「俺と一緒にいると落ち着かないのさ。三春屋には、知らせを聞いた親戚連中も来ているとか。店の評判をどうしてくれる、と責められては敵わない。逃げたのさね」

栄吉は苦笑いでそう言うが、八千重も一太郎も栄吉の事が心配だった。

(身の置き所がないのは親分さんより栄吉さんの方なのに……)
(栄吉の菓子作りの腕が悪いからこんなことになったのだと、また親戚中から嫌味を言われるだろうに……)

八千重はまだ栄吉との付き合いが浅いので、栄吉の親戚の者達の事はよく知らなかったが、一太郎には、この先の気を滅入らせる騒ぎが見えるようで栄吉の肩をポンポンと叩いた。

「とにかく、旦那様とおかみさんに言わなくちゃね、若だんな」
「うん。だけどお千重ちゃん、おっかさんにちゃんと名で呼んでおくれと言われているんだろう?」
「……あぁ、そうだった。つい、お店の癖で…」

八千重に促されて立ち上がった一太郎にからかうように言われて、八千重はしまったと口を手で抑える。
一時期、居候として長崎屋に厄介になっていた八千重は、その時は長崎屋主人夫婦を名で呼んでいた。
だが、長崎屋で薬師として働かせて貰うようになってから、それではいけないと呼び方を変えた。
だが、長崎屋主人夫婦はそれを残念がった。
二人にとって、八千重は謂わば娘のような存在になっていたため、寂しかったのだ。
だが長崎屋で働いている者として、八千重は譲らず、妥協案として一太郎が提案した“お店以外では以前のように呼ぶ”という事でお互い納得した経緯があった。
だが、八千重はたまに間違う。
その度に、たえに涙目で窘められるのだ。

八千重は、二親に了承を得て戻って来た一太郎の離れの六畳の一室に、栄吉のための夜具や火鉢等を運び込むのを手伝っていると、店表に来客だと呼ばれた。

「ごめん、私お店に戻るね」
「うん、こっちは大丈夫だから行っておいでよ」
「ありがとう若だんな。栄吉さん、またね」

ヒラリと笑顔で手を振って八千重は店に戻って行った。
その後ろ姿が見えなくなって、栄吉は一太郎を見て微笑む。

「相変わらず、お千重ちゃんは人気だね。流石長崎屋の看板娘だ」
「そうだね、お千重ちゃんの薬目当てのお客も多いんだよ」
「薬が目当てではない客人も多いですよ」

仁吉が栄吉用の蒲団を押入れにしまいながら言えば、栄吉は訳知り顔で頷き、一太郎は意味を飲み込むのに寸の間かかった。

「薬が目当てじゃぁないって事は、何が目当てで来るんだい?」
「そりゃぁお千重ちゃんが目当てに決まってるじゃぁないか」
「え?」

キョトンと瞬きを繰り返す一太郎に、栄吉が呆れたように顔を歪める。

「一太郎、お前知らないのかい?」
「知らないのかって、何を?」
「お千重ちゃん、かなりもてるよ。縁談の話だってかなり来ていると聞いたよ」
「え、縁談?」

一太郎は栄吉の言葉に目を丸くした。
そんな様子の幼馴染みに栄吉は苦笑いを溢す。

「…本当なのかい? 仁吉」

寝耳に水だといった風情で一太郎が薬種問屋で普段八千重と関わる頻度の高い手代に問えば、仁吉はパタンと押入れの襖を閉めて頷く。

「本当ですよ。ここ最近は毎日のようにお店に縁談を申込む文が届いています」
「まるでおかみさんの時のようだと旦那様は頭を悩ませているようです」

佐助が補足するように言えば、一太郎はポカンと開いた口が塞がらない。

「じゃぁ何かい、知らないのは私だけだってことかい?」
「いいえ。お千重さんも知りませんよ」
「「えぇ!?」」

佐助の言葉に、一太郎だけではなく栄吉も驚いて目を瞠った。

「お千重ちゃんに来た縁談話を何で当の本人が知らないんだい?」
「旦那様とおかみさんが、うちの娘はまだやらんと全件断っているようです」
「…………………………おとっつぁん、おっかさん…」

仁吉にケロリと言われ、一太郎は自分の二親の姿が容易に想像出来てしまい、苦笑いを浮かべた。
栄吉は引き攣った顔で固まっている。

「それよりも、今は栄吉さんの事を何とかしないといけないのではないのですか?」
「ハッ、そうだよ。今は栄吉の事の解決が先だよ!」

一太郎が栄吉の方へ向き直れば、栄吉は疲れた様な顔で息を吐いた。
もっと詳しい事の次第を聞く一太郎に、知っている事は何とか答えたものの、「ごめん、一太郎。少し、疲れた……」と言うなり、仁吉がしまったばかりの蒲団を押入れから取り出し、早々に床についてしまった。
自分の寝間に戻った一太郎は、達磨火鉢の前に座り、眉を下げる。

「このままじゃ、栄吉は寝つきかねないよ。早く、この件の真相を見極めないと」

すると、その言霊が煮凝ったかのように、部屋の中にはいつの間にか沢山の影が現れていた。
部屋に湧いて出てきたのは馴染みの妖達で、一太郎を囲むようにして皆座り、亡くなった九兵衛について一太郎に問う。

