序章:勿忘草



『初めまして、楓原様』


幼き頃、父に連れられたのは桔梗が咲き誇る庭園が印象の屋敷だった。そこで拙者は少女……桔梗院名前という娘と出会った。

言ってしまえば、許嫁……政略結婚というものであった。その目的は勿論、楓原家再建である。だが、それは向こうも分かっており、むしろそれを理解した上で了承したという。何故そうなったのかというと、亡き母を含めお互いの両親が知人であり、信頼し合っていた故であったらしい。その間に利益がなかったといえば嘘になるが、その利益を信頼できる者と共有するのが狙いだった。


『拙者は楓原万葉と申す。将来共に生きることになるのだ、苗字ではなく名前で呼んでほしいでござる』

『……かず、は様』

『様は不要でござる。拙者もお主のことを名前と呼ぼう』

『……はい、万葉』

『うむ、まずは第一関門突破でござるな。次は敬語を無くすことを頑張ろう』


彼女の両親と、自身の父が気を利かせたのか、彼女と初めて対面した後、二人きりの状況となった。どうやら箱入りのようで、同年代の男子どころか、子供と関わるのも初めてだったという。それ故、拙者と話す時とても緊張していたという。

しかし、それは恐怖から来るものではなかったそうだ。むしろ、会うことを楽しみにしていたと言う。


『……うん、頑張るね』


緊張を含んでいたが拙者に向けられた笑顔は、その場にいるだけで存在感を出す美しい花のように可憐であった。
……きっとあの笑顔を向けられたとき、拙者は彼女に……名前に恋をしたのだ。


『名前は武芸に長けているのだな』

『桔梗院家は様々な武芸を伝えていかなくちゃいけないの』

『お主は何が一番得意なのだ?』

『得意なもの……うーん、得意と言うより好きなものになるけど、いいかな?』

『勿論。教えて欲しいでござる』

『……私、刀を振るうのが一番好きなんだ』


楓原家は刀鍛冶の家系だ。父が彼女の家を選んだのは偶然かもしれないが、ちょっとした関連性を発見して心が温かくなったのは、気のせいではなかった。


『いつかお主の剣術をみたいものでござる』

『わ、私なんてまだまだだよ! それに、普通は男の子がやることだから難しいって言われてて……それでも私、全部覚えたいんだ』


そう言った彼女は幼いながらも強い意志を持っており、桔梗院という家に恥じない様にと努力していた。そんな彼女の新たな一面を見れて、また溺れていったのを良く覚えている。


『どうして名前は拙者との婚姻に了承してくれたのでござるか?』


だからこそ、彼女の真意を知りたかった。いくら両親の知り合いと言えど、頷くには理由が足りないと思った。


『私、貴方に会うまで同い年の人に会ったことなかったの。だから、その……会ってみたいなって思って。それで……優しかったから』


最後の方は小さかったが、拙者の耳には確かに入ってきた。照れながらも本音を伝える様子に愛おしさが生まれる。
言ってしまえば、興味本位。だが、その興味本位が拙者と彼女を引き合わせた。彼女の決心に感謝である。


『そうでござったか』

『万葉はどうなの?』

『はっきりと言えば、楓原家を建て直したいのが目的でござった。だが、今はこの目的のお陰でお主と知り合い、婚約者の関係となれたことに嬉しく思っておる』

『う、嬉しい……?』


そう言ってこちらを見つめる水のように澄んだ蒼い瞳が大きく開いた。気のせいで無ければ、頬も赤いように見える。その時の時間帯が夕方であったため、都合の良いようにとらえてしまったかもしれぬ。


『まだ伝えていなかったな。……拙者は婚姻関係とは別に、お主を……名前を好いている』

『!』

『だから、これからもよろしく頼む』


そう言って手を差し伸べたら、彼女は数秒固まった後、慌てた様子で握り返してきた。


『わ、私も! 貴方のことが……す、好き』

『ん? 小さくて聞こえなかったでござる』

『う、嘘だぁ……! 前に言ってたじゃない、万葉は耳が良いって!』

『はっはっは! 冗談でござるよ。もう一度聞きたかっただけでござる』

『うぅ……。か、万葉が……好き』


そう言ってさりげなく催促すれば、彼女はそれを理解した上でもう一度告げてくれた……好きだと。その言葉に嘘がないことは、あの時恥ずかしそうに口にした名前の表情が物語っていた。


『きゃっ!?』

『拙者も、名前が好きだ』


まだ背丈もほぼ変わらぬ頃。成長しきっていない腕で彼女を引き寄せ、初めて抱きしめた。それは間違いなく彼女を愛しているからこその行為だった。


『……っ、うん』


あぁ、幸せだ。
この時間がずっと続けば良いのに。……そう思っていた。



『ごめんな、万葉』



数十年後。それは突然のようで、いずれ訪れるだろうと分かっていたことだった。……父が亡くなった。必然的に楓原家を継ぐのは拙者になるわけで。
だが、拙者にはこの家を継ぐための知識も、力もなかった。……そして、父が以前言っていた。この家が廃れるのは自分が死んだ時だと。

