novel2 | ナノ
汐華家は、六人家族だった。
秋希乃はその家の次女として、この世に生を受けた。
医師の祖父、元看護師の祖母、外交官の父、通訳の仕事をしている母。そして、十歳程年の離れた姉がいた。
気が強く、物怖じせず、頭が切れ、文武両道で、とても美しい自慢の姉。
しかしその反面、とても飽き性かつ面倒臭がりで、男癖の悪い人だった。
その姉が度々問題を起こして両親が頭を悩ませる事はあったが、汐華家は平和な日常を送っていた。



──しかし、それはある日を境に崩壊した。



「え…」

「…病院から連絡があったわ」


秋希乃が小学四年生になってすぐに、祖父母、両親が死んだ。
事故だった。四人が乗っていた車に、大型トラックが突っ込んだのだという。
祖父母は即死。父と母は病院に運ばれたが、無情にも、秋希乃と姉が病院へ辿り着く前に二人共息を引き取ってしまった。


「…どうして、お爺様とお婆様のお顔を見てはいけないの」

「見なくて良いからよ」


まだ温かな両親の身体には触る事が出来たが、損傷が激しかった祖父母の身体は、幼い秋希乃には見る事すら許されなかった。
とても受け入れ難い現実だった。突如襲い掛かったあまりの出来事に脳が働かず、泣く事すらままならない。
しかし秋希乃が放心状態になっている間にも、通夜や葬式事が姉と親戚達によって進められ──気が付けば自宅の仏間には、四つの小さな骨壷が、それぞれの写真と共に鎮座していた。
後に残ったのは、莫大な遺産と高額な慰謝料だけだった。


「──ねぇ秋希乃ちゃん、おばさんのお家に来ない?」


そして何時しか、親族同士での争いが始まっていた。皆がこぞって秋希乃を引き取ろうと、後見人になろうと名乗り出したのだ。
彼等の目的は明白だった。あからさまに金銭を要求してくる者も居て、悲しみに暮れていた筈の大人達の顔が卑しく染まっていった。
事態は泥沼と化し、成人していた姉もそれに巻き込まれた──というよりも、自ら飛び込んでいった。
埒があかないと弁護士を雇い、身勝手な発言を繰り返す親戚達を黙らせ、法律に基づいて遺産分配を的確に決めたのだ。
それでも文句を言ってくる遠縁の親戚も居たが、そんな人間達には絶縁状を叩きつけていた。
そうして姉は、姉妹にとって一番良い選択肢を獲得する事に成功したのだ。


「あんたもしっかりしなさい。私だっていつか居なくなるんだから」


秋希乃に何不自由無いよう、様々な手続きを行ってくれた。
更に、面倒だと毒づきながらも毎日食事も用意してくれるようになった。
それは主に外で買ってきた物が多かったが、ごく稀に姉の気まぐれで作られた手料理は美味しかった。
誕生日にはケーキを用意し、嫌々ながらもバースデーソングを歌ってくれた。
恥ずかしいったらありゃしないと言いつつ、授業参観にも来てくれた。


「秋希乃ちゃんのお姉ちゃんきれいだね!」


秋希乃にとってはたった一人の肉親であり、自慢の姉だ。そんな姉の助けになるようにと、秋希乃は率先して家事を行なった。
掃除、料理、洗濯など、今まで全て家政婦に任せていた事を行うため何度も失敗したが、その内慣れていった。
そうして、法事や身の回りの事で忙しい一年が過ぎ、いつのまにか秋希乃は小学五年生になっていた。


「1ヶ月くらい戻らないから」


生活も落ち着きを取り戻したそんな頃、姉が単身海外旅行に出掛ける事になった。
元々家族で海外へ行く機会は多く、姉自身も何度か一人で日本を離れている。
反対する気は無かったが、内心は不安で堪らなかった。


