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一人になった私は少し呆然としていたと思う。まあ、それは仕方ないかもしれないけどね。周りは色々慰めてくれたようだったけど、耳には入ってこなかったな。
マネージャーに頼んで仕事を減らして貰った。
そしてちょっとだけだけど、旅行に出たんだよ。外国へ。・・・・え?ああ、パリだ。私はあの街が好きでね。ハチミツ色なんだよ、あの街は。
神谷君は行ったことがある?ない?・・・そう、アメリカね。あははは、確かに。私もフランス語はちっとも判らないから、いつも同じカフェに行ってメニューを指差して注文していたよ。これ、って。日本語で押し通してたな。
えーっと、それで・・・。
セーヌ側の橋の上で画家の卵達が人々の似顔絵を描いているのをみていたり、川を見ていたりした。ルーブルにもよく通ったね。
2週間パリにして、したことはそればかりだった。
橋の上で景色を見、ルーブルで美術品を鑑賞する。ただぼーっと見ていたな。ああ、これがレンブラントでこれがダ・ヴィンチでフェルメールで、なんて思わずに。ただ見ていた。
何とも思わなかったね。巨匠達の作品を見ても。多分、それだけの元気がなかったんじゃないかな。芸術がわからないだけかもしれないけどね。ははは。
そして、朝も晩も川に行った。
川は人間をひきつけるものがあると思わないかい?色んな人が見ていたよ。暗い顔をした人や、恋人達。小さな子や画学生。
風が冷たかったけど、ずっと立っていた。
美術館近くの橋の上は、子供のスリがたくさんいるんだよ。観光客の懐を狙うんだ。新聞紙を顔に被せてきて、そのすきに取って逃げる。何人も見たな。暇だったから一度捕まえて話してみたんだ。
ん?いやあ、ちょっと興味があってさ。
別に貧しい子供達ってわけじゃないんだよ。普通の子だ。ただ、刺激が欲しくてやってるって言ってたな。でもあのぎょろぎょろと警戒する目は忘れられないね。子供でも、犯罪を犯すときはあんな目をするんだな、と思った。
それでね、これも話したことはないんだけど・・・。
うん、君が初めてだね。
・・・・指輪をね。・・・そう、結婚指輪だ。妻の分と私の分、一緒に持っていたそれを、川に投げたんだよね。
え?・・・いや、これはこういうこと。
そんなつもりがあって持っていったんじゃないんだけど、川のほとりに立っているとね、毎日散歩しているおじさんと知り合いになってね。顔見知りって程度だけどね。
私を見慣れると帽子を上げて挨拶してくれるから、こちらも会釈を返していた。
10日ぐらい経っていて、その人が聞いて来た。あなたはここで何を待っているのですか、と。英語だったね。私がフランス語がわからないと判ったのかな。
何かを待っているように思えたらしい。
それで私は答えた。別に、誰も待ってませんって。ただ、川を見てるんですって。
するとその人は優しい目をして覗き込んできた。言うんだ、ああ、何か、とっても辛いことがあったんだね、って。
厳しい現実を見てきたのかい、と。
話すのが億劫で頷いただけだった。だけどその人はしばらくしてから言った。
セーヌは引き取ってくれるからって。その辛いことは、ここに投げて帰りなさいって。自分の国に、それを持って帰ってはいけないよ、と。
私はビックリした。
でも何だか泣けてね。それで、その時までは考えてもなかったのに、指輪を二つとも、川へ放り投げたんだ。
指輪は沈んですぐ見えなくなった。
その人は頷いて、それでいいと言った。
だから私は、その翌日、日本へ帰国する準備をしたんだよ。
嫌な、辛い記憶は捨てたから、と思って。
これでもう苦しまなくても済むんだって。
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その日もお手伝いさんがいた。また微笑んでたくさんお菓子を出してくれたのだ。
旗もにこにこ笑って勧める。
「美味しいものはある時に食べておかないと、後で後悔することになるよ。沢山食べなさい」
そう言って。
今日の話を頭の中で反芻しながらブーツを履く。そろそろこのブーツでは我慢出来ないくらいの温かさになってきた。
「気をつけて帰りなさい」
「はーい」
オレはいつものように中途半端に頭を下げる。
旗がオレを見ていた。口元は笑っているけど、瞳の辺りはポーチの陰になっていて見えない。
パッとそらして、前に足を出す。・・・振り返らなきゃ良かった。
かぽかぽかぽ・・・ちゃんと履いてないブーツが音を立てる。駅前まで来て、腹はいっぱいだけどペプシ買って帰ろうかな、とコンビニによりかけて、おーい、という呼び声を聞いた。
「ピンク!」
「・・・」
振り返ると、ごついバイクの傍に立つシンが見えた。・・・・あーあ、あんなところに路駐して。見付かったらやばいのに〜。
ぼーっとそれを見ながら思っていると、サングラスを頭の上にあげて、メットを脇に抱え、シンがこちらに歩いてくる。
今日は黒い革パンツにライダースジャケットという格好だった。黒くてヒールの高いブーツを履いている。何かの映画から出てきたみたいだった。
通行人が振り返ってわざわざ見ているのが視界に入る。・・・目立つよな、やっぱり。
「ピンク?聞いてる?」
シンが目の前に立つ。ヒールのせいでまた見下ろされる。もう慣れたけど〜。オレは絶対自分より身長の低い子を彼女にするぞ。
「・・・夕方なのに、まだ元気なんだな、シン・・・」
声にうんざりした感じが混じった。それをシンも感じ取ったようで、眉が不機嫌に釣りあがる。
「ピンクの為に動いてやってるのに、どういう言いザマだよ、それは!」
きゃんきゃん喚くな、余計に目立つ・・・。ぽりぽりと頭を掻いてからシンを見上げた。
「それで、何か用?」
形の良い唇から、Fack you!と漏れたのを確かに聞いた。無視したけど。こいつは本当に令嬢か?