拙者は父の言葉通り、楓原家の幕を閉じることにした。……それと同時に、桔梗院家との繋がりも絶つ事を意味していた。


……分かっていた、のに。


『こんな夜更けにどうしたの、万葉』


自然とお主の元に来てしまう拙者は……名前に溺れている。忘れなければならないというのに、それを拒否する自分がいる。


『お主に会いたかったのでござる』

『最近はお互い忙しかったものね。……私も会いたかった』


拙者が名前に会いに来た少し前、彼女の父親が帰らぬ人になっていた。彼女の言う忙しかったというのは、それを指していた。

嬉しそうに微笑む彼女は知らない……明日、拙者とお主は他人となってしまうことを。そして、お主の元から消えることを。
忘れられる存在でなければならないのに……嫌だという気持ちは加速する一方で。


『っ、万葉……?』

『駄目である事は分かっている。……それでも、名前に触れたい』


許嫁だからとはいえ、まだ夫婦ではない。……明日になれば他人になる。その事実を受け入れたくなくて、他の男に穢されることを想像したくなくて。



『拙者にお主の全てを見せてくれぬか』



___ならば一層のこと、拙者に染めてしまおう。
今思えば、幼くて青かった故の行動だった。だが、その行動に拍車を掛けたのは、誰でもない名前の発言であった。


『……うん、万葉なら……いいよ』


その言葉を合図に拙者は彼女の唇に噛みついた。経験もない、知識もそう多くない。言うなれば、本能だったのかもしれない。

名前は拙者の女だ。……誰にも渡さぬ。
押し倒して、誰にも暴かれていない彼女の奥深い場所に踏み入れて……己の欲を流し込んだ。


『……すまぬ。だが、いつか必ずお主を迎えに来る』


だから、その時までどうか……他の男のものにならないでくれ。
生理的な涙を流し眠る愛おしい存在に口付けを落とす。情事の痕跡を片付けたあと、拙者は桔梗院家を後にした。


……その数日後、楓原家は没落し拙者は稲妻を彷徨う流浪になった。だが、しばらくして……桔梗院家についての話が耳に入った。


『聞いたか? 桔梗院家が天領奉行の一族と再婚するそうだぞ』


当主を継いでいた彼女の母親が再婚すると言うこと。だが、それだけではこんな場所まで話はこない。ただの再婚なら、だ。
何故話が流浪である拙者の元まで届いたのか。その再婚相手が原因だった。その相手が社奉行ではなく、天領奉行の者であったからだ。


『へぇ。だが、桔梗院家は社奉行の者だろう?』

『そうなんだが、この再婚を気に天領奉行に移るらしい』


桔梗院家は社奉行の配下にある一族だった。だが、天領奉行の者が入ったのは……恐らく、桔梗院家が代々継いできた武芸が狙いだろう。

桔梗院家の持つ武芸は他の一族が持つものより多彩かつ、その芸にも価値があった。天領奉行の人間が桔梗院家の持つ武芸を狙ったのは間違いないが、何故それを狙ったのかが気になってしまった。……もう拙者には何もできないというのに。


『……彼女はどうしているだろうか』


脳裏をよぎったのは、美しい青紫の髪を靡かせながらこちらを見る蒼の瞳。……ふとした時に夢に現れる彼女が心配だった。


___その心配は思いの外、すぐに訪れた。
桔梗院家当主が変わったのだ。当主の地位は彼女の母親から再婚相手だった男へと継がれたという。その理由は……彼女の母の死だ。

その話を聞いたのは雨が降る日だった。……彼女は本当の家族を失ってしまっのだ。


名前に会いたい
拙者の頭に浮かぶ彼女がずっと泣いている
泣き崩れているその存在を今すぐ抱きしめたい

いてもたってもいられず、拙者は桔梗院家が建つ場所へと向かった。……だが、拙者が到着した時、そこには何もなかった。


『名前……?』


初めから建物など存在しなかったかのような光景。……だが、存在していたという証拠はまだ残っていた。
それは当時桔梗院家が建っていた時、幼き拙者と名前が植えた桔梗と小さな紅葉の木が植えられたままだった。


『……お主は今、どうしているのだ』


桔梗院家が消えたことが気がかりで、どうしても名前の存在がちらつく。……どうか、どうか。最悪な事態になっていないことを願う。


……桔梗院家の本家が消えた数日後、とある女武士による流浪狩りが起きた。1年にも満たない期間だったが、被害に遭った者は多かったという。

拙者はその者と会うことはなかったが、当時行動を共にしていた友人は対峙したことがあったらしい。


興味本位でその女武士について聞いたのだが、好奇心で聞く内容ではなかった。
……それは彼の言う女武士の特徴が、拙者の知る人物と一致していたからだ。素早い身のこなしと、その速さから繰り出す突き技は、拙者の知る彼女が得意としていたことだったからだ。


『……嘘だといってくれ、名前』


もう何年も会えていないその存在でないことを思っていた矢先……稲妻に目狩り令が発令された。その出来事で拙者は友を失い、そして……指名手配犯になってしまった。

その際、在る人物による手助けで稲妻を脱出することになった。……あの日を最後に名前とは一度も会えないまま。


「……名前」


少し黄ばんでしまった栞。その栞には桔梗の花と紅葉の葉が閉じ込められている。これは昔、少ないモラで購入した簪を名前に送った際、お礼として受け取ったものだ。……世界で1つしかない、拙者の宝物。



「! ……虹が綺麗でござるな、名前」



死兆星号から見えた虹に思わず声が漏れる。……拙者はまだお主と繋がっていたい。名前はどうでござるか?







勿忘草(ワスレナグサ)...私を忘れないで
今でもお主を愛している
お主に忘れられたくない……そう思ってしまった拙者は強欲なのだろうか

───楓原万葉


2023年02月05日

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