「あんたに心配してもらう程ヤワじゃないわよ」


気を付けてと伝えると、姉はくるりと背を向けてひらひらと手を振った。
その後ろ姿は、長らく控えていた旅行にようやく行けるという喜びで満ちていた。


「……」


6月から、7月までの1ヶ月間の旅だと聞いていた。
けれども、2ヵ月、3ヵ月経てど、姉は帰ってこなかった。
心配のあまり、頭がどうにかなってしまいそうだった。
周りに頼れる大人は居なかった。捜索願いを出せば良いのかとも思ったが、そうすれば大事になる。
否が応でもあの親戚達と接触する羽目になると思うと、秋希乃は不安な心を落ち着けて姉の無事を信じて連絡を待つしかなかった。

──そんなある日、一通の手紙が届いた。
そこには、心配をかけた事と誕生日を祝えなかった謝罪と、暫く帰らないといった内容が書かれていた。
口は悪いが文面では正直な姉の字は、相変わらずとても綺麗だった。

秋希乃はその送られてきた場所を見て、ある決意を固めた。
金庫から現金を取り出し、パスポートを見付け出し、その期限が切れていない事を確認し、空港へ連絡をし、必要な手続きを全て行った。


そうして冬休みに入って間も無く、秋希乃は単身飛行機に乗り込み、その地へ飛び立ったのである。








「──12月なのに、やっぱり暑い」


照り付ける太陽、乾燥した地に秋希乃は一人、辿り着いていた。
エジプトの冬は温暖で軽装でも問題無いが、夜になると気温が急激に下がるという。しかし、流石に気温が20度を超える日中は暑かった。
日本から着ていた上着を脱いで腰に巻き付け、秋希乃はきょろきょろと辺りを見回した。


「あっちかな」


地図も見ずに方角を決める秋希乃は、一見無知で無謀な子供だった。
加えて、見るからに観光客かつ身なりも小綺麗な彼女は、現地の良からぬ輩にとっては格好の餌食である。
しかし周りの人間は皆、その姿が目に入らないかのように通り過ぎ、目をつけた他の観光客の元へと向かっていった。
その間に秋希乃はまるで目的地が分かっているかのようにするすると人混みをすり抜け、カイロの市内へと歩いていった。
賑わう商店街に目を輝かせるその足取りは軽い。


「あ、アッサラーム、アレイ、コム?」


秋希乃は昔から、外交官であり、旅行好きでもある両親と供にヨーロッパの国々やアメリカによく訪れていた。
必然的に話す事が出来るようになった英語と、ある程度理解する事の出来るイタリア語やフランス語。
しかし、エジプトには今まで一度も訪れた事がなかったため、アラビア語は全く知らなかった。
飛行機に乗っている最中、ガイドブックで簡単な挨拶等を覚えたばかりの彼女は、緊張しつつもたどたどしいアラビア語で店員に話し掛けた。


「シュクラン!」

「アフワン」


心配を余所に、観光客用の店のスタッフは英語をある程度話せるようで、文字が読めずに戸惑う秋希乃に丁寧に説明を行ってくれた。
目的の物を買う事が出来てぱっと笑顔になり、現地の言葉で感謝する彼女を、店員が微笑ましく見送っていた。


「ドキドキしたー」


店の外に設けられたベンチには、何人か観光客が座り、昼食をとっていた。
秋希乃は日陰を探して同じくベンチに座って一息つき、名物のコシャリをもくもくと食べながら、カイロの街並みを見渡した。

日本では見掛けない独特の建物と人々。
慣れぬ気候と言語、流れる音楽に心は踊り、彼女は鼻歌を歌って、ぷらぷらと足を動かしていた。


「隣、失礼します」

「あ、はい」


すると、いつの間にか秋希乃の側には一人の男が立っていた。
その顔には妙な刺青のような物が入っており、現地人かと思われたが、英語で話しかけてきた事から欧米人なのだろうと秋希乃は思った。
不思議な風体の男だが、話しかけられた以上無視するのは失礼に当たる。かつ、今すぐ席を立つのは不自然だ。
そう思った彼女は「どうぞ」と返事をして、もう暫しその場で涼む事にした。


