ifの世界 7 互いが互いの知らないところで自身の気持ちを自覚してから数週間。なかなか二人が顔を合わせる機会はなかった。いや、有難いことに仕事で忙しいおかげで、そもそも顔を合わせた回数が特別多いというわけでもない。互いの職場に行ったことが数回、外で会ったのは……初めて出会ったときと、一度きりのデートだけ。 よく考えてみれば、特別なことなど何もない。それなのにどうしてかしら、と妙は首を捻る。言葉にしたが最後。もうはっきりと、自分の意識の中にある。――それでもやっぱり、彼は特別なのだと。 会いたいかと聞かれたら、よくはわからなかった。特別なのは確かだが、甘く焦がれるような、ふわふわした感覚はない。恋……とは、違うような気がした。近藤に告げたときは深く考えて紡いだわけではないが、やはり特別という言葉がしっくりとくる気がする。何が、かはわからないけれど。それに、どんな顔をして会えばいいのかもわからない。何事もなかったかのように、上手く振舞えるだろうかと考えてしまっている時点で、上手い演技などできそうにもない。薄っぺらい笑顔は、簡単に見破られてしまうから。 そんな妙の憂いを余所に、再会はあっさりと訪れた。降りしきる雨の中、すまいるの裏口にその男は立っていた。傘もささず、壁に寄りかかるようにして俯く姿は別人のようで、その目立つ髪がなければ気付かなかったかもしれないと思うほどに。 「何してるんですか、こんなところで!」 「おー、やっと出てきたか」 心配したのも束の間。男は顔を上げると、けろりとした口調で遅ェよと呟く。聞けば、単に傘がなかっただけらしい。コンビニにでも買いに行けばいいものを、すぐに妙が出てくるような気がしてずっとそこに張っていたという。もしくは、雨が止むのが先だと思ったと。 「バカですね」 「待っててやったのにそれは酷いんじゃねーの?」 「誰も待っててほしいなんて頼んでません。勝手に待つならこっちに心配をかけないようにしてください」 そう言うと、妙は金時の方へと傘を傾けた。決して大きくはない女物のそれは、既にびしょ濡れになっている男には意味がないかもしれない。 「ちょっとだけ持っててくださる? ハンカチ出しますから」 「いいよ、ハンカチなんかじゃどうにもなんねェだろ」 「何もしないよりはきっとマシです」 花柄のそれを取り出すと、妙は男の頬へとそれを伸ばした。スーツの水を吸い取るのは難しいが、肌に直接付着している水気がなくなるだけでも、少しは煩わしさが減るはずだ。頬や額、首筋にそれを当てていると、傘がこちら側に傾けられていることに気付く。 (いいのに……) しかしそれを口にすることは男のプライドに関わる気がして、気付かないふりをした。 「……あのさ、話したいことあんだけど……」 「後で聞きます。その濡れた身体をどうにかする方が先です」 なんだろう、と気になりつつも、妙はきっぱりと告げた。 「……初めて会ったときと逆ですね」 ふとそんなことを思い出して、自嘲めいた笑みが浮かんだ。 妙に連れて来られたのは、ちょっとした屋敷くらいの大きさの家だった。大きさとしては立派だが、酷く閑散としており、生活感はほとんどないと言ってもいい。帰る場所ねェっつってたくせに、と思うが、こんな場所だからこそ帰りたくないのかもしれない。 ちょっと待ってて下さいと言うと、妙はすぐに大きなバスタオルを持ってきた。それを金時に被せると、優しい手つきで濡れた髪を拭いていく。使って下さい、と案内された風呂場には、きちんと着替えまで置かれていた。 その言葉に甘えて風呂を借り、温まったところで居間らしき部屋へと向かう。そこですら生活感はなく、片付いているというよりはほとんど使われていないという印象だった。 「この家、父が遺してくれたものの一つなんです」 妙は台所にいた。お茶を煎れながら、背中を向けたままで呟く。 「数年前までは、弟と二人でここに住んでいました。けれど、私が今の仕事を始めることに猛反対して……。きっと、呆れたんでしょうね。何度か喧嘩したあと、弟はそのまま出て行きました」 妙の声はしっかりとしていて、弱さの欠片も見せない。それがなんだか痛々しくて、金時は眉を顰めた。その背中から目が離せない。けれど妙はそれ以上語ることなく、湯を沸かす音だけが広々とした家に響いていた。 居心地の悪さに、ぐるりと部屋の中を見渡す。目についたのは、小さな写真立て。伏せられていたそれには、小さな姉妹と、父親らしき男が写っていた。きっと、どこにでもある家族の形。しかし彼女にとっては、伏せておきたいものなのだ。 「貴方と初めて会ったのが、ちょうど父の命日なんです」 盆を手に現れた妙は、金時が写真を見ていることを咎める様子もなく、淡々と事実ばかりを告げていく。湯のみは小さく音を立てて、そこに置かれた。少し考えてから、妙は金時の横に並ぶ。久しぶりにちゃんと見たわ、と目を細めた。 「その日だけは、弟も戻ってくるんじゃないかって期待しちゃうんですよね」 期待を裏切られることは、予想以上の苦しみだった。だから、もう期待しない。期待しないようにと心を閉ざして、自分の心を欺く。楽なことではないが、裏切られるよりはマシなのだろう。 「……妙」 救いたいと……護りたいと、思う。それはとても傲慢で、自分勝手で、自惚れていると感じられた。それでも、自然と口が開く。 「新八は、呆れてなんざねェよ」 柄にもなく緊張した声は掠れ……そして、妙の瞳に初めて動揺の色が浮かんだ。 「……なん、で……」 「呆れてるとしたら、自分自身に対してだ。ねーちゃんに護られてばっかの自分にな」 「キン、さん……」 「おまえの名前知って、もしかして……って思ってな。あんな別れ方して会わせる顔がないからって、おまえが来るときはわざと席外してたみたいだけど」 「……っ」 「うちで、ちゃーんと働いてるぜ」 ふらついた妙の身体を、金時は慌てて抱きとめる。震える唇が、しんちゃん……と紡いだ。金時のこの距離ですらギリギリ聞こえる程の、消え入りそうな声で。 「……いき、て……」 「……ああ。大丈夫だ、元気でやってる」 あのバカ、もしかして一切連絡入れてなかったのか? と、一人苦虫を噛み潰したような顔になる。もしかしたら、妙は新八の生存さえ確認できていなかったのかもしれない。いや、おそらくそうなのだろう。だったら、もう少し早く教えてやるべきだった。弟は、父親のようにいなくなってしまったわけではないのだと。まだ、一人残されたわけではないのだと。 「……会いたいか?」 愚問だと思いつつもわざわざ尋ねたのは、はっきりとその言葉を口にさせるため。妙は、まだ上手く力を入れられない身体を金時に支えてもらいながら、けれどその腕に縋るように指先に力を込める。 「会いたい……っ」 まっすぐな瞳から溢れた涙が、一筋頬を伝う。満足した金時は、今まで見せたことのないような優しい笑みを浮かべて黒髪を撫でた。 →back |