「九兵衛は、小金を持っていて、今でこそ楽な隠居暮らしをしているが、元々は定火消に属する人足で、気の荒いので有名な臥煙らしいという話だ。日限の親分も、まだ詳しい所は分かっちゃぁいないようだよ。お前達、すまないが隠居の事を調べておくれでないか」

一太郎の言葉を聞くが早いか、手代を残して妖達の姿が部屋から消えた。
それを見た一太郎の口元に笑みが浮かぶ。
一太郎は体が弱く、寝ついてばかり。
医者の源信の懐をせっせと豊かにし、長崎屋お抱えの薬師の仕事を増やしている日々だ。
だが、知りたい事があった時は、夜の内に起こった事でも調べられる。
妖達が、一太郎の遠眼鏡になってくれるからだ。
人成らぬ面々の感覚が少々ずれているせいで、時々妙な具合に話が転がったりはするが。

「ところで若だんな。今日は少しもおやつを食べていませんね。また具合が悪いんですか?」

一人残った仁吉に、思いっきり心配気な調子で言われて、一太郎は慌てて饅頭に手を伸ばした。
これから幼馴染みの為に一仕事しようと考えているときに、蒲団に放り込まれては堪らない。

(饅頭って、餅みたいに喉に詰まる事もあるのかね)

一太郎は、試しに命を賭けて半分程呑み込んでみる。
だが、仁吉が淹れた茶を飲めば、甘味は簡単に喉を下っていき、噎せ込みもしなかった。

「やっぱりこいつで死ぬのは難しそうだね」

ふ、と息を吐き、一太郎は眉を寄せる。
そうとなれば、九兵衛が死んだ理由は他にあるのだ。
栄吉の為に、何としてでも事の真相を突き止めなくではいけない。
でなければ、菓子作りが好きなくせに、溜め息が出る程不器用な幼馴染みの将来は、益々苦しいものになるからだ。



暮れ六つ時。
妖の調べは意外に早くついたらしく、一太郎の食べる物が饅頭からもうじきに夕飯に変わるという辺りで、最初の姿が離れに戻って来た。

「若だんな、私が一番ですか? 一番ですよね?」

一等が大好きな鳴家が、いつもながらの恐ろしい顔で一太郎の顔面に迫ってくる。
一太郎は笑みを浮かべてその頭を撫でた。

「勿論だよ。早い調べだこと。で、何が分かったんだい?」

褒められた鳴家は小さな胸を思い切り反らし、達磨火鉢の脇にちょこんと座ると、仕入れてきたとっておきの話を告げる。

「元臥煙の九兵衛が一軒家で隠居と洒落こめた理由なんですが、富籤らしいんです」
「おやまあ、当たったの!」
「九兵衛は博打が好きだったんですが、富籤も欠かさなかったようで。湯島天神様で二朱で買ったのが、一等の百両に化けたんです。利口な事に、九兵衛は傍輩共にむしられる前に、金を茶屋に変えたんで」
「富籤の一等って百両なんだ。それでお店が買えるのかい」

一太郎のピンと来ない顔に、側に控えていた手代達が苦笑している。
それもそのはず、一太郎は江戸でも有名な大店の跡取りで、更にはその二親は一太郎に黒蜜よりも甘い。
一太郎が、お金が欲しいと言ったら、母親であるたえは、何も言わずに小判で百両ぽーんと与えたというのは記憶に新しい。
その百両のおかげで一太郎は一命を取り止めたのだが、一太郎には金銭感覚という物が一般に比べて少々劣っていた。

「若だんな、最下級の武士の俸給が、年に三両一人ぶちなんですよ」
「百両富で当たれば、十両は神社に納めて、十両は次の富を買うことになる。残りは八十両。茶店位なら全額使わずとも居抜きで買えましょう」

手代達がそう言っている間に、二番目に戻って来たのは野寺坊で、みすぼらしい坊主姿の妖は、すっかり長崎屋の離れの常連だ。

「その茶店のことだがね、九兵衛は自分の女にやらせて、己は遊んでいたらしい。おこうという名で、ちょいと色っぽい大年増だったとか」

野寺坊も達磨火鉢の脇に乱雑に座り込み、話を続ける。

「おこうのおかげで店は繁盛していたそうだ。だが、去年の冬に、惜しいかなこのいい女は病であっさりと死んでしまった。九兵衛は、その時に店を売って隠居したのさ」
「あれ、野寺坊がもうみんな調べをつけてしまったか……」

帰っては来たが、先着の野寺坊が説明の真っ最中。
ふらり火は宙を上がり下がりしながら、退屈げにしている。
ふらり火は、羽が見えて、足がある。
真ん中に犬のような顔が浮かんでおり、目は眠そうで半開きだ。
ちょうど手元の辺りに降りてきたものだから、一太郎が持っていた饅頭をその口に放り込むと、途端にパッチリと目を開き、とっておきの情報を思い出した。

「そういえば、九兵衛の隠居所には、まめに顔を出す者が何人か居たようですよ」
「身内かい?」