「ふう…」


男は買い物を終えた所のようだった。
日用品等がそれぞれたくさん詰まった紙袋をどさりと下ろして、腰を下ろす。
そして、サンドイッチのような物を手に取って食べ出した。
それは先程の店には無かったもので、秋希乃は思わずちらりと二度見してしまった。
するとその男とばちんと目があったので、反らす訳にもいかなくなり、彼女は口を開いた。


「それ、とてもおいしそうですね。どこのお店で売っている物ですか?」

「ああ、このエイシュの事ですか。
そこの角を右手に曲がった大通りで売っていましたよ」

「そうなのですね、ありがとうございます」


先程コシャリを食べたばかりだが、まだ少し小腹が空いていた秋希乃は、後で買いに行こうと思い、笑顔で男に礼を言った。
すると男も悪い気はしなかったのか、彼女に話しかけてきた。


「貴女も何かお食べになっていたようですが?」

「はい、お店の方におすすめされて、コシャリを食べていました。とてもおいしかったです。
ですが、少し休んだら小腹が空いたので、お兄さんが食べていた物をつい見つめてしまいました」

「フフ、随分と食いしん坊なお嬢さんだ」

「う、エジプトの料理が美味しいのがいけないんです」


確かに少し食い意地がはっていたかもしれないと赤くなりながら、秋希乃は笑う男からふい、と顔を背けた。


「貴女は、チャイニーズ…ではないですね、ジャパニーズですか?」

「はい、日本人です」

「ああ、やっぱり。ご両親は?迷子という感じではなさそうですが…
この辺はまだ治安の良い方でも、子供が一人だと色々と危険ですよ」

「えっと、両親はいません。エジプトには一人で来ました」


秋希乃がそう言うと男は軽く目を開き、「へえ」と驚く。


「実は先ほど到着したばかりです。
なので、エジプトでお話したのは、お兄さんで二人目です」

「なるほど…小さな見かけによらず、随分と行動力のある方だ」


ただでさえ幼く見えるアジア人は、成人していても未成年と間違われる事が多い。
加えて彼女は11歳になったばかりの正真正銘の少女だ。男にとっては最早、幼女に見えているのかもしれない。


「日本といえば…最近また新しいゲーム機が出たそうですね」

「ゲームですか?」


それから少しの間、男と秋希乃は最近発売されたばかりのテレビゲーム等の話に花を咲かせた。
学校で話題になっているゲームの種類などを教えると、男は興味深そうに相槌を打っていた。
そんな他愛無い話を続けていると、思っていた以上に時間が経ってしまった事に秋希乃は気付いた。
慌ててベンチから立ち上がる。


「すみません、わたし、そろそろ行きますね」

「ああ、ひき止めてすみません。そういえば…どちらへ行かれるんです?
宿の場所はこの近くですか?よければ案内しましょう」


男は親切心からか、そう言ってきた。
一人で行動しようと考えているアキノが、あまりにも危なっかしく思えたからかもしれない。


「えっと…ありがたいのですが、どこへ行くか、今は決まっていません。宿も、とっていないので大丈夫です」

「それは…大丈夫ではないですね」


宿無しのままもし夜になればどうする気なのかと、男は眉を寄せた。


「実は、人探しをしにきたので、その人に一目会えれば、その後はすぐにでも帰る予定なのです」

「はあ…その人が今日中に見つかるんですか?」


無謀とも言える発言に、男は呆れ半分怒り半分といった様子で眉を寄せ、溜め息をついた。


「人を探しているのなら、その人の写真や、居場所の分かる物はありますか?」


出しなさい、とばかりに手を伸ばす男に目を丸めながら、秋希乃はぶんぶんと手を振った。


「いえいえ、お気になさらず。
見ず知らずの方にこれ以上ご迷惑おかけ出来ません…それでは、ありがとうございました。さようなら」

「あ、こら、待ちなさい」


立ち上がり、歩き始めた秋希乃に男は手を伸ばす。
しかし、通行人が二人の間を遮った次の瞬間、男はその後ろ姿を見失った。


「?」


あとには、雑踏が広がるばかり。


「……」


揺れるふわりとした黒髪にどこか既視感を感じて、男は暫くその姿を探して歩き回っていた。















姉の気配を頼りに再度散策を続けていた秋希乃だったが、カイロの街は彼女にとって見るもの全てが珍しく、また魅力的だった。
そのため様々な物や者に目移りして足を止める事が多く、いつの間にか時刻は夜を向かえていた。
太陽が沈み、周りの温度は急激に下がり、人々の喧騒は失せていく。
また、観光客向けのエリアから離れた裏通りへと入り込んだため、辺りは静けさに包まれていた。


