2、差し出された手を掴む
まだ明け方、私は目を覚ます。
薄暗い部屋。静かな寝息が聞こえる。
私の隣では高田さんが眠りについている。
通った鼻筋に、真っ直ぐな眉、長い睫毛。開けると静かな光をともすアーモンド形の両目。
黒髪が垂れて顔にかかり、それが色気を出していた。
・・・ううーん、綺麗なお顔・・・全く、驚くことばかりだわ・・・。
昨日のパニくった自分を思い出してフフフと笑う。
こんなサプライズが自分の人生に起こるなんて不思議だ。ここ3年、私はまるで真っ暗闇の中でジェットコースターに乗っているみたいだった。
昨日の夜、一度抱いてから、彼はフラフラの私をお風呂にいれた。
誠二は一緒に寝た後の触れ合いを面倒臭がったり嫌がったりするところがあったから、私は驚いて、二人で湯船に浸かるってことに多いに照れまくった。
「へ!?一緒に入るんですか!?」
連れて行かれる時にそう叫んで、また普通の声で、嫌なんですか?と問い返された。
嬉しかったけど、そんなことは素直に表せられないのが32歳バツ1女の悲しいところではある。・・・関係ないか、性格か。
とにかく照れてお湯の中に真っ赤な顔を沈める私を見て、彼は楽しそうに笑っていた。
「可愛いですね、尾崎さん」
撃沈。
殺す気か、この男!私はお湯の中でぶくぶくと息を吐く。
化粧も取ってスッピンになった私の顔を見て、素顔も好きですよ、なんていう。
更に撃沈。
褒められ慣れない私はクラクラとして倒れそうだった。
その内恥かしさで死んでしまうかもしれない・・・そんなバカなことを私は本気で考えた。
色の違う両目を長い指の腹で撫でながら、愛おしそうに笑う彼が。
戻りつつあるどころか正月で結構なお肉がついた私の体にキスをして、まだまだ細すぎるって言う彼が。
この肌も、髪も、香りも、声も、自信がないところも、正直なところも、全部好きですよって、耳元で囁くのだ。
理由が欲しいならあげるからって。いくらだってあげるからって。
だから笑って、俺を見て。
嬉しそうに笑って。その顔が、とても見たいんだ――――――――――
お風呂から上がって、もう眠いから無理です〜って逃げる私の腰を捕まえて引き寄せ、楽しそうに言った。
「一度手に入れたものを、簡単に逃がすと思う?」
確かに、たしかーに、解約率も奇跡的な数字だったな、この人。両手を拘束されてキスと彼の体重を受けながら、私はそう思って諦めた。
「・・・随分長い間逃げられたから」
「・・・から?」
「何度抱いても足りない」
そして私はまた快楽の嵐の中。何度達しても彼は手を緩めない。身も心も満たされて更に溢れ出し、私は淡い花色に染まる。
安心して温かくって、眠ってしまったのだ。
目が覚めたら彼はいないかも、眠りに落ちる前にまだあがいて考えたバカなことは、本当にはならなかった。
裸のままで私に腕を回した状態で、高田さんは眠っている。
私はそれをじっと見詰める。
・・・また、恋におちてしまったんだ。
この人生ではもう人を愛せないかもと思っていた。
だけど、好きな人が出来たんだ。
空から急に降って来たような、そんな印象の恋だ。
怖くて私は手を伸ばさなかったけど・・・・それでも、待っていてくれた。
2年前の離婚が原因で高田さんが私に目をつけたとは驚きだ。だけどこんなものなのかも。人の出会いって、そうしたちょっとしたことなのかも。
『失敗したら、また次に行くのよ』
陶子の言葉が蘇る。神の前で永遠を誓ったはずの夫から別れを告げられて、私は何を信じていいのか判らなくなっていたんだ。
この恋だって、永遠だとはまだ言えない。
だけどまた好きになったし、今はこの人の体温を感じている。
・・・大事なのは、永遠だとか、そんなことじゃないんだね、陶子。
今判ったよ、私。
そうではなくて、自分が心を捧げた人と、今の一瞬をしっかりと楽しむこと。それを毎日重ねていくこと。
人を愛せる自分を愛すること。
だから、もしうまくいかなくてもまた起き上がれると判っていること。
それが、大事なんだね。
高田さんの寝顔を見ながら、そんなことを考えた。
私はもう、この人が好きだって判ってる。それで今は十分なんだ・・・。
見ている内にまた眠気がとろとろとやってきた。
私は一つ欠伸をして彼の手を握る。
眠りの中で無意識の彼はそれを握り返してくれた。
・・・・あったかーい・・・。ふんわりと優しい気持ちになる。
