novel2 | ナノ
 

秋希乃の能力は元々、身を守るために生まれたものだ。
父の赴任先である海外に家族皆で集まり観光をしていた際、現地の暴漢に銃とナイフを突き付けられたのがきっかけだった。
秋希乃はその時、祖母の腕に抱かれ、男達から一番遠ざけられていた。
祖父は祖母に覆い被さり、母は姉を抱きしめて、父は家族を守るように背にして、暴漢達と対峙していた。


「い、やだ」


心臓が破裂してしまいそうな程に激しく脈打っていた。
どくどくという鼓動音が自分の耳の中から聞こえていた。
次の瞬間にこの中の誰かが死ぬかも知れないという、酷く危険な状況だった。
そんな極度の緊張状態が、秋希乃の脳や精神をその一瞬で劇的に変えたのかも知れない。


「やめて、やめ、て、おねがい」


トリガーにかかっている指、今にも弾丸が発射されそうな拳銃、唾を飛ばしながら怒鳴る男。
姉の怯えた顔、ぎゅっと目を瞑る母、震える祖父母の身体、握られた父の拳。
それら全てが、スローモーションのように見えていた。


「──────!」


──その時は、何が起こったのか分からなかった。
父の疑問に満ちた声と、男達の混乱しているような声。
様子を伺うと、暴漢達は何かに怯えたようにキョロキョロと辺りを見回していた。
明後日の方角へと拳銃を突き付けて、何事かを叫んでいる。
明らかな異常行動だった。銃口が再度こちらに向けられる度に息を呑みながら、全員じっとしていた。

そして、男達はついに、首を傾げながら銃を下ろした。現地の言葉で何事かを早口で言い合いながら、その場から足早に去っていった。


「──……たす、かった…??」


緊張状態から解放されて、どっと疲労感が身体を襲った。
強張っていた力が次第に抜けていって、皆、崩れるように地面に座り込んだ。


「いったい何だったんだ…?」


父がそう疑問を口にしても、答えられる人間はいなかった。
身を寄せ合って震え、道路に蹲ったまま息を整えていると、周りの通行人が駆けつけてくれた。
通報を受けた警察も、その後やってきた。


「──おそらく、薬物中毒者だったのでしょう」


警察も、通行人も、家族も、そう証言した。
今にも発砲しそうだった男達が突然様子がおかしくなって、その場から退散していったのだ。
周りからも不可思議に見えていたようで、事件の調査は打ち切りとなった。
誰にも怪我が無かった為、それで良いと家族も納得した。


「お前たちが無事で、本当に良かったよ」


涙を滲ませる母と姉。腰が抜けたと笑う祖父母。
震える腕で抱きしめてくれた父。
何事も無くて本当に良かったと、秋希乃は心から安堵した。













──その時にもっと自分自身の力と向き合っていたら良かったのにと、秋希乃はその後何度も、後悔する事となる。












「…え」

「…病院から連絡があったわ」

「…みんな無事、だよね?」

「……」


事件から3年後の、1983年。
頼りになる父、優しい母、厳しくても秋希乃には甘い祖父母、行ってらっしゃいと見送った皆が──無惨な姿となって、病院に運ばれていた。
あの日、暴漢達に鉛玉を撃ち込まれていた方がまだ良かったのかも知れない、なんて思ってしまう程に、トラックに押し潰された祖父母の身体は原型が無くて、両親も、損壊が激しくて。
見るなと言われていたのに見てしまった祖父母の遺体は、今でもまだ、夢に見る。


「──運が悪かったね」


そう言う人はたくさん居た。交通事故なんて、大概が、そうなのだろうけれど。
秋希乃は納得出来なかった。あれは様々な出来事や運転手や運送会社側のヒューマンエラーが積み重なって起きた、人災だ。
だから、こんな事が、“運”であって良い筈が無い、のに。


「──運が良かったね」


通夜と葬式を終えた後、親戚一同が集まった我が家で、秋希乃にそう言った人が居た。
その時の事は、よく覚えている。

事故後に、今後の財産分与や墓や金銭の事で大人達は揉めていた。
共に連れて来られていた幼い子供達は暇を持て余し、リビングはキッズルームと化していた。
冷蔵庫は勝手に開け閉めされ、寝室から引っ張りだされた祖母の琴がおもちゃのように乱雑に扱われていた。
庭に出て球遊びをしている子どもに祖父の盆栽を壊されたのを目撃して、もう何も見たくも聞きたくも無くなって、逃げるようにその場から離れた。

自分の部屋に行こうとする足を止めて、仏間に入った。中には誰も居なくて、ただ、四つの骨壷が並べられているだけで。
当時の秋希乃には、まだソレが母達だという事がまだ受け入れられなかった。物言わぬ白い陶器の入れ物としか思えなかった。
けれど、その場に居ると不思議と気分が落ち着いた。

仏壇の線香の火が消えかかっていた為、新しいマッチを擦って線香の先に火を灯した。
その作業を何度かぼんやりと繰り返していたその時──その人物は仏間に入ってきた。


「──君、一人かい」

「……」

「僕も暫く此処に居て良いかな?」

「………」

「あの婆さん…ほら、あの日君達一家も参加予定だった法事の家の…かなりヒステリックになっていてね。
ウチが悪いのかって何度も何度も…チビ達もだが、煩くてかなわなくて」


高校生くらいの親戚だった。
従兄でも又従兄でも無い、高祖父か曾祖父が同じだとか、そのくらい遠い親戚。
数年に1度顔を合わせるくらいの、その程度の繋がりの相手。
あまり口数が多く無くて、親戚の集まりで顔を合わせても、部屋の角で静かに本を読んでいるような人だった。
「きら」という苗字だけしか、あまりよく知らない相手だった。


「──君達は運が良かったね」

「……、」

「あの日、君が体調を崩し、その看病の為にお姉さんは家に残ったのだと聞いたんだ。
だからあのぺしゃんこになった車に乗らずに済んだとね…本当に、運が良い」


酷い物言いだった。
何か言い返そうとして口を開けて、でも、そこからはひゅうと空気が抜けるだけで。
言葉が出てこなかった。
声を出す気力すら、その時の秋希乃には無かった。