「姉さん気付いてるかな」


気配に向かってまっすぐに進んでいるアキノだったが、まるで迷路のような街並みがそれを阻んだ。
ここはスークである。何度目か分からない袋小路へと辿り着き、流石にアキノはため息を吐いた。


「あ、流れ星」


だが秋希乃はこんな現状でも落ち着いていた。
足を止め、夜空に輝く宝石のような星々を眺め、その光景を楽しむ余裕すらあった。


──しかしながら、この現状は周りから見れば実に異常である。
日本人の小学生の児童が、夜のエジプトに一人きり。
持ち物は小型のスーツケースとショルダーバッグ。
一見荷物は一泊二日の小旅行並に少なく、ついでに言うと宿も無い。

一般の日本人が聞けば、親はどうした、気は確かかと発狂しそうな状況である。

また、スーツケースの中に何が入っているのかというと、数日分の着替え、タオル、シャンプー、歯ブラシ、コップ、クシ、手鏡、財布、パスポート──そして、寝袋 。
彼女は野宿する気満々であった。

姉から届いた手紙の発行先は、エジプトのカイロとしか書かれていなかった。詳しい住所は不明だったのである。
そこで彼女は、滞在一日目で姉と遭遇出来なければ、バックパッカーのようにその日暮らしでエジプトを旅しようと考えていたのだった。
寧ろ、ホテルに泊まる場合には保護者の手続きなどが必要になる事が大半のため、そちらの方が厄介ではないか、と。


一般の小学生の女児を持つ日本人の親が聞けば卒倒しそうな発想である。


「でも、やっぱり明日には会えそう」


しかし、彼女には二つの当てがあった。それが無ければここまで無謀な真似は出来なかったであろう。
もし秋希乃の同級生が、秋希乃と同じような状況で「ぼくエジプトで一人旅してくる」と言ったならば速攻で保護者と教師に言いつけて全力で引き留めるだろう。
その程度の常識は、彼女にも備わっていた。

また秋希乃は、もし3日以内に姉を見つけられなければ諦めて帰国すると決めていた。引き際は弁えていたのである。


「…写真は持って来てたら良かったな」


昼過ぎに出会ったあの男性を、探し人の写真すら持ってきていない自分に付き合わせる訳にはいかなかった。
しかし、逃げるように別れを告げてしまったのは失礼だったかもしれないと、彼女は少し反省していた。


「…?」


その時、夜空を見上げていた秋希乃の視界の端に、何かが入り込んだ。
屋根の上を舞い、地に降りる金色が──





 








「──まさかとは思ってたけど何でこんな所まで来てるのよバカッ!」

「あいたっ」


バシバシと頭を叩かれて涙目になる少女を、昼間彼女と遭遇した男──テレンスが微妙な面持ちで見つめていた。


「お帰りなさいませDIO様…あの、あの子供は… 」

「ああ、妹らしい。アイツを探していたようだから、連れ帰ってみた」

「は、はあ」

「暫く客として滞在させる。皆に伝えておけ」


目を細め、鼻歌でも歌いそうなDIOに、テレンスは驚いた。
そのまま階段を登り、自室へと向かう主。
その様子を見送り、テレンスは未だ日本語で言い争っているシオバナ姉妹を振り返った。


「あれ?もしかして昼間のお兄さん、ですか?」


ヒステリックな姉に対して、のんびりとした様子の妹が声をかけてきて、彼は思わず溜め息をつく。


「貴女…はあ…何というか…」


心配をして損をした、という気分だったが、それを口に出すのは癪な気分であった。
テレンスはあの後、あの幼女と賭け事をすればどうなっていただろうかと思う程度には、彼女の事を気にかけていたのだ。
名前も知らぬまま別れたため、もう会う事は無いと思っていたのだが、それがどうだろう。
夜になり、主が食事のための外出から戻れば、生きたまま連れて来られ、且つ、あのシオバナの妹であったと判明したのである。
そんな複雑なテレンスの心情を知ってか知らずか、シオバナの妹は明るい笑みを向けてきた。