また眠りに落ちた。
外は春の朝、そのキラキラした光がカーテン越しにホテルの部屋の中に落ちる。
だけど私たちはそのまま二人で夢の中だった。
そして遅くまで寝てしまって会社に欠勤の連絡を入れるのが遅くなり、しかもそれを思い出したのが一緒にご飯を食べている時にかかってきた平林さんからの電話によってだった。
『君達〜、お楽しみのところ邪魔して物凄く申し訳ないけど、無断欠勤になってますよ〜』
「―――――あ」
高田さんの驚く顔も結構レアだった。
それから急いで各々が電話を入れて、勿論、それぞれの支部長にこってりと叱られた。私は悲しいことに3月のノルマ達成を厳命されるハメになった。
ガッカリして肩を落とす私に、前の席で砂糖もミルクも入れたコーヒーを飲みながら、高田さんは微笑んだ。
「大丈夫、まだ1週間ある。余裕ですよ、あと2件くらい」
・・・そりゃてめえなら簡単だろうよ。
「・・・激励感謝します」
ムカついた私は彼のコーヒーにテーブルにあった七味唐辛子をいれてやったのだった。
4月になった。
3月最後の合同朝礼で営業をやめることを発表した高田さんは、かなり惜しまれつつも(一番惜しんだのは勿論第2営業部の支部長だ)最後まで人前では笑わずに無表情で、第2営業部を卒業した。
平林さんは相変わらず営業職を嬉々として続けていて、最近ではスーパー営業からモンスター営業へと呼び方までパワーアップした。
親の敵みたいに契約を取りまくっている。監視役である高田さんがいなくなったことで、休みの日も思う存分アポを入れられるからね〜と、一度廊下で会った時に笑っていた。
私はため息をついて、過労には気をつけて下さいね、とだけ言った。
私が高田さんと結ばれたことを陶子は泣いて喜んだ。
「ちょっと強引かな、と思ったんだけど、平林さんもやりましょうってのったから部屋取っちゃったの」
そう言って、泣きながら笑っていた。
私は陶子にも平林さんが出会いとならないかなーってちょっと期待したのだ。
だけど、二人はいい飲み友達になったようだった。
「ハードワーカーは自分だけでいいのよ、美香」
そう言って陶子はぺろりと舌を出す。
月に1,2回、4人でご飯に行って、平林さんと陶子がマシンガンのように話すのを私は爆笑しながら聞く。隣の席では高田さんが口元に微笑を浮かべて黙々とご飯を食べる。
そんな楽しい時を過ごして、夏が来た。
会社ではビックニュースが駆け巡っていた。何と、‘中央の稲葉’が結婚するらしい!
高田さんも平林さんも仲が良いから結婚式に呼ばれているようだった。ということは、勿論生きた伝説楠本FPも参加だろう。
その美形揃いの結婚式にどうにかもぐりこめないかと知恵を捻る女子社員が多かったらしい。
誰かを狙うわけではなく、楠本FPとその妻、そして稲葉支部長を射止めた営業職員である女性の姿を見たいのだろう。花嫁姿を。
事務員の連絡網で、彼女の写真と名前まで支部に回ってきて驚いた。・・・すんげーな、事務員の結束は。でもこれって最大の個人情報漏洩なのでは!?いいのか保険会社!そう思ったけど、実は私も皆と一緒にプリントされたものを覗き見た。
誘惑に負けたのだ。所詮私も煩悩の固まり・・・。
明るい笑顔の彼女だった。優績者研修の時の写真らしく、彼女までやり手の営業なのか、と皆で唸ったものだ。やはり優績者は上司の覚えもいいんでしょうねえ〜と中村さんが言っていて笑えた。
弓座さんも一緒に、支部長職の男性を捕まえたかったら成績もよくないとダメなのか、じゃあ私は無理だ!ってケラケラ笑っている。
会ったこともない、この間まで存在すら知らなかった彼女は、稲葉さんが営業として在籍していた中央事務所では「玉ちゃん」とすでに愛称で呼ばれているらしい。
稲葉さんは愛されてるんだな、そう判った。
稲葉さんの結婚式には、うちの会社を騒がせた壇上表彰と広報掲載の常連メンバーが久しぶりに一同に揃うのだ。それはそれは見ものであるはず。
美形、エリート、高い身長と、付随する高い実績や評価の彼等が。
私は高田さんにお願いしても無駄だと見切りをつけ、平林さんに結婚式の集合写真を見せてもらえるように頼んだ。
すると平林さんはあっけらかんと笑って、何言ってんの、と言う。
「尾崎さんも式には呼ばれてるんだよ。聞いてないの、高田から?」
驚きで口が開きっぱなしになった。
・・・何だとー!?聞いてねえよ!!
