目を覚ました八千重が見たのは、自分を覗き込む、手代の心配そうに歪められた顔だった。

「……仁吉さん」
「お千重さん」

八千重がまだ微睡んだ眼で名を呼ぶと、仁吉はホッとしたように息を吐く。

「朝餉の時間になっても、若だんなの部屋にいらっしゃらなかったので、失礼だとは思いましたが、入室させてもらいました。……随分と魘されていましたが、何か悪い夢でも見たんですか?」
「…私、何か言ってました?」

仁吉の問いには答えず、八千重は仁吉の目を見て問う。
強い視線に少し気圧されたように仁吉の瞳は揺れたが、それも一瞬ですぐにいつもの涼しい顔で頭を振った。

「いいえ。私は何も聞いていませんよ」
「―――…そうですか」
「では、着替えて若だんなの部屋へお越し下さい」
「わかりました―――――――…あ、仁吉さん」
「はい?」
「……あ〜…先に食べていて下さい」
「わかりました」

足音が遠退いて行くのを確認して、八千重は息を吐く。

(“今でも八千重さんが好きなんですか?”なんて……とても聞けない)

八千重は、再度息を吐いて着替え始めた。

着替え終えた八千重が一太郎の部屋を訪れると、一太郎がホッとしたような笑みを向けた。
一太郎は、八千重がいつもより寝坊した理由も何も聞かずに、ただ「お早う」とだけ言った。
気遣ってくれている事がすぐに分かった八千重は、優しい一太郎の気持ちに嬉しくなって、笑って「お早う」と返した。
暫く無言で少し冷めた朝餉を食べていると、一太郎が口を開いた。

「あのさ、お千重ちゃん。少し考えてみたんだけど、聞いてくれるかい?」
「うん、勿論」

八千重は頷き、箸を置く。
だが一太郎がそれを止めた。

「実はね……ああ、食べ終わってからにしよう」

一太郎は八千重が箸を持つのを待って話しだそうとしたが、二人の手代がまだ少ししか減ってない一太郎の膳を見る視線に気付いて、口を朝餉を平らげることに動かし始めた。
一生懸命咀嚼している一太郎と、甲斐甲斐しくそれを世話する仁吉と佐助、という見慣れてしまった光景に、八千重は気付かれないようにクスリと笑った。
それから八千重が食べ終わっても、一太郎はまだ食べ終わらず、やっとのこと食べ終わったのは半刻程経ってからだった。

「百両!?」

一太郎が食べ終わったので一緒にお茶を飲みながら話を聞いていた八千重は、目を丸くした。

「護符をお寺から貰うのにそんなに金子がかかる物なんだ……そんな大金、若だんな持ってるの?」

若だんなは湯呑みを両の手で包むように持ち、中の茶を一口啜ると苦笑いで首を左右に振った。

「持ってないよ」

持ってても、ふらっと遊びにだっていけないもの、と一太郎は皮肉って笑う。

「じゃあどうするの?」
「うん、おとっつぁんにはなんだか言い辛くて…おっかさんに言ってみようと思うんだ」
「…お金の使い道を聞かれたら何て言うの?」

八千重の問いに、一太郎は眉を下げる。

「…そこまで考えていなかったよ」
「正直に話しちゃう?」
「………成りそこないをどうにかしないとお祖母様が私を連れていくって? そんなこと話したら……」

言いながら想像して、一太郎は慌ててぶんぶんと頭を振る。

「そうだね…おたえさん、倒れちゃいそう」

八千重は卒倒するおたえの姿が容易に想像できて、眉を下げた。

「じゃあ、聞かれたら嘘を吐くしかないねぇ…」
「うん。おっかさんに嘘を吐くなんて嫌だけど、仕方ない」
「何か良い嘘はないかな?」
「そうだね。何か平和な嘘が良いね」
「「う〜ん…」」

