢ると誘われた日は深夜に戻って来て、奢られた割には嬉しくなさそうな顔でお風呂に入りに行った。

 私がどう聞いても皮肉な笑顔で交わしてしまう。・・・何なのよ、一体。

 時は真夏。今日も暑い一日の始まりで、彼を送り出したあと、私は雅坊の手を引いて保育園に向かう。

 空には大きな入道雲。振り仰ぐと飛行機雲まであって、雅洋が興奮して笑い声を上げていた。その声でさえも、吸い込まれそうな青い空だった。




 「女神は裸足で駆け抜ける」終わり。


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