novel | ナノ



白い魚がいた。
ふよふよ、ゆらゆらと揺らめいている。それが視界に入る度、リンダは首を傾げていた。
何しろその魚が漂う場所は水族館の巨大な水槽ではなく、自宅の金魚鉢でもなく、そもそも水中ですらないのだから。

その存在は、明らかに奇妙だった。
音も無くただその場に舞い、重力を無視しているだけではなく、触れず、他の人間には見えもしない。
友人、両親にも認知される事は無く、波紋使いである伯父になら見えるのではないかと期待して目の前に漂わせた事もあるが、結果は同じだった。


「おさかなさん…じゃないの…?」


初めはメダカ程の大きさだった。しかしそのサイズは年々変化し、今や大きめの鯉程にまで成長している。
どのような切っ掛けでそれが現れるのか、全く分からない。
勝手に現れ、勝手に消え、こちらの問い掛けにもフイと尾ビレを翻す姿に溜め息を吐くのが常だった。
そんなある日の事だった。










「…うぅ…っ」

「い、いたいの?だいじょうぶ?」


うずくまり、少年が痛みを堪えていた。
オロオロと周囲を見渡したが、一緒に来ていた両親達がその時偶々近くに居らず、リンダは焦った。
転んだ際に膝を打ち付けてしまった彼の肌は青くなり、少し切れて血が滲んでいる。
リンダにとって特別な男の子である彼のエメラルドグリーンの瞳から、宝石のように涙が溢れ落ちている。それを止めたかった。


「じっとしててね」


そしてリンダは深く深呼吸し、息を整え、伯父から習ったばかりの波紋を使った。
彼の膝の直ぐ側に、ぴ、と指を当てる。
特殊な呼吸法で体内で練り上げたエネルギーを、一点集中して流し込んだ。


「…あれ?いたくない…」


痛みをなくす波紋は、どうやら成功したようだった。
感謝の言葉を述べて、彼が天使のように微笑む。しかし、痛々しい傷口を見て再び目を潤ませた。
ぐっと唇を噛み締めて、涙を誤魔化すようにごしごしと目元を擦る。
その様子がいたたまれず、更に何とかしたい、そう強く思った時だった。
目の前にぽんっと現れた魚。驚く間も無く、ソレが彼の膝にキスをした。


「わ、なおった!りんちゃんすごい」


彼が喜び、異常がなくなった事を確かめるためにぴょんぴょんと飛び跳ねる姿をみて、安堵する。
そしてリンダは俯いて、身体のとある部位を確認し、ふうと息を吐いた。
今しがた起こった現象を、確りと理解した。


「二人共早く戻らんと日が暮れるぞ〜」

「あ、おじいちゃんだ」


そこへ伯父ーージョセフ・ジョースターが声をかけてきた。
近頃白髪が目立ってきた彼だが、その年齢を感じさせない程に逞しい肉体を持ち、快活に笑ってこちらに向かってくる。
もうすぐ60代になる彼はリンダにとって伯父であり、隣の少年にとっては祖父でもある。
ぱっと顔を輝かせてパタパタと駆けていくその元気な後ろ姿を見て、リンダはゆっくりと立ち上がった。


「すごいじゃあないかリンダ!
良かったな承太郎〜だが、もう怪我をしないよう気をつけるんだよ」

「はぁい」


ジョセフに抱き上げられ、きゃあきゃあと喜ぶ承太郎の膝小僧は、まるでそこに最初から傷がなかったように綺麗だった。


決定的な事が起こったのは、それから数年後の事だった。











「交通事故…?」

「ああ…今から病院に向かうから、荷物を取ってきなさい」

「う、うん…」


その日、リンダの母であるリーシャが事故にあった。
病院に運び込まれたと報せてくれたのは、仕事で遠出していた父ではなく、学校の近くを通りかかったジョセフだった。
病院へと向かう車の中は沈黙で包まれ、いつも陽気な言葉で周りを和ませる彼の口も固く閉ざされていた。


向かった先は、スピードワゴン財団系列の病院。
アメリカの中でもトップクラスの医師と医療設備が整っている場所の一つだ。
しかし、ジョセフ達がその場へ駆けつけた時には既に、医師達の懸命の治療の甲斐無く、リーシャの心臓は止まっていた。


「良いから中に入らせろッ!」


スピードワゴン財団とは、故ロバート・E・O・スピードワゴン氏により、ジョースターの一族を手助けするという意思のもと作られた機関である。
ジョセフ・ジョースターの存在と波紋に関する事は各財団員に情報が行き渡っていた。
特に医療機関にその影響は強く、本来なら一般人がオペ室に立ち入る事は認められていないが、二人の入室は特別に許可された。

しかし、危篤状態となったリーシャに対して、元々波紋での治癒が得意ではなかったジョセフに出来た事は殆ど無かった。
誰もが諦めるしかないとそう思ったその時、母のあまりに酷い有り様に震え、立ち竦んでいた筈のリンダが声を上げた。


「わたしが、なんとかする…!」


打ち拉がれるジョセフを押し退け、リンダが血塗れのリーシャの手を握る。その直後


「ーーー?!」


光が溢れ、皆が目を覆った。


「ーーい、いったい何が…」


驚き、瞑っていた瞳を開けたジョセフの目に飛び込んできたのは、見るも無惨だったリーシャの身体が美しい肢体を取り戻している事。そして


「リンダ…?」


床に倒れ伏し、血の海に沈むリンダの身体だった。


「何と言う事だ…!は、はやく、早くリンダを…!」


ぐったりとしたリンダを抱き起こし、その有り様を目にしたジョセフ、またその場に居た者は皆驚愕した。
たった今交通事故にでもあったかのように、四肢が裂けて、夥しい量の血が広がっている。
いったい何が起こったのか。
訳が分からないまま、別のオペ室にリンダの身体を運び、緊急の手術が行われた。






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