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本日は忘年会。
夜までは通常業務とはいえ、皆どこか浮き立って見えた。
18時、事務所内で、忘年会の担当さんが、店に移動してくださーい、と叫びはじめ、皆コートを着てぞろぞろと移動する。今日ばかりは残業禁止と事務所にも鍵がかけられた。
霧島部長がまず挨拶し、各営業チームのリーダーが今年一年のチームの成績結果報告を発表する。皆、どうでもよさそうな態度が見え見えで、独身グループは自分の前に並べられた料理やビールばかりを凝視していた。
霧島部長の演説は長い。半分くらいから私もほとんど聞いてなかった。
拍手、そして乾杯。
男性が圧倒的に多くて、何しか声がでかい。雄たけびのような乾杯に、ビックリしてコップを落としそうになってしまった。・・・何、これ。動物園か何か?
私はお酒もそれなりに好きなので(一人の時でも疲れていたり、嬉しいことがあれば飲むくらいには、好き)、嬉しくビールを飲む。
両隣に事務社員の美しい仲間さんと小動物的に可愛い杉並さんに囲まれて、楽しくお喋りしていた。
宴会場ではなく居酒屋の貸切なので、料理もあったかくて美味しい。珍しく赤面症からではなくてほろ酔いでほっぺを赤くして、笑ったり食べたりして、幸せな時間を過ごした。
仲間さんの恋愛体験記を根掘り葉掘り聞いていたら、部長がビールのコップをもってふらりとやってきたので、仲間さんがさっと酌をすすめる。
「お、悪いね、ありがとう。いやあ、ここは綺麗どころだなあ!目の保養になるね」
ほとんど酔いを見せていない部長は、人懐こい笑顔でコップを傾ける。
「君たちの頑張りのお陰でうちの事務所はもってるんだ。今年もご苦労さんだったなあ。ありがとう」
「いえ、楽しく働かせて頂いてます」
仲間さんや他の女の子がニコニコして部長と話すのを、嬉しい気持ちで眺めていた。
私、ラッキーだったな。いい職場にめぐり合えて。本当諦めなくてよかった。どのような形であれ、こうして働きに出ることで出会える素敵な出会いの結晶が、ここにはあるのだ。
そおっと店を見回す。
きゅうりは前のほうの座席でチーム員と談笑していた。酔っているのか興奮か、頬が少し赤らんでいて、なんだかとっても色っぽい。
いつもよりリラックスしているようで、柔らかい笑顔で話している。
ふと、きゅうりが顔を上げた。
バッチリ目があって、心臓が激しく音を響かせた。ううううううわあ、どうしよう・・・と動揺していたら、きゅうりは置いていたビールのコップを目の高さにまで持ち上げて、乾杯の仕草をした。
あ。
私も急いでコップを取り、会釈しながら持ち上げる。
口にするビールは苦いけど、心の中に甘いものが広がった。
「・・・さてと、あらかた食べたし、部長にもお偉方にも挨拶したし。私はお先に失礼するわね」
仲間さんがそう言い、何人かも立ち上がったので、頃合なのかな、と私も帰ることにする。事務の人たちと、お店を出たところで気がついた。
「あ〜!・・・鍵、忘れた・・・」
会社の自分の机の引き出しの中に、自宅の鍵を入れたポーチを入れっぱなしにしていることを思い出した。
そうだ・・・今日、鞄変えて、失くすといけないと思って引き出しに入れて、昼休みに鞄に戻すの忘れてたんだあ〜・・・。
「どうしたの?」
がっくりと肩を落としていたら、声を掛けられた。
「すみません、私事務所に戻ります。自宅の鍵を引き出しに入れっぱなしでした・・・」
心配する仲間さんたちに事情を説明し、事務所の鍵を預かって、ビルの下で別れる。
・・・もう、折角ちゃんと事務所閉めてきたのに〜。詰めが甘いったら、私・・・。
でも部屋に戻ってから鍵がないんじゃ本当に困っただろうから、まだ帰る前で良かったんだ、と自分に言い聞かせる。
ビルの守衛さんに中へ入れてもらおうと一歩踏み出したところで肩を叩かれた。
「あれ?青山さん」
青山が白い息をはいて立っていた。そういえば、今日の宴会には遅れてくるって言ってたな。アポがあるとかで。
「今戻られたんですか?」
「うん、店に行こうと思ったんだけど、瀬川さんがコソコソと行く姿が見えたから」
「コソコソだなんて。机に鍵忘れちゃって、取りに行くところなんです。忘年会はもう失礼してきたんですけど」
悪いことをしていたのを見つけたかのような言い方に、膨れて言い返す。青山さんは爽やかな笑顔で大きく笑った。
「あはは、ごめん。なら俺も一緒に上がるよ。個人情報、たくさん持ってるから、ロッカーにしまってから店に行かないと」
営業帰りだったら、当然個人情報の束を持っているはずだよね、と一人頷いて、守衛さんに入れてもらい、事務所までエレベーターで一緒に上がっていった。
「瀬川さん、顔ちょっと赤いよ。・・・お酒、飲んだ?」
