1、すべりこみ。


 
 就活には、見事に失敗した。


 ・・・・・・・失敗したああああ〜・・・・。


 超超氷河期だって、言い訳にはならない。

 だってこんなご時勢でもちゃんと正社員になった人がいるわけで。

 私はなれてないわけで。

 他にやることもないわけで。

 資格浪人だって就職浪人だって、言ってみれば同じ浪人、あたしは、別に何か目的があるわけでないし、それも嫌だ。

 大学の卒業式。あたしは胸には苦い決意を、瞳には辛い涙をためて立っていた。とにかく、働かなければ!ぶっちゃけ明日からのご飯に困る(ってのは言いすぎだけど、そんな心境で)。

 風に乗って微かに香る土の匂いが鬱陶しかった。まだまだ引き受け先は決まってないのにカレンダーは進み、とうとう大学からも出なくちゃいけない日に。

 うううううう〜・・・ヘビーだぜ、人生。

 大学卒業してすぐ就職なんて日本くらいだい!と喚いても、私はその国に籍をおく日本人。

 日本では、健康な若者が働いてないとニートとかプータローとか呼ばれて差別を受ける。受けるに違いなし。

 今まで人様に後ろ指さされるようなことはしてこなかった私の人生で、これは初の、しかも最大の挫折だ!

 どこにも受け入れてくれる会社がないなんて。私は必要とされてないって自分で何度も認識させられる辛い春だった。

 と、いうわけで、滑り込んだわけ。

 もう、ここでいいやな心境で。

 場所はとある保険会社の事務所。

 4月の中旬に方々にばらまいた履歴書の一枚が採用通知と共に戻ってきた。私は事務員として、アルバイトで雇われたのだ。

 一応、「正社員途用有り」ってかいてあったから。

 アルバイトだったけど、受け入れてくれたという事実がただひたすら嬉しかった。採用通知はその晩、抱きしめて眠ったのだ。

 そしてるんるんと出勤する。

 流石国内大手の保険会社、従業員だけでもかなりの人数だった。私は家から一番交通費がかからない事務所の担当と決まり、面接や採用説明を受けた本社からそちらに向かう。

 勤務するのは、男性ばかりが営業職で飛び回っている事務所だった。

 で、そこには多種多様な人間がいたのだけれども、その中にヤツもいたわけ。

 初対面の印象が一番悪かった男。

 やたらと高いところから見下ろして、初会話で私を笑いものにした男。

 ヤツ―――・・・・・きゅうりが。


 「よう、トマト。ご機嫌斜めか?」

 手に持っている資料で私の頭をぽんぽん叩く男一名。

 念のために。

 私の名前は勿論トマトなんかではなく、両親がくれた瀬川千尋という立派な名前がある。ちなみに、自分ではこの名前がとても気に入っている。

 友達は私のことを、千尋、もしくはちーちゃんと呼ぶのだ。

 ところが、身長185cmの高い場所から見下ろしてくるこの男は、私のことを子供達があまり好きでない真っ赤なお野菜の名前で呼ぶ。だからお返しにこちらがヤツにつけたあだ名は「きゅうり」。

 この男が赤面症の私をからかって「トマト」と命名したのは私の出勤初日。自己紹介を終えて緊張でカラカラになった喉を潤そうと自販機にヨロヨロと向かっていて、曲がり角でぶつかったのがファーストコンタクト。

「うわあっ・・・す、すみません・・・」

 慌てまくった私は目の前にある胸元すらよく見ずに、反射的に頭を下げた。

 やたらとデカイ男にぶつかった、としか認識してなかった。

 するとぶつかった相手は真っ赤になって謝罪する私の顎をいきなり掴んで上を向かせた。

 その挙句、タイミング悪く荒れ荒れになっていた唇を見てこう言ったのだ。

「お前、潤い足りてないんじゃねえ?」

 ――――――――はい?