「…そんなに手を握りしめてはいけないよ。ほら、爪が食い込んで、痕になっている」

「………」

「かなり冷えているね…こんな所でずっと線香番をしているつもりかい?」

「………」

「…少し休んだ方が良いと思うよ…君の部屋はどこかな」


彼は珍しく饒舌だった。
いつも殆ど口を開かないから、声すら聞いた事が無いくらいだったのに。
何かに興奮しているのか、焦れているのか、やけに饒舌で──そしてとても、強引だった。


「…皆には、内緒だよ」


勝手に侵入される自室も、使用されるベッドも、彼の振る舞いも、その場で行われた事も、不愉快だったけれど、止められなかった。
遠くから大人達の怒り声と子供達の金切り声が聞こえていて。また何かが割れる音がした。
つけっぱなしのテレビからは何度も何度も我が家の名前と事故の悲惨さが繰り返し告げられている。
耳を塞いでも聞こえてくる騒音。全てが混ざった不協和音に、秋希乃の中の何かが崩れて、壊れていった。























「──しっかりしなさい、秋希乃」


不安定な意識と精神がふと正気を取り戻したのは、自宅に誰も来なくなって元通り──ではなく、以前よりも静かな環境になってからだった。
泥沼化していた相続争いは、弁護士を雇った姉によって終息を迎えていた。


「朝ごはんくらい食べなさい」

「………うん」

「……そ、じゃあ私出かけてくるからね。ちゃんと全部食べなさいよ」


気が付けば、事故のあった日から数ヶ月の時が経過していた。
いつのまにかテレビからは交通事故のニュースは聞こえなくなっていて、杜王町で起きた殺人事件がセンセーショナルに騒がれていた。
杉本という家の家族全員が、ペットの犬も含めて無残に皆殺しにされていたらしい。


「………」


平穏な日常は簡単に壊れてしまう。
大切な人は、ある日突然死んでしまう。
本当に、なんて理不尽で不平等で、無慈悲なのだろう。
こんな事、未来でも見えていない限り防ぎようが無い。
もしくは、人知を超えた、何か特別な力が無い限りは──


「(──そうだ、わたしには、あったのに)」


自分の耳にすら届かない程の微弱な音波を、秋希乃は操ることが出来る。
それを向けた相手の視覚に影響を与えることが出来る──けれど、それだけだ。

もし今目の前で交通事故が起きたとしても、秋希乃に出来る事は何も無い。
圧倒的なスピードや質量を持つ大型のトラックに対してなど尚更、なす術など何も無い。

つまり、あの日自分が熱を出さず、姉と共に車に乗って同行していたとしても、一家全員が死ぬ事になっていただけだ。


「……やくたたず…」


何の役にも立たない。
それは親戚にも言われた言葉だった。他にもたくさんの嘲りの言葉を投げかけられたけれど──本当に、全くもってその通りだと、秋希乃は思った。

どうしてこんな事になったのだろう。
凶悪な犯罪や事故だって、ついこの間までは無くて。穏やかな毎日が続くだけだったのに。
長期出張から帰ってきていた父と母と過ごせる日々が、とても嬉しくて、幸せで。
皆で食事をして、学校に行き、また夜にご飯を食べて、母と共に眠る。そんな日々の連続だったのに。


「──っ」


ぽろ、と目から溢れ落ちた涙を拭い、秋希乃はぐっと歯を食いしばった。
当たり前だと思っていた日々の一幕は、もう二度とやって来ない。
皆で一緒にご飯を食べる事も、父や母に頭を撫でられる事も、手を繋ぐ事すら、何もかもが、出来ない。
この先もう二度と、永遠に。
くしゃりと、心が押し潰されてしまいそうだった。
胸が痛くてたまらなくて、息が苦しくて、身体が勝手に震え出した。


「…っぅ、ひ、う」


──このままでは、ダメだ。
何か、別のことを考えなければと、思った。
そうでなければ、耐えられない。こんな無慈悲な現実に。
向き合ったら、認めてしまったら、また、壊れてしまう。
そう思って、嗚咽と涙を必死に押し殺した。
すうはあと深呼吸を繰り返して、息を整えようとして、何度もえずいた。


「…、……、」


とにかく意識を逸らさなければと、秋希乃は様々な事柄に意識を散らそうとした。
天気の事や学校の事、好きだった遊びや景色や食べ物の事を考えた。けれど、どれもあまり、心が動かなかった。
そして、対して役に立たない自分の力について考えていた時に、ふと思った。

──そもそも、この不思議な力はどういう仕組みをしているのだろう、と。
なんとなく“音波”と名称を付けてはいたものの、秋希乃にそれは聴こえていなかった。
音波とは文字の通り、音の波であり、振動である。
これが人の耳で聴こえると“音”という呼び名に変わり、人の耳で聴こえなければ“超音波”という呼び方になる。

秋希乃が初めてそれの存在に気がついたのは、自宅で入浴している時だった。
身動きしていない筈の自分の身体から、波の模様が輪を描くように広がっていた。それは雨が水たまりにぽとぽとと落ちる時、重なり合うように広がっていく水紋に似ていた。

それを見て、秋希乃は自分の体内で何かが振動している事に気が付いた。心臓の鼓動と連動するようなテンポの何かが、胸の中心から出ていると。
自分を中心に広がる水紋を見て、音の波紋だと思った。電磁波や電波が出ているとはあまり思えなかった為、何となくそれを音波だと認識したのだ。


「(そういえば、そうだった)」


そもそも、人体、それも脳に影響を与えられる程の音波とは、本当に音波なのだろうか。
あまり深く考えて来なかったけれど、それはどういう仕組みをしているのだろうか。
それに、もしかしたら出来ないと思っていただけで、人の視覚以外にも影響を与えることが出来るのではないだろうか。
音波のボリュームを上げて、“音”にする事だって出来るのではないだろうか──なんて、そんな事を次々と、秋希乃は考えていた。

