novel2 | ナノ
 


厳しくて、長い冬だった。
身体の芯から冷えて、震えが止まらないような日々だった。
毎日、能力を最大限に使いながら警戒して、細心の注意を払って、神経を使って、すり減らして、怯える心を押さえ付けて、目を逸らし続けて──






──気が付くと、季節が変わっていた。


梅の木の花が咲き、桜の木が色付き、暖かで穏やかな風に変わる時期。
3月も、もう下旬。
世間はもうすぐ春休みだった。

陽気な空気が町を包んでいた。
自転車に乗った中学生達が足早に通り過ぎ、ランドセルを背負った小学生達がはしゃぎながら帰宅している。

そして、住宅街から少し離れた場所にある大きな公園で、秋希乃は遠目に彼を目にした。
その姿は、数ヶ月ぶりに見るもので。
五体満足で歩いている彼を見て、秋希乃は──


「──…」 

「おねぇちゃんどうしたの?どこかいたいの…?」

「…あくびしたら涙出ちゃった…ごめんね、そろそろ帰ろっか」

「でも…おにーちゃんかえっちゃうよ?」

「そうだね…」


無垢な瞳が見上げてきて、秋希乃は目を擦り、苦笑いを返した。


「今お兄ちゃんとは…隠れんぼ中なの」

「そうなの?おにーちゃんがオニ?」

「うん、だから、はるくんも見つかっちゃだめだよ」


頷く初流乃の黒髪を、くしゃりと撫でる。

──本当は、“彼”の記憶を初流乃からも消すべきだ。
けれど、親のように、兄のように面倒を見てくれていた人の記憶を消してしまうのは、憚られた。
初流乃には今、親しくしてくれる大人の男性が居ない。
本当の父親、親代わりのように育ててくれた執事、面倒を見てくれていた組織の仲間達、そして、彼。
彼等にして貰った事を初流乃の記憶から取り上げてはいけないと、秋希乃は思っていた。
幼い子供にとっては、きっと全て必要な記憶の筈だから。誰かに可愛がって貰えた、愛されたという記憶は。
まだ3年も生きていない子供からそんな貴重な記憶を消すなんて、その後の人格形成にどんな影響が起こるか分からない。
例え初流乃が成長して忘れてしまったとしても、それを意図的に消す事はしてはいけない。
それくらいの道徳心というのか倫理観のようなものは、秋希乃にも存在していた。


「はるくん、今日の夜のごはんは何が食べたい?」

「プリン!」

「ふふ…それはごはんの後に食べようね」


秋希乃は公園に背を向けて歩き出した。
──そして、もうここには来ないようにしようと決めた。
整えられた芝生が広大に広がり、ブランコ等の遊び場は勿論、木製のテーブルやイスが置かれ、寛げる場所も設けられている。
三人でよく遊んだこの場所には、思い出が多すぎる。
秋希乃の耳元で揺れるさくらんぼのイヤリングを彼から貰ったのも、この公園だ。
だから、今後は彼が来ないであろう別の公園にしようと、思った。









──けれど、利用し始めた別の公園で、秋希乃は町を離れる決心をするにまで、思い至った。









「おねぇちゃん!」

「あんた、こいつのおねーさん?」

「う…うん、そういう君は…」


秋希乃が自販機前でジュースを購入している隙に、初流乃は少し離れた滑り台に向かって走り出していた。
それ程離れた所に行く訳でもないから大丈夫だろうと、秋希乃はその様子を横目で見守っていた。
けれど、その体制が崩れてべしゃりと顔から転けた姿が目に入り、思わずあっと声が出た。
反射的に追いかけようとして、小銭をばら撒いてしまった。慌ててそれらを拾って駆け出した時には、既にその少年が、初流乃の側に、居た。


「こいつがこけたのみえたから、おこしてただけ」

「…ありがとうね…はるくん、お兄ちゃんにお礼は言えた?」

「うん!おにーちゃんいたいのいたいのとんでけーしてくれて、いたくなくなったから、ありがとうした!」

「…そうなんだ…良かったね。君、本当にありがとうね」

「べつに…」


少し赤くなって気恥ずかしそうに目線を逸らす少年に笑顔でお礼を言いながらも、秋希乃の内心は全く、笑えたものではなかった。
走った為に肌に滲んだものでは無い汗が、たらりと額を流れ落ちる。


