ifの世界 5 その日、仕事を終えて裏口から出た妙の前に、男は現れた。じっと立ち尽くす男の顔はよく見えないけれど、たしかにこちらを真っすぐ見据えている。彼の狙いは、妙だ。男に敵意がないのを感じて、けれど警戒したまま近付いていく。 「……、近藤さん……?」 どうしたんです?と尋ねる前に、きっと彼の耳にも入ったのであろうことを悟った。 彼は、熱心な男だ。妙の元へと通い詰め、アタックを繰り返してはことごとく振られている。その様子が店の一つの名物になるのではないかというくらい、根気強いというかなんというか。 「少しだけ、話がしたいんです」 その彼に、きっと、先日の件が知られてしまったのだろう。噂はどこからバレてもおかしくない。常連客ともなればなおさらだ。 「……なんでしょう?」 いつもの笑顔を浮かべながら、とぼける。何がきっかけだったのかはわからないが、彼は妙の熱心なファンだ。そして、おそらくそれ以上の――もっと恋に近い感情を抱いている。さて、どう出たものか。 しばらく躊躇ったあと、近藤は「あいつと……」と、重い口を開く。 「坂田金時という男と、デートしたと聞きました」 「……」 その名がキンのものであると気付くのに、少しだけ時間がかかった。そうか、私は彼の本名さえ知らなかったのか。 「妙さんは皆に平等だ。誰とも勤務時間外の関係は持たない。その凛とした態度は、貴方の魅力の一つです」 男は苦しそうに顔を歪めた。 「……特別、なんですか」 惚れている、という言葉を遣わなかったのは、彼自身の保身であったのかもしれない。けれどかえって、その言葉はすとんと妙の胸に落ちた。そうだ、彼は特別なのだ。この感情を言葉にすることは難しくても、特別であることだけは確かで。時間が止まってしまったかのような長い沈黙に、耐えきれずに返事をした。 「……そうね」 短い答えに、はっきりと傷ついた表情を浮かべる。 「こういうときに、相手の悪口を言うのは男として情けない。けれど、それを承知で言わせてください。あの男はホストで、女性の喜ばせ方を知っているやつだ。だから……っ」 騙されているとは言わない。けれど、それに傷つく貴方は見たくない。 悔しそうに拳を握りしめる近藤。彼の真摯な態度に、一瞬だけ怯んだ。彼は、妙を問いつめるために待ち伏せていたのではない。あくまでも、妙の幸せだけを願っているのだ。 (どうして……) いつだって、彼はまっすぐ自分と向き合っている。だからこそ普段はうんざりさせられているというのに、こういうときの効果は絶大だ。 (この人も、ずるい……) 自分でもわかってて言うなんて、なんてずるい人。……けれど、だからこそ、こちらもきちんと応えなければならないと思った。 「ありがとう。……でもね、私はホストの彼に出会ったんじゃないの。ただの坂田金時よ。その人が、たまたまホストだっただけ。その偽物の愛に魅せられたんじゃなくて……彼が特別なのは、もっと別の部分なの」 名前も知らなかったけど、という自嘲は心の中に留めておく。もし出会ったのがただのホストのキンだったら、ここまで深く踏み入りたいとは思わなかった。瞳の奥にある優しさにも気付かずにいただろう。どちらの方が幸せかなんて、まだわからない。けれど、引くに引けない所までは来てしまったのだ。 「お願い……わかって、近藤さん。もし仮に、彼の態度がホストとしての偽物の愛だったとしても、私がそこに魅せられてしまったのだとしても、私は本気なの。……その気持ちは、あなたが一番わかるはずでしょう?」 「……だったら、なおさら引けないじゃないですか……」 「いいえ……私は、あなたが私の幸せを一番に望んでくれているのを知っているから、言ったのよ」 ずるいでしょう? 酷いでしょう? この言葉が、あなただけでなく私自身をも傷つけているとわかって言っているのだから。あなたが手を引いてくれる優しさのある人だとわかって言っているのだから。 「……さすがです、妙さん。だからこそ、俺は貴方に惚れたんです」 でも、諦めたりしません。忘れたりしませんから。 それだけ告げると、近藤はくるりと背を向けて立ち去った。足音が遠ざかると、辺りは再び静寂に包まれる。この街の夜は長く、まだまだ音がしてもおかしくはない時間のはずなのに、やけに静まり返っている気がして、落ち着かなかった。 これでよかったのだ。彼は店に来なくなるかもしれない。いや、彼のことだから何事もなかったかのように現れるかもしれない。わからないけれど、これでよかったのだろう。 それ以上に、金髪の男への感情が渦巻いて、頬に一筋の涙が伝った。ようやく自分の気持ちがはっきりしてきたのに、それ以上に相手のことがわからなくて、心の中は混乱するばかりだ。 →back |