5年生の新学期の教室、騒がしい生徒たちの中で突然に先生が言った言葉。 『本田ガ、オ父サンノ都合デ福岡ニ転校シタ。』 そう、聞こえたような気がした。 ■How? ホームルームが終わってクラスの女の子達が私のまわりに集まってくる。 「本田君の事、びっくりしたよ。薫ちゃんは知ってたんでしょ?」 「…あ…あたし…知らない…」 「えっ、嘘!あんなに仲良かったのに!?」 「本田君ひどーい。薄情だね。誰にも言わずにいなくなっちゃうなんて。」 “ヒドイ”? “ハクジョウ”? “イナクナッタ”? 先生や同級生の声の音は聞こえても、その言葉の意味するところを理解することができない。 ふと目線が自然と左隣に移り、そこには空になった机が置いてあるのが見える。 これは、本田の席だ。 疑問符だけが頭の中を渦のようにかけめぐった。 (…なんで、本田はここにいないんだろう…) 囲まれるクラスメイト達からの問いかけに何かを言わなきゃとは思うのに、あたしは声をなくしたように言葉を発することができなかった。 ただ喉の奥が痛くて熱くて、目の前の景色がぐらぐらする。 「清水さん!」 大声で呼ばれた方に目を向けるとそこには小森がいた。 「…先生が、呼んでるよ。」 その呼び掛けには正直ホッとした。騒がしい同級生たちから離れて廊下の方へと向かい、 そのまま連れ立って歩きながら教室を出たところで小森に尋ねた。 「小森、先生が何の用だって?」 「…ごめん、嘘。」 小森はすまなさそうに、いたわるような声で答えた。 「あの中にいるの、辛そうだったから…」 そんなことを言う小森も決してひとのことは言えないほどに辛そうな面持ちをしていて、たぶんさっきの自分は同じような顔をしていたんだろうと気づいた。確かに友達がそんな顔をしているのを見ているのはとても辛い。 あたしはただ一言だけを伝えることしかできなかった。 「サンキュな…小森。」 ************************ 今日はいったい学校が終わって家までどうやって帰ってきたんだろう? 気づけばすでに自分の部屋の前に立っている。 部屋に入ると机に置いた自分のグローブがすぐに目に入った。 それに手を触れると自然に思い出される、初めて外野フライを取れた日のこと。 “ お前がいなくなったら、オレだって野球つまんなくなるじゃん。 ” 大好きなあいつがくれた、宝物の様な言葉だ。 別に好きだなんて言われた訳じゃない。 でも、本田にそんなことを言ってもらえるなんて、涙が出るくらい嬉しかったんだ。 嬉しすぎて、きっとこのまま空だって飛べるとさえ思えたんだ。 “ 運動音痴なんか、オレがいっしょに退治してやるよ。 ” また、あの時のあいつの優しい声が聞こえる。 本田の投げる球はなんとか取れるようになったけど、あたしはまだまだ、下手くそなままなのに。 「…本田の、ウソツキ…」 呟いた瞬間に今までこらえてきた涙がこぼれてきて、ベッドの枕に突っ伏してそのままあたしは泣き崩れてしまう。 本田への想いが溢れてきて、今まで何も伝えなかった後悔ばかりが募った。 (どうして。どうして、言わせてくれなかったの?) ドアの向こうでは、お母さんが心配そうにあたしを呼ぶ声がする。 まるで赤ん坊みたいに大声で泣いているお姉ちゃんだなって、大河もきっと気づいているかもしれない。 でも、どうしても涙は止まらなかった。 (本田、本田、本田。) どんなに呼びかけても、もう届かない。 いつまでもずっと一緒にいれると信じてたのに、あいつはいない。 何にも言わずに、誰にも知らせずに、いつの間にか、遠くに行っちゃったんだ。 **************************** 学校は新学期特有の新鮮な空気に包まれていたが、教室で話し込む2人の少年の表情は未だに曇ったままだった。 小森は座る人のいなくなった机を哀しげに見つめ、沢村は憮然とした態度でそこから顔をそむけるように頬杖をついている。 「…本田君がいないなんて…やっぱり、まだ信じられないし、信じたくないよ…」 「なんで…俺らにまで言わねえで、行っちまうんだよ…あの大馬鹿野郎っ…」 「昨日は練習来なかったけど…清水さん、今度は本当に野球を…」 「………」 「おはよう!小森、沢村!」 その重い空気を破るかのように教室のドアが開いて薫の大きな声が響きわたった。 声をかけた表情は笑顔ではあったものの明らかに目が赤いのがわかって、その様子に胸がつまった小森は思わず薫に詰め寄ろうとした。 このまま彼女が野球をやめてしまうのではないかと思ったのだ。 「清水さん!あの、もしかして…!」 「あのさ。」 それを遮るように告げたのは決意を込めた言葉だった。 「あたしこれから、野球うまくなる!絶対うまくなってみせるから!」 強がるようにも見えたが、それでも前を向こうとしている薫の姿とその言葉に小森と沢村は顔を見合わせる。 そしてお互いに頷くようにして少し笑った。 確かにこのままずっと落ち込んでばかりはいられない。 野球少年にとって待ち遠しかった春がやっと来たのだ。 そして自分たち三人の誰もがその種目を心から楽しいと思えるようになったきっかけは、ちょうど今から1年前であるこの季節がすべての始まりだった。 そんなかけがえのない気持ちを教えてくれた人物は、もうここにはいないけれど。 でも、それならばこそ。 野球が上達することやチームがもっと強くなることで、目には見えない何かがきっと遠くにいる誰かにも届くような、そんな気がしたのだった。 「…そうだな。よし、やるか清水、小森!」 「うん、頑張ろうよ!」 「おー!」 *************************** そうだ。あたしは、本田が泣いて悔しがるくらいうまくなってみせる。 あいつがいなくても野球はやめない。 そして絶対にあいつを許さない。忘れてなんかやらない。 また会えたとしても、ぶん殴って一生口をきかないでやるんだ。 …もしもいつか。 それが叶う日がくるのなら、と祈りながら…… 初書きSS。…のわりにこの報われなさはなんでしょう(笑) 吾郎が転校したからといっても薫には三船ドルフィンズをやめてほしくなかったので、でこんな話を描きました。 運動音痴だった薫が、中学ではソフト部キャプテンになるほどの腕前になったのは本人の努力の賜物でしかないですが、その原動力は吾郎に対する意地だったんだと思います。 健気で不器用でがむしゃらな薫が好きっ。 転校した吾郎の視点はコチラから。 |