とろりとした日差しが暖かな昼過ぎの事、薬種問屋長崎屋の店表に、今日は珍しく体調の良い一太郎が帳場に座っていた。
八千重はそんな一太郎の様子を気にしながらも、客に頼まれた薬を調合している。
そんな折に、大声を後ろに靡かせる勢いで日限の親分清七の下っぴきの正吾が飛び込んで来た。

「大変だ。栄吉さんの作った菓子を食べた隠居が死んだ」

息を切らし、畳の端に這いつくばった格好の正吾の側に、一太郎が走り寄る。

「どういうこと? 餅が喉に詰まったの?」

八千重も待っていた客に出来上がった薬を渡し、店表へと見送り終えると一太郎と正吾の元へ走り寄る。

「栄吉さんがどうしたって?」

栄吉は、長崎屋の隣にある表長屋の店、菓子屋三春屋ね跡取り息子であり、むつきも取れない内からの一太郎の幼馴染みである。
病弱な一太郎の数少ない友の一人であり、そしてまた数少ない友の内の一人である八千重も、栄吉とは一太郎繋がりで仲が良い。
それを知っている日限の親分が、顔馴染みのよしみで知らせを寄越してくれたらしい。

「あの……隠居が食べたのは茶饅頭でして。栄吉さんは、先程番屋に連れて行かれました」

正吾は何やら奥歯につっかえているような話し方をする。
栄吉が拵えたものが饅頭だったと聞いて、店にいた奉公人達は黙り込み、ちらちらと意味あり気な視線をかわしていた。
一太郎が幼友達の作った菓子を小忠実に買うものだから、薬種問屋の面々は、平素からお裾分けにあずかっている。
皆、栄吉の菓子の味わいを得心していた。
それ故に、喉元に込み上げてくる、言うに言えない言葉があるのだ。
そんな奉公人と正吾の様子に、やはり栄吉の菓子の味わいを得心している八千重は、苦笑いを溢す。

(そりゃぁ言えないよね)

長崎屋の跡取りの一太郎の幼友達の腕の批評など、奉公人達に言える筈がない。
かと言って、八千重自身も、栄吉が頑張っているのは知っているし、一太郎がそれを応援しているのも知っている。
勿論八千重も栄吉を応援する気持ちは一太郎に負けない位あるわけで、やはり口には出せない。
だが、そんなことを露ともせず、口に出せる者が薬種問屋に一人いた。
表の声が聞こえたのか、奥から生薬の入った袋を抱えた手代の仁吉が姿を見せる。
そして、正吾に目をやると、皆の腹の内を代弁するかのようにぺろりと洩らした。

「なんだい、栄吉さんの作った菓子があんまり不味かったものだから、ご老人、吃驚仰天して心の臓が止まってしまったのかね」
「に、仁吉さん!」
「仁吉! なんてこと言うんだい」

八千重と一太郎がすぐに大きな声で窘める。
だが、一太郎の育ての親ともいえる手代は、平気な顔だ。
人が遠慮と同情ではっきりとは言わないことを口に出してしまう仁吉は、本性が妖故か、同じ手代の佐助もそうなのだが、気にした素振りすらない。
妖と人との感覚の違いは、時として一太郎と八千重の頭を抱えさせる。

「お前ね、いくら栄吉が餡子を作るのが苦手だからって、美味しくない饅頭位で人が殺せる筈ないだろう?」

一太郎の常識的な言葉を、仁吉は鼻息一つで吹き飛ばした。

「なに、栄吉さんの菓子の不味さは、半端なもんじゃぁありません。あれなら饅頭を作ったのが本物の菓子屋と聞いただけで、驚いてあの世に行けるかも知れない」
「……そこまで言うかい?」
「仁吉さん! 幾らなんでも言い過ぎです!」

あんまりな仁吉の言い種に、悔しくて言い返してやりたい一太郎だが、問題が栄吉の菓子作りの腕となると、すぐには庇う言葉が浮かんでこない。
それは八千重とて同じで、その間に仁吉が更に言い重ねた。

「ただの小豆からあんな味の餡を作れるなんて、ある意味凄いですよ」
「それは事実だけどね。だからって俺の作った菓子が、石見銀山鼠取り薬の代わりになる訳じゃぁないよ」

不意に、三人の話に声が割って入った。
通りの方に顔を向ければ、店先の日の下に日限の親分と栄吉の姿があった。
長崎屋の奉公人達がばつの悪そうな顔をして視線を剃らせる。

「栄吉さん!」
「栄吉!」

だが、話題にあがっていた友人の登場に八千重と一太郎はすっ飛んで行った。

「騒ぎに巻き込まれたんだって? 大丈夫かい?」
「栄吉さん、大丈夫? 顔色が悪いわ」

着物の藍地を顔に映したかのように蒼く強張っていた栄吉の顔が、少しほっとしたものに変わる。

「若だんな、話したい事があるんだが……奥へ通してもらっていいかい?」

日限の親分が珍しく自分からそう言い出すのを聞いて、仁吉が眉を片側だけ上げた。
事件の話になると踏んだ一太郎は、番頭に店を任せると、いつもの店奥の六畳ではなく、離れの一太郎の居間に二人を招き入れることにした。

