八千重が長崎屋を訪ねた日から、十日と二日ほどが過ぎようとしていた。
そんな時だった。

『長崎屋の若だんなが、家に居たにも関わらず襲われ、寝込んでしまった』

瓦版にも出たその事件は、八千重の耳には下手人を捕らえた日限の親分から入った。

「それじゃ、若だんなと手代の仁吉さんを襲った下手人は、先のあの首を切られた男の下手人と同一人物だったと?」

話を聞いた八千重が驚いた様に言うと、日限の親分は大手柄だろうと言った風な顔で頷き、詳しく話そうと口を開く。

「首を落とされていたのは大工の棟梁の徳兵衛という職人で、下手人はぼてふりをしている長五郎と言う名だ」

八千重は親分の話を聞きながら、空になった親分の湯呑みに茶を淹れる。
今日はさきの薬を親分が取りに来たのだ。

「二人は顔見知りでね、徳兵衛の家の隣にある長屋に長五郎は住んでいたんだ」
「何か揉め事でも?」
「長五郎は十になった上の子を大工にしたかった。奉公させてくれと徳兵衛に頼んだが、人手が足りていると言って断った。それを恨んで、徳兵衛を殺してしまった」

八千重は淹れ直した茶を親分の前に差し出しながら眉を顰めた。
奉公を断ることなど、さして珍しい話ではない。
奉公先など徳兵衛の他に探せばいくらでもある筈だ。
大工を選ぶにしても、他の棟梁に聞けばいいことだ。
それを、たったそれだけの理由で人を殺すだなどおかしな話だと思った。
八千重は内心で首を傾げながら、自分の湯呑みの茶を飲む。
茶と一緒に出かかった疑問も飲み込んだ。
それよりも気になる事があったのだ。

「それじゃぁ、何故若だんなと仁吉さんが襲われたんです? まさか、長崎屋に息子の奉公をお願いしてまた徳兵衛さん同様断られたからとか?」
「いや。徳兵衛を殺してしまったことに怯えた長五郎が、なんとか生き返らせたいと秘薬を求めて薬種問屋の長崎屋に押しかけたが、そんな都合のいい薬はないと知り腹を立て、刃物を振り回した」

一見、筋の通った考え方だった。
だが八千重は、やはり眉を顰める。

(死人を生き返らせる薬なんて、どこを探したってある筈がない。そんなこと、童だって知っているよ)

いくら気が動転していたからといっても、そんな万物の理念を覆すことなど出来ないとわかろうものだと思う。
ましてや首を切り落としてしまったなら、首が胴とまたくっつかない限り、生き返るなど有り得ない。

「それというのも長崎屋には、木乃伊があったらしくてね」

八千重の怪訝な様子に気付いたのか、親分は苦笑いしてそう言い、湯呑みを手にする。

「木乃伊?」

八千重の眉間の皺は更に濃くなった。

(それって、……あの?)

医者の娘であり、物心つく前から父の手伝いをしていた八千重は、今や開次の立派な助手として簡単な処置ならお手の物であり、更には薬の調剤だとて難無く熟す。
また、要領の悪く人の好い父に成り代わり、しっかりと家と仕事を支えている。
更には勉強熱心であり、女ながらに難しい医学書や薬種の本を読み、また理解した。
開次の兄弟子である高名な医者である源信は、女子なのが勿体ないと零す。
男の子であったなら、是非に弟子に欲しいと言わせた程の才能を有していたのだ。
そんな八千重は、勿論木乃伊の事も知っていた。
木乃伊とは、昔人であったもの。
即身成仏したその体を飲み込むことで、その力を手に入れようとする……つまりは、不老長寿の薬とされて珍重されている。
とても高直な為、八千重は現物を見たことはなかったが、その効果を赤子の爪の先程にも信じていなかった。
人が人であったものを飲んでも、不老長寿になどなる筈がない。
それどころか、言い方を変えれば人身売買に共食いではないか。
例え本当に妙薬だとて、八千重は口にする気など起きなかった。
だが、木乃伊はその効果が明らかにされていないにも関わらず、万能薬のようなふれこみになっていて、世間でもそう信じられている。

「そんなものが、長崎屋に?」

こくりと茶を飲み、親分は頷く。

「どうやら下手人が暴れて、売り物にならなくなってしまったようだがね」
「それは……長崎屋は大損害ですね」

木乃伊は先に述べた通り、大変高直な物だ。
一回分、一欠けらで一両はするだろう。
つまりは、木乃伊一欠けらで米が百升分買えてしまうのだ。

「それよりも、長崎屋主人夫婦は若だんなが寝込んでしまったことに気を病んでいるよ」

長崎屋が一太郎を甘やかすこと、大福餅の上に砂糖をてんこ盛りにして、その上から黒蜜をかけたみたいだと謂われる程だとか。
また、兄やの手代二人も一太郎が無事でなければ江戸が安泰ではないと思っているのだとかいう噂が回っており、それは親分曰く誠に真実なのだとか。