「お昼はありがとうございました。あの後食べたエイシュ、とても美味しかったです」

「そうですか、それは教えた甲斐がありました。
それにしても…まさか、こんなに早く貴女とまた会えるとは、思ってもみませんでしたよ」

「はい、わたしもとても驚いています。えっと、私の名前は秋希乃・汐華、です。
姉がお世話になっています」


自己紹介をして、ぺこりとお辞儀する礼儀正しさはシオバナ姉には無いもので、テレンスは感動すら覚えた。
日本人という人種は礼儀正しいと聞いていたが、その姉の方からそれを感じた事は一度として無く、都市伝説の類いかと思っていた程だったのだ。


「アキノ、というのですね。私はテレンス・T・ダービーです。
DIO様から貴女の事を任されたので、必要な物があれば言ってください」

「はい。本当にすみません。
突然こちらのお家に、わたしまでお世話になる事になって…少しの間ですが、宜しくお願いします」


昼間もそうだったが、テレンスにはアキノは6〜7歳の幼女にしか見えなかった。しかし教科書通りの英語をゆっくりと丁寧に話す様子に、恐らくもう少し歳は上なのだろうという推測はしていた。


「ホント信じられないわ、あんたね、宿すら決めてなかったってどういう事?」

「姉さんの無事を確認出来たら、帰ろうと思ってたんだもの」

「日帰りする気だったの?!」

「うん。でもいざとなったら空港か、その辺の道端でも良いかなって思っ」

「バカじゃないのホントに!」


突然、シオバナ姉は妹を抱き締めた。


「何のために手紙を送ったと思ってるのよ…」

「ごめん、姉さん…っていたたたた」


文字通り、抱き、締め ていた。
ぎゅうぎゅうと鬼のような形相で身体を締め付ける姉に、痛がる妹。
更に、突然はっとしたアキノが「姉さん太った?」などと言うものだから、その姉はかばりと身体を離して今までで一番キツイ一発を妹にお見舞いしていた。

姉の前では見た目通り子供らしいのだなと、外見と中身が一致したやり取りを見てテレンスは少し笑った。



   











「──妊娠?」

「そうよ妊娠。だから太ったんじゃあないわ」

「にんしん」

「はぁ…赤ん坊がいるのよ、お腹に」


秋希乃は比較的賢い子供ではあったが、この時ばかりは姉の言葉の意味を暫し理解出来ず、固まった。
なにせ彼女は小学五年生である。つい最近保健室の先生から生理について習ったばかりで初潮もまだのおぼこな娘である。
姉の男遊びが激しかったため男女が裸で絡み合う事は知っていたのだが、赤ちゃんは男女が結婚してから出来るものだと思い込んでいたのだ。
妊娠する原理はまだ習っていないため、姉が懐妊した事を理解するのに時間がかかった。


「…す、すごい…!ということは姉さん結婚したの?」

「結婚は…してないけど、しなくても子供は出来るのよ」


秋希乃の胸はどきどきと高鳴っていた。姉に子供が出来る。
それはとても不思議な感覚で、愛おしくもあり切なくもあり、とにかく未知な出来事だったのだ。
エジプトという土地に来た事よりも興奮していた。夢でもみているような、現実味の無い話だった。


「本当にすごい!私に妹か弟ができるなんて」

「馬鹿ね。姪か甥よ。アンタは叔母さんになるの」

「あ、そっかおばさんに…」


呼び方はショッキング過ぎたが、めでたい事には変わりが無かった。
秋希乃はここ一年子供らしさというものを封じて生きてきたのだが、それも忘れて無邪気に飛び跳ね、喜んだ。