所詮、空想や妄想に近い現実逃避だった。
けれど、それは効果的だった。非現実的な力に向き合うことで、現実の事を考えなくて済むからだろうか。
いつのまにか、呼吸は整っていた。


「……ピアノ」


少し落ち着きを取り戻した秋希乃は、久々に楽器を弾きたいと思った。なにか、テレビ以外からの音を聞きたいと思った。
母が時々弾いていたピアノを、鳴らす。得意だったキラキラ星を弾いていると、不思議と気が紛れた。

壊れかけの祖母の琴を弾いてみたり、祖父のレコードプレーヤーに一昔前の流行りのレコード盤を置いて、様々な曲を聴く。
そうしていると少し昔に戻ったようでまた涙が出たけれど、息が出来ない程の苦しさはもう、感じなかった。





「──程々にしさないよ」

「……うん」

「…まったく…あと一時間したら電気消して寝なさい」

「…ん」


精神的なゆとりを少し取り戻した秋希乃は次に、音の三要素を学ぶことにした。
音の大きさを表すdB、音の高さを表すHz、そして音色。音圧、周波数、振動の違い、音を発する素材、鳴らし方。
音律、調音とは何かを学び直して、“力”の使い方に取り入れていった。
そうしているうちに、さまざまな応用方法を思いついて、少し楽しくなってきた。
姉に注意されるほどに熱中して、のめり込んでいた。




「──あれ…あなた…そんな形をしていたの?」


ある日、今まで薄ぼんやりとしか感じていなかった“音の源”が、形を成した。
ソレは鈴の形のようだった。神楽鈴についているような、鈴としては少し大きめのサイズだった。
秋希乃はそれに触れようとして、触れられなかった。
こちらの身体に張り付いてとことこと肌の上を歩き回っているのに触れないなんて、本当に不思議な存在だった。
鈴の付喪神が居ればこんな感じなのだろうか。もしくは音の精霊か何かなのだろうか。
そう疑問に思いながらも、秋希乃は嬉しかった。
産まれた頃からずっと一緒に居てくれた存在を目にする事が出来たのだから。触れないことは、然程問題ではなかった。

ソレが居る事は、秋希乃の孤独感を紛らわせた。ソレの力を高める事は日々を生きる上での活力になり、
秋希乃はますます没頭した。
そして、いつしか自分の手足を動かすように、ソレから出る音波を自在に操れるようになっていた。
音のボリュームも、最初出せたレベルを1と考えるのならば、4段階ほど強く出せるようになった。





「──あ、」


パァン!
という音と共に、破片が足元に散らばる。
実験を兼ねて空き家の窓ガラスを割った秋希乃は、その時ふと、気がついてしまった。
──きっと、今なら壊せる。
至近距離ならば、車のフロントガラスだって、破壊できる、と。

ぐらり、と視界が揺れた。
心臓の鼓動がどくどくと早くなり、息が乱れる。眩暈が、する。

──ただの、思いつきだった。
ただの、現実逃避だった。
こんな事、出来ないと思っていたのに。
なのに、それがこんなにあっさりと、実現出来てしまった、ものだから──だから、思い出してしまった。
自分が何故、この力を強くしようと考えたのかを。


「いま、さら…?、いまさら、こんな」


もしも、あの日、あの時、あの場に居て、この力を、秋希乃が使えていたとしたら──事故を、防げたかもしれない。
眠っている運転手を起こす事、車の軌道を逸らす事、タイヤをパンクさせる事だって、出来たかも知れない、なんて。
そんな、あり得たかも知れない可能性、もしもの世界を想像してしまった秋希乃は、酷い吐き気に襲われた。


「どう、して…!」


何故、もっと早く、ここまで出来るようになっていなかったのだろう。
何故、ただただ、平和な日々を享受していたのだろう。
何故、事故が起きるまで、家族が死ぬまで、怠惰だったのだろう。
何故、何の努力も、研鑽も、しなかったのだろう。
何故、こんな事が、出来たのなら?もっと早くから力を高めていれば!
何故、何故何故何故何故!!


「ああ、あああ…!」


周囲の窓ガラスが次々と割れていく。
街灯や信号機も飛び散って、看板がぐしゃりと潰れて、道路に亀裂が走った。

忘れようとしていた、目を背けようとしていた現実に引き戻されて、今まで抑えつけていた感情が爆発的に膨れ上がる。
憎むのも恨むのも、いけないことだと教わってきたから、心に蓋をして、押さえ込んでいた、のに。
堪え切れない。何かにぶつけなければ、本当に、内側から爆ぜてしまいそうで。

それのぶつけ先を、秋希乃は──

























「…………」


──男を殺した。
その男の場所は以前から分かっていた。知っていた。
簡単に面会も出来ない場所だった。そんな所に居た男に、秋希乃はあっさりと、近づけてしまった。
至近距離に──射程距離内に。

そして、秋希乃が放った音波によって、男の脳は鍋で沸かした湯のように沸き立ち、煮立って、内部から爆発した。
きっと、人間の仕業だとは思われない。犯罪とすら認識されないだろう。
自然現象、超常現象に近い事故死。呪いや天罰などと言う人も出てくるだろう。
そんな法律では決して裁かれない方法で、秋希乃は人を殺した。


「………」


男の絶叫が、耳に残っている。
家族を轢き殺し、肉塊にした男の、断末魔が、耳の奥底に。

足が、重い。
心の中の靄が、晴れない。
澱みは溜まる一方で、暗く、昏く、沈んでいくようで。
憎悪の対象が消えた筈なのに、歓喜の心は無く。
復讐をやり遂げた筈なのに、達成感は無く。
むしろ、足元が崩れ落ちたような感覚が強まって、立っていられない程の脱力感が、襲ってきて。

憎んでいた。恨んでいた。嫌悪していた──けれど、一番許せなかったのは──


「…わた、し」


他でも無い、秋希乃自身だった。
過去の、何の努力もしなかった、自分。
怠惰に生きていただけの、無知で愚かで、役立たずの、自分。

──分かっていた。分かっていたのに、それを自覚してしまったあの時、発作的に思わず自分を殺してしまいそうだった。
けれど、出来なかった。
生存本能、自己保身、または、鈴の形をした精霊のようなソレが、そうさせたのだろうか。
激しく高まってしまった感情のぶつけ先に、秋希乃はあの男を選んでいた。