シンは腰につけたポーチから折りたたんだ紙切れを出してオレに押し付けた。
「ハルが言ってたチョーショだよ!うつしたらダメだって言うんだけどさ、ポリスはどこでもケチだよね」
「・・・でもうつしたわけね」
ふふんと笑ってシンが顎を上向ける。
「そんなのピース・オブ・ケイクよ。あたしを誰だと思ってんの?」
傲慢なバカ女・・・・って答えたら、この場で殺されるんだろうな、そう思って口には出さなかった。
「・・・ああ。えーっと・・・サンキュ」
一応礼を述べる。実際のところオレにとってはどうでもいいんだけど――――――
そう思いながら、シンが期待したみたいに見るから仕方なく紙を開いてみた。
『武田朱実に関する死亡状況:死因は溺死と見られる。解剖の結果、肺の―――――』
あ、そうだ。
途中まで読んでから顔を上げた。一応こいつも女だし、聞いておこうと思ったのだ。
「シン、のぼせたら、風呂で溺れても可笑しくない?」
「え?・・・のぼせ、が判らない」
黒い瞳を少し細めて考える顔をした。ああ、そうか。のぼせ・・・のぼせって英語で何て言うんだろ・・・。
「Ah〜・・・I sweat when I take a bath, and a head reels・・・」(風呂に入ると汗かいて、頭がくらくらして・・・)
「A rush of blood to the head?」(頭に血が上る?)
「あ、それそれ」
「それが?のぼせるだった?」
そう、とオレは頷く。そんな単語ないのかな、もしかして。
「シン、そんなのなるか?風呂入ると」
少なくともオレはならない。もしかして貧血気味の女の人なら当たり前なのかな、と思ったのだ。こいつは血が有り余ってそうだけどな。
うーんと眉間に皺を寄せて悩んでいる。でも少し間をおいて、頷いた。
「普段はシャワーだからそこまでならないけど・・・having a period の時は、あるかな」
「あ?」
「女の子が・・・あー、血を出す日」
ああ、生理ね。なるほど。それはそうかも、とオレも頷く。シンは怪訝な顔をしている。だから?と思ってるんだろうなあ〜。
「その、のぼせているって時は酷い?つまり・・・うーん、自力で立てなかったりする?」
「・・・一体何が聞きたいんだ、ピンク?・・・まあ、そうだね〜、地球の重力を物凄く感じるというか・・・体がすごーく重く感じるんだよ。目がチカチカして。ああ、やばいって感じかなー」
夕日に目を細めてシンが説明する。
温かい夕方で埃っぽい空気が駅前を埋めていた。それをオレも目を細めて見ながら、そうなんだな、と思った。
もし、旗の奥さんが本当にのぼせていたとすれば、風呂に誤って沈むことだって有り得る――――――――・・・・・
「神谷君、彼女さんかな?」
突然、頭の後ろで声がした。
そくりと背筋が震えて体が震える。うわあ!?と声を上げて振り返ると、帽子を被ってサングラスをした男が立っていた。
あ――――――――――――・・・・・・
「・・・」
少しばかり顔を隠してはいるけれど、目の前に立っているのは旗だった。
後ろでシンが首を傾げた気配がする。オレはつい、唾を飲み込んだ。手に持った調書の写しをそろそろと下へ降ろす。
「・・・・いえ、こいつは・・・・友達、です」
彼女だなんて、とんでもない。驚いててもそれはすんなり否定できた。
っつーか、どうしてオッサンがここに居るんだ。さっきの話、聞いていた?どこから居た?調書って判った?・・・もしかして、これってヤバイ??
駅前のコンビニ前で、旗がオレの後ろに立っていた。
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