「あとね、おにーちゃんのここ、ぼくとおそろい!」

「めずらしいな…ん、なんかおれたち、ほかにもいろいろにてるかも?」


春が来たとはいえ、まだまだ肌寒い季節なのに、タンクトップの姿で薄着の少年。──その首元に、初流乃と同じ“星形の痣”がある。
それは、その星は、ジョースターの血族の証だ。
即ち、ジョナサン・ジョースターの子孫か、その身体を乗っ取った主DIOの子供の証、という事。
日本人よりも目鼻立ちがくっきりとしたハーフらしい顔つきと、その、日本人特有の黒でも茶でも無い、緑がかった瞳に、秋希乃は動揺していた。
それに加えて、見間違いでなければ、さっきこの少年は──


「おねーさん、だいじょーぶ?どっかいたい?」

「え…ううん、大丈夫だよ……あ、これ、お礼に良かったら君が飲む…かな?
お母さんにダメって言われてたり、するかもだけど…」

「ジュース!んー…しらないひとからもらうなっていわれてるけど…おねーさんならいいとおもう」

「…そっか、さっきそこの自販機で買ったものだから…」

「あー!おねーちゃんぼくのは?!」

「はい、はるくんのはこれね。あけてあげるからちょっと待ってね。…君はあけられる?」

「ん、おれはこのくらいできる」

「そっ…か…お兄さんだね」


ペットボトルの蓋や缶のプルタブを開けるには、幼児には難しい。
力もコツもいる。一般的に出来るようになるのは5歳くらいからだと本で読んだ。
だから、秋希乃は少年のジュースの蓋も開けようとしていた、のだけれど。


「(──スタンド)」


やはり、見間違いでは、無かった。
少年の手に重なるようにして見えたもう一つの“手”。
あれは、間違いなく、精神の具現化、そのビジョン。

秋希乃はこくりと、唾を飲み込んだ。
喉が、渇いた。一刻も早くこの場から離れたいと、思った。
けれど、この少年の保護者を確認してから去るべきなのでは?という考えも浮かんで、動けない。
DIOの、組織の側の人間であればまだしも、ジョースターの関係者ならばまずい、のに。
ぐらぐらと、視界が揺れる。息が乱れ、このままでは平静が保てない。


今の秋希乃に、初流乃に、汐華に、後ろ盾は存在しない。
ハトホル神の能力しか、もう、無い。
無い、のに、能力にひっかからなかった少年。けれど、だからこそ、少年に敵意が無い事は分かる。


「(でも、どうしたら、はやく、決断を、はやく、しないと、だれか──)」


























「──仗助!!あんた一人で家から出るなってあれだけ言ったのに!!」

「げっ…」

「ここに来るならせめて私に声をかけてからにしなさいよね!ったく…って、あんたその飲み物、どうしたの?」

「や、これは…おねーさ、んに…あれ?ん…?」

「誰にもらったの!」

「うーん…?」

「知らない人に貰ったんじゃあないでしょうね?!捨てなさい!」

「…いやだ!のむ!」

「あー!こら!」













「………」

「おねえちゃん?どうしたの?もうかえるの?」

「うん…」

「おねえちゃん…?」

「…はるくん少し、じっとしててね」

「…?」


秋希乃は咄嗟に目眩しの能力を使い、更に少年の記憶を操作して、その場を離れていた。
そして、少年の、“じょうすけ”と呼ばれていた子供と、その母親と思われる女性を遠目に観察していた。

女性の年齢は姉よりも少し上。気が強そうだけれど、真面目そうな雰囲気をしている。
エジプトの屋敷では見た事がない人だった。
けれど、秋希乃が屋敷に滞在していたのは長期休暇の時のみの為、主の女を全て把握出来ていた訳ではない。
それに、主は屋敷以外でも海外に飛んで色々と活動していたらしいので、旅先で拵えられた子供かも知れない。


「(でも、あの子供の年齢は初流乃の少し上…見た目から、多分4歳か、5歳くらい…)」


子供が4歳以上ならば、DIOの子供では無い可能性が高い。
主が海から引き上げられたのは今から4年程前の為、ギリギリ計算が合わないからだ。
ならば、やはりジョースター側の誰かが父親という事になる。
母親があの日本人女性ならば、そういう事だ。
仮に空条承太郎が父親ならば彼が13、14歳くらいの時の子供となる。年齢的に精通していただろうから不可能では無い。
仮にジョセフ・ジョースターが父親ならば彼が63、4歳くらいの時の子供となる。彼がまだ現役ならば子作りは不可能ではない。
可能性としてはジョセフの方か──それか、他にまだ、組織が把握出来なかった血族が居たのか。