「…そんなに若だんなの具合は悪いんですか?」
「長五郎に切られたのは仁吉さんなんだがね、若だんなは高熱を出して寝込んでいるらしくさらにはまだ目を覚まさないらしい」

本に体が弱いからな…死んじまうんじゃないかと長崎屋は大騒ぎさ、と言う親分に八千重の胸はざわつく。
一通り話し終えた親分がさきの薬を手に帰って行くのを見送り、八千重はそわそわと落ち着かなくなった。
暫くして開次が回診先から帰って来ると、おかえりも言わずに「長崎屋に行ってくる」とだけ伝え、家を飛び出して行ってしまった。
瓦版で若だんなが襲われ、寝込んでいることを知っていた開次は、訳知り顔で仕方なさそうに息を吐いた。

「…暫くは、元気なお千重を見れなくなりそうだな」

開次の言った意味を問う者はその場におらず、開次は八千重の部屋に蒲団を敷きに向かうのであった。





「突然に申し訳ありません! 若だんなに会わせていただけないでしょうか?」

長崎屋主人である藤兵衛は、困惑していた。
目の前で額を畳にこすりつけんばかりの勢いで頭を下げている少女は、息子の一太郎を心から心配して来てくれたのだと様子でわかる。
だが、今の一太郎は絶対安静で、唯一の親友である菓子司三春屋の息子である栄吉だとて合わせられぬと帰って貰っている。
その点、幼馴染みの栄吉は心得ているので別に気にした風もなかった。
だが、八千重は引き下がらなかった。

「だけどね、お千重さん。一太郎は源信先生から絶対安静と言われていて、親の私達ですら部屋にずっとはいられないのだよ」

今は手代であり、一太郎の兄やである佐助が殆ど離れず付きっ切りで看病している。
その佐助が是と言わなければ会わせることはできない。
また、その佐助は一に一太郎で二から先がないのである。
親さえも追い出す佐助を、他人でありしかも先日一度顔合わせして幾らか話しただけのただの客である八千重が是と言わせるには、難しい申し出であった。
例え、一太郎のかかりつけ医、源信の弟弟子の娘だとて、一蹴されるのがおちである。

「存じております。それでも私は若だんな…一太郎殿にお会いしたいのです!」

八千重は、ついに頭を畳に付けた。

「お千重さん…頭を上げてください」
「一太郎殿を助けると思って、どうか!」
「………………」

藤兵衛が、眉を下げて困惑しきっていると、ス、と襖が開いた。

「仁吉じゃないか。どうしたんだい? まさか、一太郎になにか…っ」

現れた人物に、藤兵衛は軽く驚き、心配に目を見張る。
藤兵衛の声に、ハッとして八千重の頭も上がる。
八千重は、仁吉の頭の晒の白がやけに目についた。

「いいえ、若だんなはまだ高熱が続いておりますが眠っております」
「…そうか。では何用だ?」

軽く頭を垂れている仁吉は、チラリと八千重を見てから口を開く。

「おかみさんより、お客様を若だんなの寝屋へ通すよう承りました」
「!、おたえが?」

仁吉の言葉に、藤兵衛だけではなく、八千重までもが驚いた。

「だが…その……良いのか?」
「…お客様には、何か若だんなにお会いしたい理由がおありのご様子。また、それはどうやら若だんなにとって害あるものとも思えない…源信先生の弟弟子である開次先生のご息女なら、若だんなを苦しみから救う術をお持ちかも知れぬ…と」
「―――そうか。お前達も異はないんだね?」
「――――――…はい」

静かに頷く仁吉に、藤兵衛は頷いた。

「それならば私は何も言うまい。仁吉、お千重さんを案内しておやり」
「はい」

それから、八千重は仁吉に付いていくようにと藤兵衛に言われ、再度頭を下げた。

「ありがとうございます」

言って、先導する仁吉の後に続いた。

「やれやれ」

見送り、藤兵衛は疲れた様に息を吐いた。





「あの、仁吉さん。お怪我をしたと日限の親分さんに聞きました。もう、大丈夫なのですか?」

廊下を歩きながら、先行く仁吉の背に問えば、仁吉は頷く。
だが、見れば仁吉の手にも晒が巻かれていた。

「嘘。貴方はまた無茶ばかりして……え?」

スルリと口から出た言葉に、八千重は思わず口を手で塞いだ。
仁吉も立ち止まり、驚くような怪訝な顔で八千重を見ている。

「ご、ごめんなさい! 私ったら何を言ってるんだろう…っ 気になさらないで下さい」
「…………では、参りましょう」

仁吉はゆるりと微笑み、先を促した。