「若だんな、栄吉さん、親分さん、あの…私もお話窺っても良ろしいでしょうか?」

怖ず怖ずと問う八千重に、一太郎はきょとりと首を傾げる。

「良いも何も、初からそのつもりだよ。仕事は大丈夫なんだろう? おいでよ」
「うん!」

八千重は嬉しそうに微笑み、栄吉達に続いて一太郎の居間に入った。
皆で達磨火鉢を囲むと、早速騒ぎのあらましを話し始める。

「死んだ隠居の名は九兵衛。松川町の一軒家に独り暮らしの小金持ちでね」

仁吉が四人の前に茶と菓子鉢を持ってくる。
たっぷりと木鉢に盛られているのは、美味だと評判の菓子処金沢丹後の薯蕷饅頭だった。
それを見た栄吉がなんとも複雑そうな顔をしたのを八千重は見て、眉を下げる。

「九兵衛は、八つ時の菓子に三春屋で茶饅頭を求めたらしいんですがね、そいつを隠居所で食べている最中に急に苦しみだして、死んじまった」
「そんな状況で、栄吉さん、よく番屋から出て来られましたね」
「仁吉さん!」

一太郎と八千重の側に座り込んだ仁吉の、これまた遠慮のない言いように八千重は窘めるように名を呼び、日限の親分は苦笑を浮かべた。

「本当ならとてものこと、帰しては貰えないところだがね。栄吉さんは運が良かったんだよ」
「運?」

一太郎が親分の言葉に首を傾げる。

「八丁堀の旦那が隠居所を調べておいでのところに、九兵衛が飼っていた柴犬が現れたんだ。死んだ隠居が食べかけていた饅頭が半分、縁側に転がっていたんだが、その犬が食べちまって」
「…成程」
「犬は死ななかったんですね」

親分が言わんとすることを察した八千重と一太郎が言えば、親分は大きく頷く。
元気一杯な柴犬を見た八丁堀の旦那は、疑いの目を菓子だけではなく、他にも向けたというわけだ。

「九兵衛のところの女中おたねによると、隠居は最近、急に具合が悪くなる事が多かったそうな」
「急に具合が? どんな症状だとか、聞いていますか?」
「いや、そこまでは…。ただ、病で死んだのかもしれない、と医者が来て調べているよ」

八千重の問いに日限の親分は頭を振る。

「そうですか……あ、ではそのお医者様の名は分かりますか?」
「ああ、それなら確か―――…さー…さ、さきょ、とかなんとか…」
「もしや左京先生ですか?」
「そう! そのお人だ! お千重ちゃん知り合いかい?」

ポンと手を打つ日限の親分に、八千重は驚きながらも頷く。

「以前お話したことがあった、私が調剤した薬を卸させていただいているお医者様です」
「あー…そうか開次先生の………道理で聞き覚えがある名だと…」

そこまで言って、日限の親分がハッと何かに気付いたように肩を揺らし、ばつが悪そうに口を噤んだ。
左京は、火傷を負った開次が運ばれた診療所の医者で、開次の最期を看取った者でもある。
まだ開次が亡くなって日が浅い。
その場にいた皆が、心配そうな顔で八千重を窺う。
それに八千重は苦笑して、「大丈夫ですよ」と微笑みを浮かべた。

「――栄吉さんの疑いが早々に晴れてようございました。なのに、何で栄吉さんは浮かぬ顔なんです?」

話を戻した仁吉に問われて、栄吉は深い溜め息を洩らす。
その隣で、日限の親分が具合が悪そうに身動ぎした。

「隠居が死んだあと、俺が番屋に引っ張られたものだから、三春屋は大騒ぎになったのさ。不味い菓子が元で死人が出たなんて事になったら、菓子屋はやっていけないからね」
「え、でも…」
「その件はもう済んだんだろう?」

己の膝に視線を落としている栄吉に、八千重は眉を下げ、一太郎も気遣わし気な顔を向ける。
一太郎の問いに、日限の親分が歯切れの悪い口調で答えた。

「まだ事の決着がついていないんでさ。犬のおかげで栄吉さんはとりあえずは番屋から出られたが……。下手人が捕まるなり、病名が分かるなりしないことには、どうにも」

八千重も一太郎も栄吉の様子に顔を歪める。

「今俺が店にいると間違いなく菓子が売れなくなる。一太郎、悪いが暫くの間、ここに居候させてはくれないか」
「私は構わないけど……」

一太郎の答えに、日限の親分がホッとした顔付きになった。

「犬の野郎、気を利かせてもう少し早く饅頭を食わねぇからいけない。そうすりゃ栄吉さんに、番屋に来てもらう事もなかったんですがね」

そう言うと、岡っ引きはそそくさと挨拶をして離れを出て行く。
珍しいことに日限の親分が出された菓子に手をつけなかったものだから、仁吉が菓子鉢程の大きさに目を丸くした。

「親分さん、河豚にでも中って今ものが食べられないんですかね」