とにかく、DIOの子供だという確信が無い以上、今は接近するべきでは無いし、それに──


「(DIO様は、亡くなってしまった)」


ジョースターに、負けたのだ。
今頃、組織は解体されているだろう。
テレンスやンドゥールに施したマーキングは消えてはいないけれど、一度反応した事から、ジョースター側と接触しているだろうし、無事ではない、のかも知れない。
彼等が生きていることだけは、それだけは分かっているけれど──秋希乃は、彼等に会いに行く気はなかった。
合わせる顔がなかったからだ。
彼等からすれば、自分は裏切り者のような立場だろう。
主の危機に馳せ参じない部下など、ただの役立たず。
例えそれが主からの一時的な命令だったとしても、それを証明出来る主はもう居ないし、皆の記憶を消して危険から遠ざかっていたのは事実だ。
DIOと秋希乃のやり取りを知っている、というか聞いてしまっていたンドゥールなら、取り成してくれるかも知れないけれど。


「(──そうなったとして、初流乃は)」


初流乃は、どうなるか、なんて、分かりきっている。
DIOの息子として、彼等の新たな主に祭り上げられるか。
組織の残党の旗頭にさせられてしまうか。
いずれにせよ、それは安全からほど遠く、むしろ、初流乃を危険に晒すことになる。
それでは、今まで隠して、隠れてきた意味が無くなってしまう。

──だから、組織の仲間たちには、頼れない。
頼って、保護して貰えたとしても初流乃の未来は組織に寄り添った道へと確定されてしまう。
──そうなればいずれ、主DIOのように、ジョースターに殺される。


「……っ」


そんな道に進ませるなんて、わざわざ茨の道を選択させるなんて事は、秋希乃には出来ない。
将来的に初流乃自身が望んでその道へと至るのなら、それを止める資格は無いけれども。
けれど、まだ2歳の子供が組織に属せば、強制的にその道に至ってしまうだろう。

──だからもう、組織に属する事は出来ない。
だから、DIO側の人間からも、ジョースター側からも、どちらにも見つからずに身を隠している方が、安全だ。
安全だった、のに。


「(どうして、)」


この地に、杜王に、ジョースターの関係者が居た。
あの少年もスタンド能力を持っているとはいえ、守る手段を持たなければいずれその存在は明るみに出る。
もしかしたら、既にもう、知られているのかもしれない。
そうであれば、ジョースターだけでなくSPW財団の関係者も、この地に来るかもしれない。

今まで、彼等に何の関係も無かったこの杜王町が──


「……あ、」


否、この地には関係者が、既に居る。
花京院典明が、彼がこの地に帰ってきた時から、ここは無関係な場所ではなくなっていた。
彼が住んでいるという事は、彼を訪ねてジョースター側の、SPW財団側の人間がこの町に訪れるかもしれないという事だ。


「(なのに、何で、呆けていたのだろう)」


花京院典明はもう、味方でもなんでも無い、他人だったのに。
むしろ、こちらの存在を知られれば殺されてしまうような、敵である。
DIOの息子とその母親や叔母など、彼からすれば邪悪の芽であり、新たな火種となる存在だ。
ジョースター側の人間からすれば、汐華家など目障りな存在でしか無い。
だから、絶対に、見つかってはならない相手だった、のに。
もうこの地はとっくに、安全ではなくなってしまっていた、のに。


「……」

「おねーちゃん、ぼくあるけるよ?」

「ごめんね…」

「どうしたの…?」


初流乃を抱き上げて、秋希乃は走り出した。
動悸が激しい、頭痛がする。息が乱れる。
心配してくれる声にすら言葉を返せず、ひたすらに走った。


「お…おねぇちゃん…またないてるの…?どうしたの?ぼくおもい?おりるよ、じぶんであるく」

「だいじょうぶだよ…おねえちゃんが、なんとかするからね…」


味方も、敵も、皆、皆、誰も彼もが、この子をDIOの息子としか見ない。姉も、DIOの女としか見られない。
秋希乃にとってはこの世に二人だけの、大事な家族、大切な姉と甥なのに。
お日様が好きで、てんとう虫が好きで、プリンが好きで、笑顔が可愛い、ただの、男の子でしかない甥の、健やかな成長を守りたいだけなのに。
二人に、“普通”に、生きていて欲しいだけなのに。