「旦那さんはDIO様だよね?お手紙に書いてあった通りの人だった」

「そうよ…ったく、あんな手紙出すんじゃ無かったわ。こんな所までのこのこやってくるなんて…」

「やっぱり、来て欲しく無かったのね」


手紙にはこの館の詳しい住所の記入は無く、むしろ来るなといった内容が書かれてあった。
それを承知で、というよりも、それが書かれてあったからこそ姉が心配になって、秋希乃は来てしまったのだが。


「アンタ此処がどういう所で、あのヒトがどういう存在なのか分かってるの…?
滞在を許されたみたいだけど今日だけよ!さっさと帰りなさい!」


姉は厳しい表情と口調でそう言ったが、それはいつもの事なので秋希乃が怯む事は無かった。


「わたしの事は気にしないで、姉さん」


そう言ってにこりと笑う秋希乃を見て、姉は更に苦虫を噛み潰したような顔になった。心底飽きれた時の顔だ。
美貌が台無しになっている。


「…どうなっても知らないわよ…」

「うん」


姉は秋希乃の事をよく分かっている。妹が平々凡々なただの小学生では無い事を知っている。
それは昔からだったが、両親と祖父母が一斉にこの世から居なくなってから顕著になった事も理解している。


「でもDIO様にお願いされてしまったから、もう少し此処に居させて?
二人の邪魔はしないわ。年が明けたら新学期が始まるし、その時には帰るから」

「…もう…勝手にしなさい…」


意外と短い、という言葉を飲み込んだ姉は、度が過ぎる心配性になってしまった妹の頭をぐしゃぐしゃと掻き撫でて、自室のベッドにぼふりと座った。



──秋希乃はその後、姉からこの館についてある程度教わった。
しかし、館の主人であるDIOに失礼の無いよう振舞わなければという考えに至った彼女は、面識のあるテレンスの元へ赴き、詳しい話を聞いていた。

この館に彼等が居を構えたのは約半年前。
姉がエジプトにやってきて、DIOに“選ばれ”住み着き出したのは7月頃からだという。
建物は元から建てられていた物を買い取って使っているため、かなりの年代物だ。


「北館の方は劣化が進んでいるので、床が抜ける事もあります。
物好きな住人しか出入りしてないので、貴女は立ち入らない方が良い」

「はい、分かりました」


特に覚えておく必要があるのは主の活動時間だという。
DIOは大体午後から起床し、早朝を迎える前に眠りにつく。
だからといって屋敷の住人達もそれに合わせている訳では無く、各々好きな時間に睡眠を取っているのだが、午前中に騒いで主の眠りを妨げ無いよう注意せよとの事だった。


「お屋敷には、あと何人くらいの方がいらっしゃるのですか?」

「此処に住んでいるのは私以外には…あと4人程ですね。あと他にも、好き勝手に放浪して偶に帰ってくる者が数名居ます。何故ですか?」

「えっと、ご挨拶をと思いまして」


見知らぬ人間が居れば侵入者だと思われるのではという懸念から、秋希乃はテレンスにそう申し出た。


「DIO様が既に屋敷に居る者には伝えていますが…そうですね、顔を覚えてもらう方が良いでしょう」

「はい」

「今外に出ている者達に関しては…、彼等が帰還した際に丁度貴女の事を説明出来る人間が側にいれば良いのでしょうが…」


彼は眉を寄せて、口を一度噤んだ。そして神妙な顔で秋希乃に語りかけた。


「…この館は本来なら貴女のような子供が居て良い場所ではない…それは貴女も分かっているでしょう?」

「──はい」


その問いに、秋希乃は少し間を置いてから肯定した。

──この館は、とても分かりやすく奇妙である。

窓という窓には板のようなものが釘で貼り付けられて、昼間でも一切の光が入り込まないようになっている。
姉の部屋でも、重厚で高級感溢れるカーテンをめくって見えたのがそれであったため、その徹底振りは凄まじい。
そして、拭き取ってあるのだろうが、壁や天井に点々と何かが飛び散った跡がそこら中に存在する。
死臭がしないだけマシなホラーハウスである。

