八千重もまた足を前へ運んだが、すぐに止まった。

(あれは―――…)

足を止めた八千重に、仁吉は端正な顔を歪めたが、八千重の視線の先を見てハッとした。

「あれは、お稲荷様の祠です」
「…………そうですか」

八千重は祠に何かが見えているかの様に、ジっと見て目を離さなかった。
仁吉は、その視線の先に驚いている狐を見て、八千重に先を促した。

(この人は、妖が見えてるのかね)

そういえば、若だんなもそんなことを言っていたのを聞いた覚えがあった。
仁吉はチラリと八千重を隠れ見る。
あの祠には、確かに妖狐がいた。
一太郎の祖母のぎんは人ではなく、妖で、その本性を皮衣という齢三千年を越える大妖であったのだ。
そのぎんが人である一太郎の祖父と結ばれ、たえが生まれた。
子を大福餅の砂糖漬けのように甘やかすのは長崎屋の血筋なのか、ぎんは自分の眷属である配下の妖狐をたえの守りに付けた。
その守狐が、今でもあの祠にいるのだ。

(何でだろう…ひどく、懐かしい)

八千重は不思議な感情に困惑していた。
仁吉が、八千重に説明し、離れの若だんなの寝間の襖を開けた。
中にいた男と目が合う。
途端に、男の目が驚きに見開いた。

「八千重…様?」
「佐助、こちらは開次先生のご息女、お千重さんだ。若だんなの見舞いにいらしてくださった」
「開次先生の? では……貴女が仁吉の言っていた…―――いや、それより…見舞いだって? 仁吉、お前…」
「わかっているよ。でも「私がお願いしたんです」…」

語気を強めた男…佐助に仁吉が答えようとしたのを、八千重が遮った。

「無作法をお詫び致します。ですが、私に若だんなを診させて下さい」

八千重は、手代二人の視線を集める中、静かに頭を下げた。

佐助が仁吉を見ると、仁吉は静かに頷いたので、佐助は溜息吐き、八千重を部屋へ入るように促した。

八千重は眠る一太郎の顔色を見てから、そっとその首筋に触れた。
そして顔を顰める。

(ひどい熱…苦しそう。脈も早い…)

「若だんなは、何日目を覚まさないんですか?」
「あの日以降だから、もう三日になります」

答えたのは佐助だった。
佐助は六尺近い偉丈夫で、顔はごついがどこか暖かみのある男だ。
若だんなの看病で殆ど寝ていないのか、その顔に少し疲れが見える。

「…そうですか」

八千重は頷くと、ゆっくりと若だんなの部屋を見回した。
屏風と部屋の隅の影で寸の間視線が止まる。
部屋を一通り見回して、八千重は笑みを作った。

「ここは随分と賑やかですね」
「は?」

八千重の呟きに、佐助はきょとんとし、仁吉はやはりと口を開く。

「見えてますね?」

何を、とは仁吉は言わなかった。
だが八千重は聞かずともわかっているのか、にっこり笑う。

「ここに人は若だんな以外いないみたいなので、私がこれから何をするかお話します」
「………いつから、気付いておいでで?」

仁吉が驚いたように問えば、八千重は初めてお会いした時からですよ、と微笑んだ。

「きゅわきゅわ」
「きゅいきゅい」

部屋の隅や天井から声が聞こえる。

「気になるのならおいで? 噛み付いたりしないから」

興味津々なのだが、影の中からちらちらと窺うように八千重を見ているのは家を軋ませる妖、鳴家。
怖面に身の丈数寸の臆病な小鬼の妖は、にっこり優しく微笑む八千重に警戒心を弱め、そろそろと近寄る。
やがて八千重の近くまで来ると、そーっとその膝に触れた。

「ふふ、かわいい」

優しくその頭を撫でられ、鳴家は気持ち良さそうに目を細めた。
途端にそれを見ていた他の鳴家が、我も我もと雪崩込んだ。

「え、ちょっ…!」

八千重が大勢の鳴家に慌てて逃げようとしたが遅かった。

「きゅわわわー!」
「きゅいー!」
「きゃー!」

鳴家の雪崩に合い、八千重は倒れてしまった。

「「八千重様!」」

仁吉と佐助の声が揃って響く。

「お前たち、八千重様の上から早く退け!」

佐助が八千重の上に乗った鳴家を引きはがす。

「大丈夫ですか?」

上から鳴家がいなくなると、仁吉が八千重を助け起こした。
驚いて目を瞬かせている八千重は、仁吉に礼を述べ上体を起こすと座り直した。

「二人ともそんなに怒らないで下さい。目が怖いですよ」

怒りのせいか二人の手代の黒目は猫のように細くなっていた。
鳴家が怯えて縮み上がり、八千重の影に逃げるように隠れて泣き出している。

「……………」
「……………」

二人は八千重に指摘されてお互いを見て、ハッとして直した。

(二人はどうやらかなり強い妖のようだね)