「(せめて、せめて、あと5年、いえ、10年、初流乃が大きくなるまで、どこかに、どこかへ、どこかで、)」


人並みに傷付いたり、傷付けられたりしながら、“普通”の人と同じように、健やかに育って欲しい。
どうか、自分のような歪んだ人間には、ならないで欲しい。
とても勝手な、希望の押し付けだけれど、でも、どうか、どうか──いつかの、未来の為に。
ただの汐華初流乃という人間を見てくれる人達に、出会えた時の為に。
DIOの息子という理由だけで、色眼鏡で見られたり、特別視されたり、蔑まれたり、敬われたり、狙われたり──殺されたり、しない。

そんな、未來の為に。



「がんばる、から」



例え世界の全てが敵になろうとも、持てる全ての力を使って、害あるものを断ち続ける。
それがこの子の叔母であり、スタンド使いである自分にしか出来ない、守人という役割だ。
将来うっとおしいと邪険にされるその時まで、お役御免になるまで、それまで、頑張るから─



しなないで…」



















──また時が過ぎて、それから半年後。
汐華家は東京に居た。
M県S市内の家は土地ごと高値で売り払い、首都に上京したのである。
SPW財団の支部のある都市とはいえ、そう簡単には見つからない。むしろ、地元では秋希乃の能力無しでは初流乃はとても目立つ為、人口密度の高い東京の方が潜伏するには都合が良い。
木を隠すならば森の中という言葉もあるように、首都は日本人だけでなく多くの外国人に溢れ、ハーフの子供も多い。
田舎のように人種が違うだけで寄せられる好奇の視線も少なく、娯楽の多い都会では人々の興味関心が一個人には向きにくいのである。
汐華家がここに引っ越して暫く経つが、隣人の顔すら知らないし、おそらく自分達の顔も知られていない。
田舎の一軒家に住んでいた時では考えられない程に人間関係が希薄である。
互いにそこまで興味を持つ事も無く、また、アングラな人物や団体も多く存在している為、秋希乃の能力無しでも初流乃が生きやすい。勿論能力はかけっぱなしだが、それでも少しだけ、気が抜けた。
加えて、田舎には無かったインターナショナルスクールに通わせた事で、初流乃は以前よりも楽しそうに過ごすようになった。
英語が母語の子供が多い為、コミュニケーションが行いやすいようだ。


「いってきまーす!!」

「ふふ、いってらっしゃい」

「おねーちゃんもいってらっしゃい!」

「はーい、はるくん、お友達と仲良くね」

「うん!」


──こうしてあっさりと故郷を出て、別の場所で暮らせているのは、姉の後押しもあったからだった。
以前から、姉は田舎を出たがっていた。
元々遊び好きで旅行好きで新しいもの好きで飽き性な姉は、田舎の不便さと遊ぶ場所の少なさに辟易していた。
わざわざ家から1時間近くかけて都市部に遊びに行くよりは、そこに住んでしまった方が楽だとぼやく事が多かった。
寧ろ、今までよく実家に留まり、サボりがちとはいえ子育てをしていたものである。
姉は姉なりに行動を制限していたのだろう。
だから、その時期が秋希乃の意見で少し早まったに過ぎなかった。

首都圏に引っ越してからの姉は明らかに機嫌が良かった。実家に比べて夜のお遊びのエリアが近い為だろう。
秋希乃は相変わらず能力を駆使して新しい学校に形だけ編入し、幽霊部員のように在籍していた。
義務教育は受けておくようにとの姉の意見には一応従っていたけれど、秋希乃はそれよりも専門的知識を学べる所に行ってみたかった。
飛び級が存在しない日本において、大学などの研究機関に進学する為には18歳以上で高卒認定試験に合格するか、普通に高校に通って大学受験をするか、ほぼその二択のみである。
秋希乃は勉学においてはテレンスやDIOのお墨付きである為、正直言って通うメリットはほぼ無いが、今は大人しく日本の14歳らしい型にはまっておく事にした。
とは言いつつも、隙を見ては初流乃の送り向かいをし、時折SPW財団へ情報収集に出かける日々を送っていた。





──のだけれども。





「──結婚???」

「そーよ」

「え、姉さんが??結婚???お、おあ、お相手は…??」

「この間写真見せたでしょ、彼よ」

「え?ええ…?」


姉の行動はいつも突拍子が無い。
そして行動力も秋希乃と同等、否、それ以上である。

近頃出来た姉の新しい彼氏はイタリア人だった。
クラブで知り合って意気投合したという事だったけれど、秋希乃はまたすぐに飽きるのだろうなぁと思っていた。
それが、まさかの結婚。
子供が出来たからという訳でもなく、一緒になりたいからという極普通の理由だった。