「わた、し…わたし、は」


家族を守れた筈の力を、人を殺す為に使った。
本当に力を振るうべき相手は、大切な人達は、もう居なかった。
何もかもが取り返しがつかなかった。
それなのに、いまさら力なんて鍛えて、本当に、馬鹿みたいだった。
全部が遅すぎて、手遅れで、無意味で、無駄で──なんて、愚かで、無様なのだろう。


「は…っ、…っ、ひ、う、」


空気が上手く吸えなくて、息が乱れる。
目の前がちかちかして、視界の端から暗くなっていって。
帰り道すら分からなくなった秋希乃は、そのまま薄暗い街中を彷徨い続けた。




























「──こんな汚い所で何してるの。ほら、帰るわよ」

「………」


人気の無い裏路地で蹲っていた秋希乃を見つけたのは、姉だった。
差し出された手を取って、起き上がる。けれどまだ足に力が入らなくて、ふらふらする。
そんな秋希乃の背に、姉の手が添えられた
家に帰る道中、二人の間に会話はなかった。姉は何も聞いては来なかった。

帰宅後に、汚いからそのまま風呂に入りなさいと言われたので湯船に浸かった。
着替えてリビングに行くと、食事が用意されていて、秋希乃はそのまま席について、ぼんやりとしていた。
速報で、男の死亡を知らせるテロップが流れる。
そんなニュースを目にしながらも、姉はそれに関しては特に何もコメントせず、ただ、ご飯を食べなさいと、いつものように秋希乃に言った。


「(あ……)」


──そうだった。
姉は、秋希乃が数ヶ月間殆ど動かず物言わぬ状態でも、急に音楽に熱中し始めてからも、ずっと今のように接してくれていた。
その間に、今までは母や祖母が担当していた家事全てを担いながら。
事故以前は、その手伝いを殆どしていなかったのに。やり方だって、教わっていない筈なのに。
その姉が、食事の準備をし、風呂を沸かし、掃除し、洗濯し、役所で難しい手続きもしながら、生活の基盤を整えてくれていた。
こんな役立たずの妹の世話を続けながら、ずっと。
今までのような、日常を──


「………あの、ねえさん…」

「何?」

「…あの、…ずっと……ごめんなさい…、ありがとう…」

「…別にいいわよ。それより早く寝なさい」

「うん…」


ぶっきらぼうに言葉を吐きながらも、くしゃりと頭を撫でてくれる、姉。
それだけで、涙が出そうになった。
いつも不機嫌そうで口数も少ないから分かりにくいけれど、姉は姉なりに妹を慮ってくれていたのだ。
その事にやっと気がついて、自分のあまりの情けなさから、秋希乃の目が、ようやく醒めた。


「(もう、失いたくない)」


亡くした人の事ばかりを、考えていた。
失った人の影ばかりを、求めていた。
こんなに近くに居てくれた姉を、この世にたった一人残った家族の事を、見失っていた。

──本当に、何をしていたのだろう。
もしも姉を誰かに殺されてしまっていたとしたら、そしたら、今度こそ、秋希乃は終わりだった。
とても耐えられなかった。生きている意味を完全に失っていたところだった。
復讐なんてしている場合でも、音で何かを破壊している場合ではなかった。
それよりも、姉を守り抜く方法を、能力の応用方法を考えるべきだった。
本当に、つくづく、自分自身に腹が立つと、秋希乃は自嘲した。


「おねがい…姉さんは、死なないでね」

「…死なないわよ」

「…だれにも、殺されないでね…」

「殺されてたまるもんですか」

「おねがい…おねがいだから…っ」

「…分かってるわよ」


死なないで、殺されないで。
秋希乃は何度も、その言葉を繰り返した。
姉の全身に、言の葉を、音を、刻み込むように。

祈りのように──呪いのように。






















「──気をつけてね!本当に気をつけてね…!連絡してね!」

「しつこい…あんたに心配してもらう程ヤワじゃないわよ」


それから約一年後、姉は海外へ旅行に出かけた。
秋希乃はその頃にはもう、加護のマーキングが施せるようになっていた。
ただ、その力はまだ不完全で、遠方からではマークの有無、つまり生死の把握しか出来なかった。
姉の現在地が分からなくなった時には心配で堪らなくなり、手紙が届いて居場所が分かった時は本当にほっとした。
それでも不安が消えず、勢いでエジプトに向かい、実際に飛行機でアフリカ大陸に近付いた際に姉の存在を“感知”した時に、心から安堵出来た。
心が浮き立ち、身体が軽くなって、鼻歌すら歌ってしまう程だった。
おかげでエジプト観光を堪能し過ぎてしまった程に、明るい気持ちになった。





──そしてその夜から、秋希乃を取り巻く全てが、変わった。




「──君は普通の人間にはない特別な能力を持っているそうだね。」

「君の能力はすばらしい。ぜひ、その力について詳しく教えてくれないか?」

「ああ、本当にこの出会いは“運命的”だ──君は“引力”を信じるかい?」


人と人との間には引力があり、互いに惹かれ合うのだとDIOは言った。
秋希乃はその時、その言葉をあまり間に受けてはいなかった。“運”というものはむしろ、忌避していたものだったから。
事件に巻き込まれた時も、事故の時も、散々言われた言葉だったから。

けれど、彼と、彼等と共に過ごし、何度か会話をする内に秋希乃の認識は少しずつ、変わっていった。


「──力ある者は引かれ合うのだよ」

「私は君を見て一目で他の人間とは違うと気が付いた。君はどうだった?」


エジプトに来てすぐに知り合ったテレンスは、そう言った。
初めて出会った超能力者の同族である彼。
彼の事を秋希乃は確かに、出会った時から印象的だと思った。
服装や顔にある刺青のようなものだけではなく、その独特な雰囲気が、だった。

それに、能力の塊であるビジョンを見せ合えるのも、それ同士が触れ合えるのも初めての事ばかりで、彼とは自分でも驚く程に親交を深められた。
彼の兄ダニエルとも、そうだった。