八千重は泣きべそをかく鳴家の頭を撫でながら苦笑した。

「…私は、おとっつぁんにしか話していない事が二つあります」

八千重は一つ深呼吸をして、その場を取り直すように話し始めた。
仁吉は茶を淹れ始め、佐助は茶菓子を置く。

「一つは、人ならざるものが見えると言うこと。…おとっつぁんはそれを聞いても気味悪がったりなどしませんでしたが、他のお人がすべてそうだとは言えませんから」

仁吉も佐助も確かにと同意する。

「若だんなは、きっとお喜びになられると思いますよ」
「あぁ、ではやっぱり若だんなも見えるのですね」

八千重は佐助の言葉に頷く。
仁吉はそっと茶を出した。

「初めてお会いした時、この小鬼を袖に入れてらしたから、もしかしたらと思ったんですよ。それに、仁吉さんもいましたからね…ふふ、あの時は驚きました。長崎屋さんはすごい手代を雇っていると」

膝の上に乗る鳴家を優しく撫でていた八千重は、語尾で仁吉を見てにこりと微笑んだ。

「………………」
「…その小鬼は鳴家と言う、家を軋ませる妖です」
「やなり…あぁ、『鳴家』ね! そう、君たちは鳴家っていうの」

黙る仁吉をちらりと見て、佐助がそう言えば、八千重は家鳴の脇を両手で挟んで持ち上げた。
目線まで持ち上げると、きゅわきゅわ鳴いて頷く鳴家に破顔する。

「いいなぁ! うちにも欲しいな、鳴家ー」

たまらず頬ずりすれば、我も我もと膝によじ登ろうと群がる。

「お前たち!」
「鳴家は犬や家畜ではありませんから」

佐助が鳴家を窘める横で、仁吉が苦笑して言うと、八千重は残念そうに上げていた鳴家を膝に降ろした。

「ところで…そのもう一つ、と言うのは?」

佐助が若だんなの様子を気にして、額に乗せられている手ぬぐいを交換しながら問う。
八千重は、その問いに無言のまま頷くと、若だんなの先程佐助が変えたばかりの額の手ぬぐいを取る。
そして静かに若だんなの顔に自分の顔を近付けた。

「「!?」」

手代たちが驚く中、八千重は額と額を合わせ、寝ている一太郎の唇と八千重のとがつくかつかないかギリギリのところまで顔を近付け、そっと目を閉じる。

「…こっちにおいで。おいで…おいで…‥」

そう念じるように小さく呟くのを、一番近くにいた佐助は聞いた。
言葉の意味を考えていると、八千重は大きく息を吸い込んだ。
肺一杯に空気を吸い込んだところで息を止め、バッと一太郎から離れる。
そして次にはそれを飲み込んだ。
それからふうと息を吐く。
持っていた手ぬぐいを再度一太郎の額に乗せると八千重は一つ頷いた。

「―――――今のは、一体何を…?」

一連の八千重の動きを呆然と見ていた仁吉が問う。

「……待って下さい。確認してから言います」

そう言って、八千重は最初部屋に入った時の様に、一太郎の顔色を見てからそっとその首筋に触れる。
そして今度は微笑んだ。

(良かった。成功したみたい)

「これで、若だんなはすぐにでも目を覚ます筈です」
「本当ですか!?」

八千重の言葉に驚いた仁吉は、一太郎の枕元に飛び寄り、佐助は熱を診る。

「熱が、下がっている」
「顔色も良くなったようだ」
「きゅいきゅい、若だんな苦しそうじゃなくなった!」
「きゅわきゅわ、お千重が接吻したからだ」
「お千重すごい!」
「接吻すごい!」

きゅわきゅわ、きゅいきゅい騒ぎだした鳴家に八千重は顔を真っ赤にさせた。

「馬鹿だね、お前たち。接吻なんてしてなかったじゃないかっ」

そこで突然上から降ってきた声に、八千重は顔を上げた。
そこには、先程部屋を見渡した時に見た屏風に描かれていた絵そっくりの男が、偉そうな顔して八千重を見下ろしていた。

「本当にしてくれれば面白かったのに、残念だよ」
「貴方……屏風の付喪神ね?」

ニヤニヤと笑う男に八千重は顔を真っ赤にして睨みつける。
だが、そんな顔しても怖くなんてないねとでもいう風に、男はフフンと笑う。

「屏風のぞき、お前、井戸に沈められたくなかったら黙っておいで」
「なっ…なんですって?」
「それとも燃やされたいのかえ?」

手代二人の目が剣呑な光を帯びていることに気付いた屏風のぞきは、冷や汗かきながらも舌打ちして、本性である屏風に戻って行った。
途端に空だった屏風に、絵が甦る。

「屏風のぞきって名前なのね」

八千重が幾らか赤みの引いた顔で屏風を見ていると、屏風の中の男はぷいと顔を逸らした。

(あら…)