「イタリアで暮らす予定よ」

「そう、なんだ…」


──また、家族が増えるのかもしれない。
そんな期待と──不安。
心臓の鼓動がどくりと早まり、秋希乃は言葉に詰まった。

姉の結婚は喜ばしい事だ。
DIOの子を産み、彼から子を認知されていたとしても、二人の間に法的な縛りは無く、姉は実質未婚の母、つまりシングルマザーだった。
だから、入籍までして、本当の意味での伴侶が出来るならば、めでたい事だ。
姉の男癖は結婚には向いていないと思っていたから、それを差し置いても側に居たい相手と巡り逢えたというのは、本当に素晴らしい事、なのだろう。

──けれど、秋希乃と初流乃は、新しく姉の夫となる者からすれば、邪魔者以外の何者でもない。
コブ付きどころか、妹まで居るなんて。
よほど懐の広い人間か、DIOのような規格外の存在でなければ受け入れられないのでは、と、秋希乃は思った。
奔放な姉が結婚を決めるに至るまでの男性ならば、違う、のだろうか。

それとも、姉は、自分達を──


「…一応言っとくけど、勿論あんた達も一緒だからね?」

「──…ほ、ほんと?」

「あんたの保護者は私だからね」


姉は元々淡白な人間だ。けれど、完全に情を捨てられる程冷血では無かった。
本当に無情な人であればわざわざ面倒な手続きをして妹の身元引受人になどなっていないし、自分の自由の妨げになる息子などさっさと施設に入れるか置き去りにして捨てているだろう。
だから、家族の情はある人だ。そして秋希乃は、その微かな愛に縋った。その手に縋り付いた。
けれど同時に、そんな姉にも過度な期待をしないようにしていた。
自分から手を伸ばした初流乃にすら、いつか手を振り払われる事を、想定している。
──それは覚悟でも何でもなく、ただの諦めだと、知りながら。


「皆でイタリアに行くのよ」

「…うん」


視界がじわりと滲んだ。
姉はまだ自分の姉で居てくれる。初流乃の母で居てくれる。
自分達を手放す気も捨て置くつもりも無いという姉の言葉を聞いて、秋希乃は心の底から、ほっとした。


「あ…そうだ、ごめん…まだ言ってなかったよね
結婚おめでとうね、姉さん」

「フフ、ありがと」


口にしていなかった祝福の言葉を伝えると、姉は嬉しそうに笑った。
エジプトでは東洋の真珠と謳われ、現在繁華街をその美貌で賑わせている姉の笑顔は、やはりとても美しかった。





その後、顔合わせから姉達の日本での入籍やビザの申請など、ありとあらゆる手続きを終える頃には、季節は春になっていた。
杜王町を出て東京で暮らして、約一年の時が経っていた。その間何事も無く過ごせたのは本当に幸いだった。
次の住まいはイタリアの為、少しエジプトに近いという懸念はあるが、ジョースターとはあまり縁の無い土地の筈。
ジョースターの血族である空条家と、あの謎の少年が存在する日本よりは、確実に影響力は少ない、筈。
そう秋希乃は思う事にした。それにもしイタリアで組織やSPW財団の関係者が居たとしても、やる事は変わらない。生き方を変えるつもりは、無い。


「ほらはるくん、おてて繋ごうね」

「うん!」


秋希乃の手を引く役目は、昔から姉だった。多忙な母や父よりも長く、手を繋いで貰っていた。
そして今秋希乃が引いているのは、甥の手だ。柔く小さな手を緩く握り、改めて覚悟を決める。


「ひこーき!」

「はるくんは乗るの2回目だね」

「中ではじっとしてなさいよ」

「はーい!」


姉と二人で、甥を真ん中にしながら、三人で手を繋いで、歩いていく。
ご機嫌な様子でぴょんぴょんと跳ねる度に腕が引っ張られても、その重みにすら、秋希乃は愛しさを感じていた。
初流乃はもう少しで4歳になる。
産まれた時から、否、産まれる前から見守ってきた姉の子供。あっという間に成長していくその姿には、驚かされる事ばかりだ。
きっといつか、秋希乃の身長も追い越してしまうに違いない。そんな未来が、今から楽しみで仕方なかった。











──そうして、たった三人だけの汐華家はその日以降、日本から消えた。





 


 



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