「──賢い子だ…それに、運も強いようだね」

「君のような妹がいる彼女が羨ましいくらいだよ。テレンスは…まあ…昔は可愛かったのだがね」


テレンスと同じくダニエルもゲーム、というより賭け事が好きな人だった。
事前に聞いていた小細工、イカサマ、何でもありの小狡い人というイメージは全く無く、駆け引きや分析、入念な準備をして勝利を掴むという、計算高いダンディな男性だった。
そんな人だったからこそ、小賢しい秋希乃の内面などその観察眼からして一目瞭然であっただろうに、随分と可愛がってもらった。


「──ハトホル神の暗示とはなんと貴重な!
DIO様の子がもうすぐ産まれるこのタイミングで其方が現れたのはまさに吉兆!!
妊婦を守る女神とも言われるハトホル神の能力を持つお主がいれば間違いなく安産になろう!」

「ハトホルを知らん?空と愛の女神であり世界を生み出した天の牝牛じゃ!
新たな命を育む生の女神!同時に死の女神でもあるが冥界へ行く者に乳といちじくで作った食物を与える役割を持っておる!
いちじくとは生命の木!復活と再生の象徴じゃ!」


エンヤは占い師だった。
ハトホル神の名付け親とも言える彼女は、タロットカード占いに加えて西洋占星術にも詳しく、運気を“視る”事の出来る人だった。
大西洋の海の中心で目覚めたDIOを、彼が陽に焼かれる前に即座に迎えに行けた程の星を読む力を持っていた人。
皆から魔女と呼ばれていたエンヤは、DIOが世界の頂点に立つ事は定められた運命だとよく口にしていた。
秋希乃がエジプトに訪れた事も、宿していた能力も、定められた使命であり、運命であると。
秋希乃はまだ“運”に懐疑的だったが、彼女はそれを確信していた人だった。


「──私の事より自分の事を考えなさいよ。小学校の新学期始まってるじゃない」

「…まあ、出産に立ち合うのがあんたなら、心強いかもね。あのバアさんお墨付きの安産の神?の化身??が居てくれて」


そしてその春、産気付いた姉からひと時も経たない間に、子供が産まれた。
稀に見る安産だったとエンヤは言い、姉も覚悟していた出産時の痛みが殆ど無かったと言っていた。
それがハトホルの加護なのかは分からなかったけれど、母子共に無事な姿を確認出来て、秋希乃は本当に心の底からほっとした。
姉が身籠ったと知った時は喜んでしまったけれど、その後に出産で母親が亡くなる事もあると知ってしまい、ずっと気が気ではなかったから。


「──きれいな瞳…わあ…かわいい…おてて小さい…」

「名前はアンタが決めた初流乃にしたわ」

「はるの…はるくん…」


衝撃的だった。白黒だった世界が再び色を取り戻す程の、驚き。
流れ星と最愛の姉から産まれた、宝もの。星を宿した赤子。
エメラルドグリーンの瞳はそれまで見たどんな宝石のよりも美しくて、思わず魅入ってしまう程で、ひと目見ただけで胸が高鳴った。
そして、秋希乃は甥から何か特別な──そう、“運命的”なものを、感じた。


運命とは、命を運ぶと書く。
運、運命。命運、天命、天運、巡り合わせ──星回りとも言われる。
もしも、本当にそれらが存在しているのなら。その運命に導かれているとしたら。


「(わたしは、運命によって、生かされている?)」


──だって、殺されていない。
DIOの屋敷に居たのは皆、一癖も二癖もある人殺しだった。
そんな彼等が、こんな小娘を殺さないで居てくれている。それは、何故か。
DIOの命令があったとしても、存在を認めてくれているのは──きっと、“今の”秋希乃だから、だろう。


「(きっと、そう)」


過去に起きた経緯と過程があって、秋希乃は今の自分になった。
けれど、何も知らず、経験せず、持っている力を高めもせず、怠惰で愚かな箱入り娘のままであったなら──きっと、初対面のあの日、あの時、DIOの対応は違っていた筈だ。
一目見てその弱々しさに切り捨てられていたか、肉の芽でも埋められていたかもしれない。
テレンスやダニエルだって、同族の気配を感じたから目をかけてくれたのであって、昔の平和ボケしていた自分であったならカモどころか道端の石ころ以下の扱いしかしない筈だ。
皆が自分を認めてくれたのは、きっとハトホル神の能力の高さ故だと、秋希乃は思っていた。

──だとしたら、なんて、皮肉な事だろう。
悪運も、不運も、全てはこの場に至る為に、必要な事だったのかもしれない、なんて。
産まれ付き使えた力、血縁の場所が分かる第六感、能力の向上を決めた家族の死も。
全てはこの場に至る為に、必要な事だったとしたら。
姉と、姉の子であるこの子に秋希乃が出逢う為に──守る為に、必要な事だったとしたら。


「……ふふ…」

「…そんなに気に入ったの?ああ…あんた弟か妹欲しがってたもんね」

「ちがうもん…この子が…あんまりにもかわいいから」

「…泣くほどに?大袈裟ね」

「うん…それくらい、かわいいの」


何かがカチリと噛み合った気がした。
運命の歯車とでもいうのだろうか。
それを感じて、秋希乃はようやく、未来を見据える事が出来た気がした。

ここに至るまでの全てが無駄では無かったのだと、思えた。
間違いばかりの道のりに、意味はあったのだと、思えたのだ。


「姉さんも、はるくんも、わたしがまもるね」

「だから、私はそんなヤワじゃないわよ…でも、そうね、この子はまだ弱いから…好きにしたらいいわよ」

「…うん」


暗闇を照らす月、迷い人にとっての道標のような──そんな、希望の象徴。
初流乃は秋希乃にとっての星だった。

だから、決めた。
何があっても、二人を守りぬくと。
すぐ後ろに死の気配が漂うこの環境でも、生き抜いてみせると。

その為に必要なのは、覚悟だった。
他の何を犠牲にしても、目標を達成する為の、覚悟。


「わたし、がんばるから」

「…ほどほどにしなさいよ」

「うん」


──そして秋希乃は、人の道を踏み外した。

多くの嘘をついた。
多くの人を見捨てた。
多くの者を利用した。
多くの命を殺した。

誤魔化して、騙して、謀って、目を逸らして。

──仲間達の記憶すら消した。
寄せられた想いを踏み躙った。
一つの目的の為に、他の多くを切り捨てた。
ただただ、必死に、一心に。

間違えている事など分かっていた。
正しい道など最初から無かった。
けれど、何もせずに後悔するよりは、ずっとマシだった。
自分が選んだこの道の果てに、何が待っていようとも、構わなかった。
犯してきた数々の罪に、罰が下されるとしても。
星の一族、煌めくエメラルドの光を持つ彼等に、裁かれるとしても。
その中に、彼や甥が居るとしても──後悔は、きっと無い。