しかしそれは、館の主人であるDIOと出会ったあの時から分かりきった事だった。
むしろ想像よりマシだったと秋希乃は思っていた。


「ですので、なるべくシオバナ…ああ、貴女もシオバナでしたね…ええと、あの姉と供に居る事をお勧めします。彼女の事は皆知っていますので」

「そうなのですね…分かりました。
あ、でも、街にお出掛けする際はどうすれば良いでしょうか?」

「…言ったそばから貴女は…やはり行動力があり過ぎるようだ」


テレンスは心底呆れた様子で溜息を吐き、脱力したように椅子の背もたれに深く腰掛けた。


「出掛ける前に私に一声かけてください。それで良いです」

「分かりました」

「あまり目立った行動はしないようにしてくださいね」

「はい、勿論です。皆さんにご迷惑をおかけしないよう努めます」

「そうですか…」

「はい!」


子供らしく元気良く返事をする秋希乃に、テレンスの顔は本当に分かっているのか?と言わんばかりの複雑な表情になった。


「改めてよろしくお願いしますね、テレンスさん」

「ええ、こちらこそ」


そして、秋希乃のエジプトホームステイ生活は始まったのだった。

















「テレンスさんはおいくつですか?」

「16です。あと数週間経てば17歳になりますよ」

「えっ」

「…何故驚くんです?」

「いえ、あの、姉と同じくらいのお年だと勝手に思っていたので…」


テレンス・T・ダービーは、未成年である。
丁寧ぶった喋り方と欧米人らしく彫りの深い顔から老けて見えるが、まだ16歳の青少年である。


「あのビッ…シオバナと同じとは心外ですね…アレは何歳でしたか?」

「姉は21歳です。わたしとはちょうど10歳離れているので、テレンスさんもそのくらいお兄さんなのかなと思っていました」

「はあ…日本人の見分け方はよく分かりませんね」


シオバナ姉は、その内面はともかく外見だけで言うと熟した大人の色気があり、彼女を自分の兄と同じくらいの年齢、つまり26歳くらいだと思っていたテレンスは微妙な表情になった。
一方のシオバナ妹、アキノの方は姉の10歳下という事で11歳だと判明したのだが、こちらはやはりテレンスにはエレメンタリースクールに入学したての幼児にしか見えない。
主人であるDIOがアキノを連れ帰った時は、シオバナの子供だと思った程である。やはりアジア人の見分けは難しいと、テレンスは思った。


「そうなんですね。わたしも欧米の方々を見分けるのは難しいです…。
あ、ということは、テレンスさんも今冬休み中ですか?」

「いえ、この間大学を卒業したのでもう学生ではありませんね」

「えっ」


生まれ持った“才能”と優れた頭脳があったテレンスは、歳の離れた兄の影響もありジュニアハイスクール時代で既にハイスクール、カレッジで学ぶべき事をほぼ理解していた秀才だった。
そして、凡庸な学生生活に飽き飽きしていたテレンスは13歳で大学に入学した。

アメリカの著名な私立大学への入学には、「高校卒業と同程度の学力を有していること」が重要なので、必ずしも高校を卒業しなくても良かったりする。
高校四年分の知識を身につけ、その学力が認められれば進学出来るのである。


「飛び級と言うんですよね?すごいです!」

「アメリカでは割と普通ですよ」

「そうなのですか?」


高校に通いながらも、学ぶ事が無くなればそのまま大学へ授業を受けに行く事も認められている。大学一年生分の知識を高校の間に身につけて大学二年生から入学、という方法を取る者も存在する。
頭さえ良ければ、多種多様な進学方法が存在するのだ。


「わたし、将来は海外に留学をしたいと思っているので、アメリカの学校についてはとても気になります。
またお話しを聞かせてもらっても良いですか?」

「まあ…今のような時ならいつでも」

「本当ですか?ありがとうございます」


──などと、ここ最近は全くと言っていい程行っていなかった身の上話をしながら、テレンスは内心やや戸惑っていた。
自分の腰辺りの低い位置から見上げて、嬉嬉しそうに笑う少女に。