どうやら高田と付き合っている噂の彼女が見たいから、二人で来てくれと中央の稲葉本人が言ったらしい。招待状は改めて送るからと。
うっそ・・・。いや、私、無理ですから。あなた達の中には入れませんから!って。
楠本さんも稲葉さんも平林さんもその他大勢の支社長や営業部長や支部長や課長達が集まる結婚式場で、あれが高田の彼女か!なんて目で見られたら、すぐにその場で2メートルくらいの穴を掘って埋まってしまいたい気分に襲われるだろう。
そんな・・・私が可哀想過ぎる。
だけど着々と時間は進み、夏が終わるころ。
噂の‘中央の稲葉’と、その彼女、‘玉ちゃん’の結婚式が森の中の教会で行われた。
散々足掻いたけど決定事項だったので結局参加した私は、その日一日中幻の中にいるみたいな感覚で過ごした。
甘え顔で有名な稲葉支部長は写真で見るより断然いい男で、正装した姿は完璧、まさしく惚れ惚れする端整さだった。
彼の垂れ目が優しく、嬉しそうに彼女を見ている。シンプルなウェディングドレスを着た彼女は頬を染めて、ひたすら楽しそうに客の間をうろうろと走り回っていた。
ちっともじっとしていない花嫁に皆が笑う。
彼女のお母さんの涙に貰い泣きし、楠本夫婦に声を掛けられて動転し、それを平林さんに見られて笑われ、心の中で彼に呪いをかけた。
私の隣には本日も実に無表情で、でも格好良い高田さんが立っている。
フラワーシャワーを主役二人に浴びせてその後姿を見ている時、それをじっと見ていた高田さんが私の腕を引っ張った。
少し後ろに下がり、主役に拍手する客の輪から離れる。
「高田さん?」
見上げる彼は眩しそうな顔で私を見ている。
「どうしたの、まだ――――――」
終わってないよ、と言おうとしたところで、珍しく彼が遮る。
「・・・見たいな、と思って」
「うん?」
少しだけ口元を緩めて、彼は首を傾ける。
いつもよりキッチリとしたスーツに包まれた肩が私の顔の前に来て、耳元には彼の吐息。
身を屈めて彼は私の耳元で囁く。
「・・・美香の、ウェディングドレス姿も、見たいな、俺」
ハッと息をのむ。
彼は上体を起こして真っ直ぐに立つ。
そして初めてみる照れた表情で、手を出した。
「行こう」
彼の背後には、今日夫婦になることを誓った新婚の二人が寄り添っている。大勢の人がそれを祝福して拍手や歓声を送っていた。
キラキラと光る笑顔。
新郎がいきなり新婦を抱きしめてキスをして、わあっと会場が沸いた。彼女は顔を赤くして恥かしげに稲葉さんを睨んでいる。それを周りが囃し立てる。
幸せそうに微笑む中央の稲葉がまた彼女を捕まえる。彼等のまわりにはたくさんの花びらが舞って、光をまとってキラリと輝く。
その前で。
私を見て、照れて微笑む高田さんが、手を出している。
それを端から眺めて楠本さんや平林さんが並んで微笑しているのが見えていた。
視界が潤んで揺れた。
だけど何とか口角を上げる。
そして彼の手を取って、二人で皆の輪の端に戻って行った。
繋いだ手がいつものようにぬくもりをくれる。
それはゆっくりと体中に浸透してまわり、私の全部を温めた―――――――――
「黒胡椒もお砂糖も」終わり。
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