時が流れて、1996年、10月。
エジプトでDIOとジョースターとの戦いが終わってから、約8年。
隠れ住んでいた日本から姿を消し、亡命するかのようにイタリアに移住してから、それだけの年月が経過していた。

秋希乃は当初、学校は飛び級してどこかに就職しようと考えていた。けれどそれは辞めにした。
一般的な学生として世間に溶け込み、余裕を持って学業をこなす事にした。
5年に渡るイタリアの高校生活、そして大学生活もようやく3年目。来年にはいよいよ社会人となる予定だった。


「──姉さん、行ってくるね」

「いってらっしゃい、気をつけてね」


姉さん、とこちらを呼ぶのは、近頃声変わりした初流乃だった。
日本で言うところの中学生となった甥は、第二次性徴期を迎えて背がぐんぐんと伸びている。
ついに秋希乃の身長と並んだので、目線がちょうど合う。頬を擦り合わせるのもハグをするのも、屈まなくても出来るようになった。
本当に子供の成長の早さには驚く事ばかりで、もうそろそろ自分の手が必要無くなる日も近いのかも知れないと、秋希乃は思っていた。
それが寂しくもあり誇らしくもあったけれど、甥の成長した姿が見られるだけで、秋希乃は嬉しかった。

さらりとした黒髪、エメラルドグリーンの瞳。そして、ジョースターの血を感じさせる顔立ち。
癖毛であったなら、きっと空条承太郎とよく似ていたし、見る人が見れば血の繋がりがあると分かってしまうだろう。
逆に、DIOの面影は一切無く、昔心配していた太陽への拒否反応も無い。
いつ何が起こるか分からない不安はあるけれど、初流乃はすくすくと健やかに育っている。
その為、秋希乃は近頃ようやく、ほんの少し──ではあるけれど、ずっと甥に付き纏っていた死の気配から遠ざかれた気がしていた。


「──よし、私も頑張らなきゃ。」


けれども、油断は大敵である。
秋希乃は密かに、この“土地”を対象とした能力の付与を続けていた。

日本の地元や学校を利用して実験を行なってきたそれを本格的に実行する場に選んだのは、ネアポリスというこの街。
この“土地”自体に能力を付与、もといマーキングし、街そのものを巨大な音源化する事。
何年もかけて実際に街の隅々まで足を運んで、触れてきた。
念の為、秋希乃自身の身体の一部や採血して取り出して凝固させた血液などを音源化し、各地に仕込んできた。
街という小規模のエリアから、対象の範囲は拡大中だ。イタリアの南側にある州にはもうある程度“触れて”いる。
ゆくゆくはイタリアという国全土に施す予定のそれは──


「“ハトホル神の結界”」


このエリアにおいて、“汐華”に対して悪意を持った者は能力の対象となる。
人間は、ストレスや恐怖や不安や興奮や怒り──それらの感情が脳の神経に作用し、ホルモン等が分泌されるように出来ている。
そして、ハトホル神はそれを察知する事が出来る。
複雑な脳という器官の生物学的な仕組みや知識は、全てスタンド能力に組み込み済みだった。

──ただ、一つ欠点があった。
結界が正常に作動しているかの確認が、秋希乃には出来なかった。
“土地”からの情報を感知するという事はつまり、道路やコンクリートや石壁に対する刺激を全部感知してしまうという事だ。
そうなると、脳の処理が追いつかない。
情報量の多さに最悪狂ってしまうし、その拍子に“人”に施したマークの手綱すら離してしまう事態になりかねない。 
その為結界が“汐華”への悪意にオートで反応して対象していたとしても秋希乃には反応したことすら分からない、という状況にするしかなかった。
スタンド能力の種類でいうところの、遠隔自動操縦型の在り方に近いのかも知れない。


「──あ、また…反応が……」


だから、今秋希乃が感じ取れるのは、昔“人”に対して付けたマークのみだった。
ンドゥールやテレンス、そして花京院に付けた記憶操作と加護の為に施したそれは、時折反応する。
その度に、心臓が跳ねた。
それは彼等が死に瀕する程の何かに攻撃されているか、巻き込まれている証拠だったからだ。

花京院のそれは3人の中では一番反応する回数が多い。
スタンド使いである彼が命の危機に陥っているという事は、敵対する相手もスタンド使いである、という事だろう。
組織のスタンド使いと、もしかしたら、戦っているのかもしれない。


「(…でも、みんな、生きてる)」


かつて、仲間達に施した印しが次々と消えていったあの8年前の冬、 DIOとジョースター達との戦いに決着が付いたであろうあの日から、マークは、“減って”いない。
最後の日に、DIOのそれが消えたのを感知してからずっと、減っていない。

──そして、増えてもいない。
危険人物や要注意人物と遭遇した際は直接スタンド能力を使えば良いだけであるし、その安否や生死をマーキングしてまで気にする必要が無い。

だから、秋希乃が把握している人数はずっと、8年前から変わっていない。


「──あ、今度は初流くんの方か…。
うーん、この感じは…喧嘩かなぁ…男の子だから仕方ない…よね」


姉と甥には特殊なマーキングを施してあるので、他とは違い細かい情報も読み取れるようになっている。
初流乃のそれは本当によく反応する。その身に受けている何かしらの被害の度合いは命に別状は無く、軽いものばかりではあるけれど、保護者としては心配でしか無い。
──が、しかし、かわいい子には旅をさせよというか、獅子の子落としというか、そういった事は子育てにおいて必要だと秋希乃は思っていた。
全ての危険を遠ざけて過保護に育てて、一人で何も出来ないような子にはなって欲しくなかった。