 ハスキーな声が耳をくすぐる。顎を掴みあげられているから、相手の顔をつい凝視してしまった。

 そこには、見たこともないような整った顔があった。

 唇の端を面白そうにきゅっと上げて私を見下ろしている。

 あまり男性に縁のない人生を送ってきた私の前にはやたらと綺麗な男の人の笑顔。

 当然、私は更に真っ赤になった。全身で真っ赤になった。

 それを見て、何とこの男は大爆笑のあげく、「お前、トマトで決定」と言い残して立ち去ったのだ。

 ――――――――・・・・へ。

 ・・・何、今・・・あの人、何つった・・・?

 当初の目的である缶ジュースを買うというのは、これで完全に頭の中から吹っ飛んだ。

 私はその場でしばらく化石と化していて戻るのが遅れ、教育係の事務員さんを大変心配させた。

「瀬川さん?大丈夫?顔、赤いけど・・・」

「あ、はい。大丈夫です、遅れてすみません」

 ・・・し、信じられない・・・。ヨロヨロと机に手をつく。

 男に触られた。いきなり顎を掴まれた。しかもしかも・・・・赤面を、大爆笑された・・・・・。

 それだけで、以後3日間は思い出しては憤死しそうになったのだ。

 以来、私は心の中でこの男を「きゅうり」とよんでいる。

 あのきゅうりだ。お野菜のきゅうり。シャキシャキしてて、ちょっと使うのが遅れたらぐんにゃりと水になってしまう緑色の長細い物体。

 面と向かっては言えないけれども、心の中ではそれ以外で呼ばないと自分に誓ったのだ。

 ヤツは、別に細長くもニキビ面でもない。

 学生時代はテニスで鍛えた(らしい)引き締まった身体、黒い短髪、切れ長の瞳、完璧な口元と鼻筋、長い手足、ハスキーな声。

 悔しいことにヤツはどこからどうみてもいい男である。

 いい男、と分類されると思う。

 いやむしろ、極上の美男子である(認めるのは非常に悔しいが)。

 仕事も出来る(らしい)。

 しかも独身(らしい)。

 私以外には優しい(らしい)。

 昔で言う3高を地でいく男、らしい。

 ってのは、食堂で話す派遣社員のお姉さま方の話を聞いたから。

 ただし、この男、S。

 心の中で彼をきゅうりと名づけたのは、口でも態度でも仕事ぶりでも敵わない男に対する、私の精一杯の反抗心なのだ。


「・・・・やめてください。頭、叩くの」

 声を振り絞る。でも表情は変えないこと。こいつの意地悪にいちいち反応するのが悔しいから。

「叩く〜?人聞き悪いこと言うなよ。叩くってのはこんなんじゃねーぞ」

 笑いながらきゅうりが返す。

 ああ・・・・・・いい声。

 無駄にいい声。

 もう、ほっといて欲しい。

「アポがあるんじゃないんですか?面接士さんの手配は済んでますよ」

 私はキッと彼を睨みつけて言った。

 保険会社の男の営業は、大体がエリートコースにのっている。

 一般家庭は所謂「保険のおばちゃん」か「保険のお姉さん」がすることになっていて、男性は数年現場で営業をしたらすぐ管理職コースに乗るってことも、会社に入ってから知った。

 そして私は事務員で、保険契約に必要な病院の手配、面接士の手配、契約書の受理、顧客管理、事務所の受付なんかをやっている。

 後方で営業のサポートをしているので、営業の忙しさは知っているつもりだ。

 そしてきゅうりはバリバリのエリート。

 手帳にはいつもアポがいっぱいのはず。

 はよ、仕事にいけ。

「あ、ありがとう、あの手配、トマトがしてくれたんだ」

 にっこり微笑んで私の顔を覗き込む。

 ああ・・・またやられた・・・・。

 身体の底からあつくなってくるのを感じながら私は動けない。

 こんなに近づくと・・・・近づくと・・・・。

「あ、なったなった。本当に真っ赤だな〜!」

「!!!!」

 凝りもせず、赤面症をからかうなんて・・・・!!!