静かなエレベーターで、青山さんが聞く。私はつい両手で顔を抑えて笑う。
「飲みました飲みました、たくさん。そんなに顔赤いですか?うう〜・・やだなあ・・・」
「大丈夫、別におかしくないよ。お酒好きなの?」
「本格的に飲兵衛ってわけじゃないですけど。ビールやカクテルは好きです」
・・・もしかして、顔だけでなく、お酒臭いんじゃない?私・・。
「お酒臭いですか?」
うん?と青山さんが私を見る。そして首を振った。
「・・・いや、大丈夫だよ。お酒じゃなくて、何かいい匂いはするけど」
「あ、仲間さんの香水がうつってるかも」
ずっと隣に座っていたら香水がうつる事はよくある。袖を鼻に近づけてくんくんしてみたけど私には判らなかった。
エレベーターが着き、事務所の鍵をあけて入る。私は事務ブースへ、青山さんは営業ブースへと入っていった。
・・・えーと。鍵、鍵。
電気をつけずにドアをあけて廊下の明かりを取り入れて探す。幸い、手を突っ込んだら鍵を入れたポーチにすぐ手が当たった。
よかった。今日、締め出されたらこの気温では完全に凍死コースだったわ。
「・・・危ない危ない」
独り言を呟いて、ポーチは鞄にしっかりとしまう。他には何も触ってないけど、事務ブースを出るときドアの所で一応振り返って確認した。
「鍵、あった?」
いきなり声がして、かなりビックリした。
「ひゃあ!!」
ビクンと飛び上がって、その拍子に事務所の鍵を落としてしまった。チャリンと涼しい音を出して、鍵は二人の間に転がる。
「あ、ごめん。驚かした」
青山さんが鍵を拾おうと屈む。同時に私も屈んでいたので、おでこがぶつかった。
衝撃で後ろに尻餅をつく。
「・・・いったあ〜い・・」
「・・・確かに。重ね重ね、ごめん・・」
お互いに間近でおでこを摩りながら苦笑する。
「あはは・・おでこまで赤くなっちゃった。早いですねー、書類しまうの」
額に手を当てて笑う私を青山さんがじっと見ている。
・・・なんだろ。あれ?私なんか変なこと言ったっけ?
青山さんの表情が読み取れなくて、少し不安になりながら鍵を取ろうと手を伸ばしたら、その手を掴まれた。
「―――――ん?」
「・・・・瀬川さん、彼氏いるの?」
唐突な問いに、頭が止まる。
・・・何だろう、急に。青山さん、えらく真剣な顔をしてる。ここはおどけて寂しい女を演じとくべき?マトモに答えるべき?
一瞬悩んだけど、この何かが始まりかけているような空気が嫌で、マトモに答えることにした。私、早く帰らなきゃ。
「彼氏、はいません」
でも―――――――――
『すきな女の子はいる』
きゅうりの言葉が頭の中でこだました。
・・・でも。
好きな男の人がいる。
胸の奥がまたつんとした。
そんな私の様子には気がつかずに、青山さんは私の言葉を待っていたとばかりに早口で言った。
「じゃあさ、オレと付き合わない?」
私の手を握っている青山さんの手は熱かった。
冷え切って、誰もいない静かな会社のエレベーターホールで、そこだけが炎をまとっているみたいだった。
私は掴まれた手をじっと見て、そのまま動けなかった。
「彼氏が今、いないんなら。オレ・・・瀬川さんが、好きだ」
青山、さん。・・・でも、私―――――――
呟きは言葉にはならない。ひたすら床を見詰めたままで動けずにいた。真っ直ぐに私を見ていた青山さんは、かなしばりにあったみたいに固まる私をぐいと引き寄せた。
「・・・っ・・・」
ハッと息をのむ。
青山さんのスーツとコートからは、外の冬の匂いがした。
抱きしめられて、頭の中はパニックになってきた。
酔いも一気に吹っ飛び、やっと正気に戻った私は青山さんの腕の中でジタバタする。
「・・・・あの、あのあのあの!青山さ―――――」
やっと声が口から出た、と思ったら、私を抱きしめていた両手がするっと離れて、肩に回った。
そして私が呆然としている間に。
青山さんがキスをした。
押し付けてくる唇はひんやりとしていて
冷たいホールに座り込んでいる足は痺れてきていて
両肩を掴む彼の手が痛くて
キスをされているのに、私は赤面もせずにただ目を見開いていた。
きゅうり。
コップを上げて乾杯のしぐさをする、さっきのきゅうりが目に浮かんだ。
やっと、手が動いた。
「・・・やっ・・・」
両手で青山さんの胸を押して、顔を背けた。
「あっ・・・あたし、は・・・」
必死で言葉をひねり出す。言え、言わないと。ちゃんと、言わないと。
「――――――・・・好きな、人が、いるんです・・・」
私の乱れた呼吸だけが響くホールで、しばらく時が止まったようだった。
「・・・オレとは、無理かな?」
青山さんが小さく言った。
「今は他のヤツが好きでも、付き合っていくうちにオレを好きになるかもしれない。そういう風には、思えない・・・?」
・・・いつか、きゅうりではなく、青山さんを・・・?