──けれど、姉の旦那、つまり初流乃の義父となった男が暴行事件を起こした時は、そうも言ってられなかった。
あの頃、秋希乃は義兄の事を家族として少なからず受け入れていた。
義兄は典型的なイタリア人男性らしい人だった。
女への態度がとても甘く、姉に対しても秋希乃に対しても、お姫様を扱うかのように丁寧な接し方をする人だった。
熱烈な愛の言葉は、はちみつを直接喉に流し込まれているかのように甘くて、隣で聞いているだけで胸焼けしそうな程だった。

姉はそんな義兄を完全に尻に敷いていた。義兄は姉にデレデレだった。
傍目に見ても二人とも満足そうで、お似合いのカップルだった。
新婚である二人の仲を邪魔したく無いと思う程には、秋希乃は義兄に対して悪い気持ちは抱いていなかった。
初流乃にも拙い日本語や英語で話しかけて、仲良くしようと努力もしていた。その姿を見て、ほんの少し、家族として薄っすらと期待をしてしまった。
だから、彼と初流乃の人間的な相性が良くなかった事、加えて、義兄は女には甘いが、同性である男には雑な対応をする人だった事に、気がつくのが遅れた。


「──この子に暴力を奮い、力尽くで従わせる事を育てるというのなら、私がこの子を引き取ります」


彼は姉にとっては良き夫であり、秋希乃にとっては良き義兄であったが、初流乃にとっては良き父親ではなかった。
初流乃を殴った義兄と、複雑な顔をした姉と、話し合いの末に秋希乃はそう告げて、距離を置く事にした。

──初流乃から父親と母親を引き離す。
それが正解だったかは今でも分からない。
少なくとも、義兄と姉にとっては正解だったのだろう。姉から時折話を聞く限り、二人の生活は悪く無さそうだった。
ただ、甥にとって正しかったかどうかは、叔母の立場では分からない。
けれど、選んだ選択肢に責任を持つ事が保護者として、大人としての在り方だろうと秋希乃は考えていた。
父親と母親の役割をどこまで出来るかは分からない。だからこそ自分に出来る事は何でもしたし、教えられる事は何でも教えた。


いつか──否、いつでも、初流乃が一人でも生きていけるように。


「……よし、今日の分は終わり。帰りながら、課題やらなきゃ…」


現段階では“土地”からの完璧な記憶操作はできず、汐華への興味関心を失わせる程度だった。
けれど、極端な害意や殺意に晒されないのならばそれで充分。
悪意を抱いた人間から興味関心を失わせるだけでも一般人相手ならば十分であるし、例えスタンド使い相手でも効果はある。
念には念を入れた対策は他にも様々用意している。特に、自宅には念入りに。


「(いまのところSPW財団の目からは逃れられている、はず。)」


完全にハトホル神のコントロールを放棄し、TV局やラジオの放送局を乗っ取り、全世界の人間に対して能力をかける事を考えた時期もある。
一応可能ではあるけれど、その場合過去のマークは全て手放さなければならない。
つまり、姉と初流乃に直接的な異常事態が行った場合に対処しきれなくなる。コントロールの放棄とはそう言う事だ。
だから秋希乃は、そこまでするつもりでは無かった。
把握しきれないよりかは、把握出来る人数に留めておいた方がいざという時対応出来る。

──不安要素はあった。
精神的な構造が一般人から異なる者、極端な例で言えばサイコパスなどの精神病質、パーソナリティ障害と言われる人々の存在は、ハトホルでも感知しにくい。
精神構造も脳波も、一般的な人間のそれとは違う。けれどそんな特異な例を気にしだすと、能力の調整が難しくなる。
ただ、そんな人間が現れても物理的な攻撃を姉や初流乃に行えば守護のマークの方は必ず反応する為、問題は無いと判断した。
それよりも今の条件で範囲を広げる事を優先するべきだと、秋希乃は考えていた。

現に、この8年間、SPW財団にもジョースターにも、組織の仲間にも、見つかっていない。
だから、秋希乃の試みは今のところ全て、上手くいっていた。
あとは時間の経過と共に、本当の意味で、ハトホルの能力が切れたとしても、皆の認識が変わっていくのを待つ。
DIOに子供が居た──その事実が知られたとしても、大事にならないくらいの時間が過ぎるのを待つ。
ジョースター側のDIOに対する怒りや恨みや憎しみ、組織の人間側のDIOに対する信仰心や執着。
それらが時間の経過と共に少しでも薄れていれば、その息子に向けられる感情も薄くなる。
特別な人が特別で無くなる。それを、秋希乃は待っていた。

それまでには、まだもう少し、時間がかかるのだろう。
彼等のDIOに対する感情は、それ程のものだったから。
かく言う秋希乃もまだきっと、囚われている。
時間の経過と共にかつての主に触れられた感触や記憶は薄れていってはいるけれど──そんな自分のような人間とは真逆に、思い出を神聖化する者もいるだろう。
彼に人生を掬い上げられた人達はきっと、そうだろう。
そんな彼等に存在を感知された時が、秋希乃は一番恐ろしかった。


「……まだ、あともう少し、続いて…」


平穏な日々が夢のように醒めてしまう日。
そんな日が来ない事を、秋希乃は祈っていた。



















「──どうしたの?もしかして、キミもどこか怪我を?」


ある日の事。
何かに蹴躓いたのか、歩道から道路側に倒れてしまったその人の手を引っ張って、歩道に戻す手伝いをした。
目の前で交通事故が起こるのは目覚めが悪くなるからという理由で、人助けをした。
けれど、相手を見て違和感、というか、既視感を秋希乃は感じた。