 こっ・・・殺してやりたい。

 早くその無駄に綺麗な顔をどけて〜!でないと心臓の音も消えてくれそうにない。

 文字通り真っ赤になって俯く私を助けてくれたのは隣の机を使用中の正社員の事務員、仲間さんだった。

「ちょっと、楠本君。やめてあげなさいよ、可哀想に」

 そうだそうだ、やめて下さい、私が可哀想です!私は救いの女神である仲間さんを振り返る。

 たらんとした甘い声の持ち主である仲間さんは、28歳独身。

 イケメンが好きだと公表し、エリート狙いで保険会社に入ったのだと公言してはばからないが、几帳面な仕事ぶりで、彼女なしではうちの事務所は動かない、と周囲も認めるキャリアウーマンだ。

 仕事が出来すぎて嫁にいけないと、毎年誕生日には必ず言うらしい・・・。

 化粧が素晴らしく上手で、美しいすっぴんに見えるが、実はこの顔を作るのに毎朝45分かかるのだと一度教えてくれた。

 それを知った時は驚愕したものだ。

 ちなみにこの仲間さんは、きゅうり、もとい、楠本孝明28歳独身と同期で、この事務所できゅうりに惹かれない、多分唯一の女性だと思う。

 私だって妙齢の女性、しかも女子大卒で男性に免疫の少ないこともあって、初めてきゅうりを見た時は、ときめきで心拍数が上がって死ぬかと思ったものだった。

 ただしそれは、赤面症をからかわれるまで。

 以来、きゅうりにだけは恋心を抱くまい、と固く決心しているってわけ。

 「おお、お助けマンだな、仲間。退散するよ」

 きゅうりはニヤリと笑った。そして資料を手にさっさと引き上げる。私は渾身の呪いを込めて、その背中を睨み付ける。

 くっそ〜〜〜!

 仕返しをしてやりたい。

 ううー、腹がたつったらないってーの!

 握りこぶしを作ってわなわな震えていたら、仲間さんの声が聞こえた。

「まあ、落ち着いて。楠本君は、瀬川さんのことが可愛くて仕方ないのよ」

 笑いながらさらりと言う。

「落ち着いてられません!!こっこっこれは、自分でも嫌で仕方ない、赤面症のせいなんですから!!ついでに可愛がられているのではなくて、からかわれているんです!!」

 ああ、怒りすぎて酸素が足りない・・・・。

 細長い手を伸ばし、よしよしと頭をなでてくれてから、仲間さんは首をかしげた。

「治そうとしなくていいんじゃないの?素直に気持ちが表現できるってことでしょう?本当に、可愛いとおもうけどなあ〜」

「・・・・なったことがないから判らないんです・・・。どんな状況であれいきなり真っ赤になるんですよ。頬を染める、とかのレベルじゃないの、見てて判るじゃないですかあああ〜」

 がっくりと肩を落とす私に、仲間さんはにこにこと微笑んで、容赦なく現実に引き戻した。

「はい。新契(新契約)。入力しといてね。6組あるから、今日の締め切りに間に合わせようと思ったら大変よ」

「はい。・・・・え!?6組!?」

 ガバっと頭を上げた。いきなり振ってきた現実感溢れまくりの情報に、一気に血が体中を駆け巡る。

 そんな!新契約の申込書入力は毎日4時までに終えなきゃなんない。今2時半じゃない!契約入力は一つ間違えば訂正に恐ろしく時間がかかるため、かなり集中力をつかう作業なのだ。

 慌てん坊の私、後で確認すると必ずいくつかのミスが見付かる。それなのに時間がないってやばいではないのっ!!

 しかも、今週は大きな締め切りがあるから、この後もどんどん書類が回ってくるはず・・・。

 今度はざ〜っと血の気が引く音が聞こえた。

「うわああ〜!!」

 急いでパソコンに向き直る。1秒たりとも、無駄にしてらんなーい!

 隣で同じく姿勢を元に戻しながら仲間さんがにっこり微笑んでいたことなど、私は知らなかった。



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