口の左端をあげて笑う、やんちゃな笑顔のきゅうり。
何回か見た、てとも優しい目元のきゅうり。
大きな手。広い背中。すたすた歩く、あのリズムも。上司の話を聞いてる時の真剣なまなざしも。とがった鼻も、ハスキーな声も。
全部、忘れて、青山さんを好きになれる?
私のことをトマトって呼んで笑う、彼を―――――――――
顔を上げたら、少し青ざめた、悲しい表情の青山さんがいた。
「・・・すみません。でも、そこまでは、想像出来ないんです・・・」
すっと視線を外して、表情が影に隠れて見えない。
悲しそうな、でも明るい声で、青山さんが言った。
「うん、判った」
立ち上がって、埃を払い、事務所の鍵を拾い上げて施錠する。その青山さんを、私はまだ座り込んだままで見ていた。
「ごめんね、いきなりあんなことして」
振り返って、言った。
「・・・あ、いえ」
「立てる?」
手を出してくれたけど、気がつかない振りして自分で立ち上がった。青山さんに何とか笑いかける。
「あの、嬉しかったんです、それでも」
「え?」
「私を・・す・・好きだといって下さって、ありがとうございました。自分に自信がとてもないから・・・有難い言葉なんです」
青山さんは、口の端をあげてちょっと笑った。
「オレ、諦めたわけじゃないから」
「・・・」
あまりにストレートなお言葉。慣れてない私はそれだけで意識を失うかと思った。いや、本当に。
「多分、まだまだ瀬川さんのこと、好きになると思う。やっぱり付き合って欲しいと、また言うと思う」
カッと顔に血が集まってきたのを感じた。
「・・・はい」
「でも、迷惑にはなりたくないんだ。明日からまた、難しいと思うけど・・・普段通りに出来るように頑張るから、避けることはしないでくれるかな」
「そんな、こと・・・しません。本当に、青山さんの意にそえなくて、ごめんなさい」
「仕方ないよ、こればっかりは」
肩をすくめてみせて、床においてあった鞄を持った。
「・・・ちょっと急ぎすぎたんだよね、オレ。失敗失敗」
エレベーターのボタンを押して振り返る。
「寒いよね、ごめんね。オレ、忘年会顔出さなきゃ」
あ、そうだ。青山さんはまだ出てないんだった。
そこまで気付いて、寒気が襲ってきた。・・・ヤバイ、かなり冷えたかも・・。
鍵はオレが返しとくからと言う青山さんにお願いをして、店の前で別れ、一人で駅に向かって歩き出した。
完全に酔いもさめて、更に冷え切った体に木枯らしが厳しい。
・・・ヤバイ。このままだと風邪決定だ。おふろ、入らなきゃ。
ヒール音を響かせながら歩いていて、そこで気付いた。
「あー・・・私、あれ、ファーストキス・・・」
恋愛経験のちーっともない私のファーストキスは、ドラマチックではあったかもだけど、いい思い出にはなりそうもない。
思い出すのは、冷たい唇とその気持ち悪さ。ううー、キスってあんなに気持ち悪いものなの!?
皆、なんであんな行為にきゃーきゃー言うんだろう・・。キスって気持ちいいことなんだと思ってた。全然違った。
私が特に好きではない男の人が相手だったからなのかな?
ううう〜ん・・・。
とにかく、23歳でファーストキス。冷たい床の上で、嫌いではないが好きでもない同僚と。
・・・ああ、青山さんには悪いけど、これ、マジへこむ。
それでも、こんな私が人に好かれるなんて・・・結構奇跡かも。それは単純に、本当に嬉しいのだ。
私でも誰かに影響を与えられるんだと思って。
・・・報われない恋。青山さんも、そして私も―――――――――――
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