赤髪から限りなく色素を抜いたような頭髪。染めているのか定かではないけれど、桃色に近い髪色。
見覚えが、あるような──ないような。


「──いいえ、大丈夫ですよ」

「そっか良かった…あの…少し、お茶でもどうかな。お礼がしたいんだ」

「ごめんなさい。私この後用事があって…」

「そっか…残念…あの、さっきは本当にありがとうね。おかげで助かったよ」

「そうですか…では…」


彼のフランクな口調からしておそらく年齢を下に見られているのだろうけれども、話が長引きそうだったので秋希乃は特に訂正せずにそのまま立ち去った。
ティーンの子供と言っても欧州の子供達の身長は高い。
それに比べて秋希乃は今年23歳になったというのに、夜に歩いていると身分証を確認されてしまう。
11歳の甥っ子にも抜かされてしまった身長の低さが悲しい、なんて、そんな事を考えていた。

だから、彼に対してはそれ以上特に何の感情も抱かず、抱いた既視感は一旦忘れてしまう程だった。





  







「──やあ!また会ったね。ここでバイトしてたんだね」

「こんにちは…ではなくて、いらっしゃいませ、お客様。お久しぶりです。奇遇ですね」


その青年は、バイト先のリストランテに現れた。
嬉しそうに話しかけてくる彼を特に理由も無く蔑ろにする訳にもいかない為、当たり障りの無い会話をする。
料理を食べて、笑顔で帰っていく彼に、嫌な印象は抱かなかった。
ただ、コップの水を何度も倒したり、フォークを落としたり、テーブルに頭をぶつけたりと、ドジな人だなと思ったくらいだ。
けれども、何度か店にやってくるようになってしまった彼に、少し困った事になったなと思った。


「(結界にも引っかからないという事は彼に悪意は無いのだろうけれど…)」

「…どうしたの?大丈夫?疲れてるのかい?」

「…いえ、元気ですよ。それより、ご注文をどうぞ」

「あ、ごめんね」


やはり何か少し、違和感がある。何かが、引っかかる。
そう、何度か彼の背を見送る度に思っていた。



──そして、日差しの強いある日、ふと、秋希乃は思い出してしまった。
あの髪色の彼に“いつ”出会った事があったかを。


「(──…え…いえ、そんな、筈が…)」


今は、1996年。
彼と初めて出会ったのは、1986年の、ちょうど10年前のエジプトで、だ。
あの時の彼はテレンスと同い年くらいの青年だった。だから、あれから10年は経っているのだから、彼とはきっと、別人だ。身長も、もう少し高かったような気がするし、年齢が合わない。
日本人からすれば老けて見えるイタリア人男性の年齢の見分けも、長く暮らしていればつく。
最近よく現れるこの青年は少年に近い。秋希乃から見ても年下のように見える幼さがあるのだから。

──だから、きっと思い違いか、もしくはあの時の彼の親族か何かなのだろうと、そう思った。
そんな偶然もあるのだろうと、そう思う事にした。けれども


「(“偶然”?本当に──?)」


──人と人との間には引力があり、互いに惹かれ合う。
──人と人との出会いは運命によって決められている。

かつて彼等が口にしていた言葉が脳裏に浮かんで、秋希乃はこくりと、唾を飲み込んだ。

















「──ねえ!あのさ、キミに、        ?
──あれ… ?」


バイト終わりの帰り道、秋希乃を待っていた様子の彼は、こちらを見て嬉しそうに駆け寄ってきた。
けれど秋希乃はその瞬間、彼の記憶からも視界からも、自分を消した。


「………」


何事かを口にしようとしていた彼は、そのままその場からふらりと去っていった。
これで、今後彼がリストランテに来る事はもう無いだろう。再度訪れたとしても、その時の彼に秋希乃の記憶は無い。

彼からの問いかけや想いが何であっても、秋希乃にとっては全てが危険だった。
あの“鏃”をエンヤに売った“彼”の関係者と疑われる人物となど、関わるべきではない。
仮に彼が“彼”とは無関係の一般人で、秋希乃に対してただの好意しか抱いてなかったとしても、それは安心する要素にはならない。

東洋人である秋希乃を珍しく思う人は時々現れる。学校の同級生や店に通う客に物珍しさから話しかけられる事もある。
悪意を抱く人間はオートで弾かれている為、彼等に悪気が無い事も分かっている。
──けれど、特別な感情を抱かれるのは、隠居生活をする上で、弊害としかならない。


「(…好意も、恋も、こわい)」


恐ろしい、とすら、秋希乃は思っていた。
テレンスやンドゥールや花京院との関係が拗れた時の事を思い出すと、必然的に、そう思ってしまう。
きっぱり断っても、無難な断り方をしても多少のトラブルは発生してしまう。
想いに応えない女の何がそんなに良いのか分からないけれど、イタリアでも何度かそういった事があって、秋希乃は以前よりもずっと、その感情を忌避していた。
悪意だけでなく好意すら結界内の排除の対象とするべきかとすら考える程だったけれど、そんな条件付けまで増やすのはハトホル神でもキャパオーバーだ。

──だから、自分に好意を抱いてくれたであろう人々の記憶を、秋希乃は悉く消していた。
自分との関わり合いなど終わらせて、次の相手を探す方が相手にとっても、最善な筈だ、と。


「(昔みたいに…もう、振り回されない)」


中途半端な対応が一番悪手なのだという事は、花京院と色々あった事で、身に染みている。
だから、自分に関する記憶を根刮ぎ消す事こそが最良だ。
そうすれば出逢った事すら無かった事になる。他人同士の出来上がり、だ。


「…まだ、やらなければならない事が沢山あるんだから」


関係の無い事に時間を使う事は出来ない。そんな余裕は無い。
誰も助けてなんてくれないのだから。
支援、というか応援をしてくれる人は一人いるけれど、あまり迷惑はかけられない。
それに、最終的に自分の身は自分で守らなければならないのだから。







──だから、そんな警戒心の強さが致命的なミスを犯した事に、その時の秋希乃は気が付けなかった。




 










































「…覚えていないとは、どういう意味だ、ドッピオよ」


明かりの無い部屋で一人の男が、その場にいない別の誰かに、そう問うた。


 




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