泡沫の夢に溺れて
side.緋色
「……俺が必死に押し殺して言ってるのに、お前って奴は」
私の頭を撫でる兄さんの手が心地良い。他の誰かに撫でられることはあった。それでも、兄さんの撫でる手つきは他と比べても判別できる自信があるほどに大好きなんだ。
「向こうにはお前の知る人達が……まさっちが、桐絵が……悠一がいる。お前の大切な人がいる」
「……っ」
「本当なら俺達は会っちゃ行けないんだ。今回は特別なんだぞ?」
涙を流す私の頬に兄さんの親指が触れる。そして、その涙を優しく拭った。
兄さんの言葉に返答したいのに、言いたい事が浮かばない。何か言いたいのに言葉が詰まって、口に出せない。
「お前を尊敬してくれている後輩達を、信頼してくれている同級生、先輩、大人達……そして、好きな人をいつまで待たせるつもりだ?」
「す、好きな人?」
兄さんの言葉に涙が少し引っ込む。
……あれ、私好きな人なんて話したっけ!?
「……まさか自覚なしか?」
「えっと、その……」
「それとも、俺にバレてないとでも思ってるのか?」
今度は別の意味で言葉が出てこなくなった。だって、私があの人を見る目が違うって認めたのは割と最近で……それこそ、兄さんがいなくなった後だから、知らないはずなのに……。
「実はさ、お前が俺に話してくれること全部聞こえてるんだ」
「話してること……あっ」
兄さんの言葉に思い当たる事がある。それはいつの間にか日課になっていたこと……就寝前に今日何があったのか兄さんに話すことだ。
「あれ、聞こえてたの……?」
「おう」
「えっと、その……なんで分かったの?」
「名前に好きな人がいるって話か? だってあからさまに悠一の名前を出すのが多かったからさ」
「……!」
無意識は恐ろしいと何処かで聞いたことあるけど、本当だった。兄さんに全部筒抜けだったこともそうだけど、迅さんのことを話す事が多くなっていたのは知らなかった。
「その様子だと、気づいてなかったみたいだな。俺に聞こえてなかったと思っていたのは良いとして、悠一の件については」
「うぅ、だって……!」
「で? 自覚はあるのか? ないのか?」
兄さんの問いはこうだ。私が迅さんの事を好きなのか自覚があるのか、という事だ。口に出すのが恥ずかしいけど、兄さんの質問を無視するわけにもいかないし、そもそも絶対バレている。
目を逸らし小さく頷くと、兄さんは嬉しそうな声をあげた。チラッと見ると、自分の事の様に嬉しそうな顔をした兄さんが映った。
「……ねぇ。兄さんはさ、最初からこうなるって思ってたの?」
「ん? どうして?」
「だって、何かと迅さんと関わらせようとしてたから」
「……あー、うん。えっと、それはだなぁ……」
珍しく兄さんが言葉を詰まらせている。視線も合わないし、もしかしてごまかそうとしている?
「……うん。これは俺から言うべきことじゃないな」
「え?」
「悠一から聞け。諭しておいたから、きっと教えてくれるさ」
どうやら私と交代している間に迅さんと会っていたらしい。それで、今気になっている事について教えて貰えるはずだと言う。
どうして今教えてくれないのか気になるけど……。
「さ、俺との話はもう良いだろ」
「……」
「それに、早く見たいんじゃねーの。あいつの顔」
私の頭に迅さんが浮かぶ。今あの人はどんな顔をしているんだろうか。この侵攻のためにあの人はまた副作用を酷使したはず。
聞いていないから分からないけど、きっと沢山の可能性が視えていたと思う。その中には、酷いものもあったはず。今回の侵攻の結果が、あの人の視えた予知の中で何番目に良かった方なのだろう。
だけどこれは分かるんだ。辛い気持ちを抱えたまま、その本心を押さえ込んで、いつもの余裕そうな顔を貼り付けて”いつも通り”を演じているはずなんだ。
「今度は俺に頼るんじゃなくて、お前だけで悠一に手を差し伸べるんだ」
前は兄さんの力を借りた。だけど今度は私後からだけで迅さんを。
そう思ったら、あの人の姿を、顔を見たくなった。
「……うん。分かった、兄さん」
「よし、分かったんなら早く行け。……もうここに来ないようにしろよ?」
そう言って兄さんは私の肩を掴み、方向転換させた。そして、私の背中をトンッと優しく押した。まるで私を先の見えない道へ行けと言われているようだ。
「……大丈夫かな」
「ん?」
「だって私、今まであの人に冷たくしてきたのに……こんなの都合が良すぎるというかなんていうか」
兄さんに背を向けたまま、不安を零す。すると、私の肩に兄さんの手が乗った。
「大丈夫さ。あいつはそんな事気にしねーよ」
「でも……」
「大丈夫だ。兄ちゃんを信じろ」
トントンッと軽く肩を叩かれた。励まされる気分になる。……何だか勇気がわいてきた。だけど、もうちょっとだけ励ましてほしい。
「兄さん」
「うん?」
「……もうちょっとだけ、手握っていい?」
「寂しがり屋め」
そんなこと言いつつも兄さんは私の手を握ってくれた。……うん、もう大丈夫。
振り返れば兄さんの綺麗な碧い瞳と視線が合う。
「ありがとう、兄さん。……頑張るよ。だから、」
「おう。聞く事しかできないけど、一緒にいるよ」
そう言って兄さんは自分の左耳を指した。それに釣られるように私は自分の左耳に触れた。……ここはずっと兄さんがいる場所だ。これからもずっと。
「……うん。いつも兄さんはここにいる」
「ああ。さあ、振り返らずまっすぐ行け!!」
もう一度背中を押される。今度は立ち止まらなかった。
「……っ」
泣きそうになる
振り返りそうになる
だけど、それを必死に我慢して先の見えない石畳の道を走り続けた。
2022/5/6
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