アキノ・シオバナが館に滞在するようになって早三日。
屋敷の掃除と食事の準備をするテレンスを、アキノが手伝うようになっていた。
初めは客である彼女にそんな事はさせられないと断ったが、シオバナ姉が「一日中くっつかれて面倒だからアンタに貸すわ」などと言って突き出してきたため、今に至る。
そして自然と話す機会が増えたため、テレンスとアキノはそこそこ会話を交わす関係となっている。


「沸騰しています!」

「ああ、危ない、私がやりますよ」


この館に住まう者で家事を行うのはテレンスだけだ。埃も蜘蛛の巣も、他の住人は気にしないため誰一人として掃除をしない。
供にDIOに仕えるようになった筈の兄は館には留まらずに、ギャンブルをしにその辺を放浪しているため、仕方なくテレンスがその役割を買って出るしかなかった。
食事に関してもそうだった。館の主人の食事は作る必要が無く、他の住人は街で買ってきた物を適当に食べている。
しかし、毎日三食外食というのに嫌気がさしたテレンスが自炊するようになったのだ。


「テレンスさんの作ったスープおいしいので、すごく好きです」

「…そうですか。そう言って頂けると作った甲斐がありますね」


そして、数ヶ月前から住み着きだしたシオバナ姉に料理を作るようDIOに命じられたテレンスは、彼女の分まで作るはめになっていた。
だがあのシオバナは作った料理にほぼ毎回ケチを付けてきたため、元々反りが合わなかったテレンスと彼女の関係は悪化の一途を辿った。
主人の女でなければ魂を抜いているところである。


「では、すみませんテレンスさん、暖かいうちに運びたいので失礼しますね」

「ああ、はい」


大きめのサービスワゴンに二人分の食事を乗せ、小さな身体でころころと押していく少女のその姿は、この三日で見慣れてしまった。
本当にあの憎っくきシオバナ姉とは似ても似つかない。唯一似ているとすれば、初めて街で出会った時から目についていた、ふわふわとした黒髪くらいであろう。


「それ以外はまるで似ていないが…」


その姿を見送り、席に着いて一人で食事をしながら、テレンスは思案する。
利発な幼女。
それがテレンスのアキノに対する最初の印象だった。交わった視線を逸らさず、微笑み、挨拶をする。相手を不快にさせないコミュニケーションの取り方だった。
大人びた、子供らしくない子供なのかと思いきや、その言動と仕草は愛くるしさを感じさせるものだった。


「(だからこそ、何故だったのか)」


基本的に、テレンスの道徳心は欠落している。寧ろ人の魂を弄ぶのが好きな外道である事は自分自身で承知しており、兄も同類の人間だと知っている。
平穏に育ったお嬢様、ましてや子供に興味を抱く事など本来ならあり得ない。初対面の幼女に手を差し伸べるなど論外だ。
にも拘らず、あの時アキノがアキノに手助けを願い出たのは、小さな興味からだ。


『両親はいません。エジプトには一人で来ました』


あの時の、物怖じせず、真っ直ぐと此方を見る眼差し。
小さな黒の瞳の奥から感じたのは、子供特有の根拠のない自信や甘えや期待ではなかった。
その幼い見た目に似つかわしく無い凪いだ瞳を持つ少女、が、何故──異国の地に保護者及び同伴者無し宿無しのバックパッカーもどきであったのか。


「訳が分かりませんね…」


賢い子供であろうに、無茶で無謀な振る舞いがちぐはぐで、違和感があり過ぎた。
その矛盾もあって、テレンスはアキノを気にしていた。
DIOの配下の中でも粗忽な者が彼女を痛め付けるのではないかと心配するくらいには、気にかけてもいた。


「(“問いかけて”みるか…)」


あまりにもこの館にそぐわない存在。
今アキノが生かされているのは、シオバナの妹だからという理由に過ぎないのか。
そういえば、彼女を館へ招き入れたときの主人がご機嫌だったのは何故なのか。
もしや自分達と同じような“特別な力”を持っているのか。


「今度ゲームにでも誘いますか」


そう呟き、また食器を片付けに戻ってくるであろう彼女を待つテレンスの顔は、実の兄が見れば驚く程珍しい表情となっていたが、本人は気づいていない。





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