二人は揃って考えだし、首を捻った。
八千重の膝の上に乗る鳴家も、真似をして首を傾げる。
呆れたような顔でそれまで黙って成り行きを見ていた付喪神が、ニヤリと笑う。

「それなら私に良い案があるよ」
「屏風のぞき、本当かい?」
「平和で、おかみさんも喜んで金子をくれるだろう嘘」

にやにやと笑いながら言う屏風のぞきの様子に、一太郎と八千重は怪訝に眉を寄せる。
互いに目を合わせて、窺うように屏風のぞきに視線を戻す。

「何か…怪しいね」
「何か企んでるんじゃない?」
「…なんだって?」

屏風のぞきが心外だ、と目を吊り上げる。

「私は何か力になれればと、良かれと思って言ってるのに…あんまりじゃないかい」

よよよ、と目元を袖で覆い、屏風のぞきは背を向ける。

「そんなに私が信用ならないなら、私は屏風に戻ってじっとしてるよ」

言うが早いか、屏風のぞきは屏風に戻っていく。
良心を痛めた八千重と一太郎はそれを慌てて止めた。

「待って、屏風のぞき!」
「ごめんよ、謝る。話を聞かせておくれよ」

屏風のぞきは、二人に背を向けたまま、ニヤリと笑った。
八千重はそんなこと知らずに、屏風のぞきの為に茶を淹れる。
屏風のぞきは八千重の淹れる茶を待ちながら、菓子鉢の饅頭を一口かじる。
饅頭を咀嚼している屏風のぞきの前に、八千重が湯呑みを置く。
膝の上にいた鳴家や、他の鳴家達の為にも広い口のお椀に淹れた茶を置いてやる。

「お千重、ありがとー」
「ありがとー」
「どう致しまして」

八千重は鳴家ににっこり微笑むと、茶を啜る屏風のぞきに視線を移す。
屏風のぞきは何やら一太郎の耳元でコソコソと話していた。
一太郎の顔がみるみる内に赤くなっていく。

「そ、そんな事おっかさんに言えるわけないよっ」

声を上擦らせた一太郎に八千重は目を瞬かせる。

「何、どうしたの?」
「え!? な、何でもないよ。ちょ、ちょいと行ってくる」
「若だんな? 行くって一体どこに?」

真っ赤な顔で母屋の方へ歩いていく一太郎に慌てて声をかける。

「か、厠!」
「あ……」

八千重は顔を赤くさせてそれ以上一太郎に声をかけられなかった。

「初心だねえ…」

一太郎の後ろ姿を、眉を上げて見ていた屏風のぞきはヤレヤレと呟いた。
その呟きを聞き咎めて、八千重は眉を寄せる。

「屏風のぞき…貴方、若だんなに何を言ったの?」
「私はただお前さん達が話してた良い嘘の案を話しただけだよ」
「それが何かって聞いてるの」

屏風のぞきは、含み笑いを浮かべる。

「……ただ、お前さんに似合いの白無垢をいつかの時の為に買いたいんだって言えば良い、とそう言ったんだよ」
「し!」

(白無垢!?)

八千重の顔も先程の一太郎と同じ様に耳まで真っ赤に染まった。

「そ、そんな事若だんなが、おたえさんに言えるわけないでしょっ」

湯気でも出しそうな赤い顔で八千重が言うと、屏風のぞきが肩を竦める。

「やれやれ、嬢ちゃんもか……これじゃぁ夫婦になるには大変だよ、若だんな」

屏風のぞきが呟いた声は茶と一緒に飲み込まれ、八千重には届かなかった。

厠に行ったはずの若だんなは、百両を携えて戻った。
目を白黒させる八千重に、一太郎が苦笑いで口を開く。

「ちょうどばったりおっかさんに会って、百両欲しいと言ったら、何も聞かずに小判でくれたんだよ」
「何も聞かずに小判で百両、ぽーんと…流石大店」

八千重は、凄いなーと息を吐く。
だがそれとは逆に屏風のぞきはつまらなさそうに菓子鉢の饅頭を持って屏風の中に戻っていった。
自分達の分け前が減って鳴家がキーキーと騒いだが、屏風のぞきは聞く耳持たず。
八千重は涙目の鳴家の頭を撫でてやった。
何はともあれ、金の問題は解決したので、成りそこない退治に必要な護符と守り刀をいただく事が出来る。
一太郎は、早速使いを走らせた。



「若だんな、本当にそんな護符、効くんですか?」

二日後の朝餉の後。
妖を封じ込めるという護符を扱っている若だんなと、大した作りとも見えない…妖が切れるという守り刀を見ている八千重に手代二人が猜疑の目を向ける。
上野の寺、広徳寺から貰い受けた有り難いと世間の太鼓判を押されている呪符と、東叡山から貰い受けた守り刀が二本。

「効いて貰わねば困る。広徳寺の寛朝様も、東叡山の寿真様も、ともに妖封じで高名な方だ。だからこそ、万金の寄進を行って、こうして護符と守り刀をいただいたのだからね」

護符は、梵字で書かれている紙きれが五十枚束になって二十五両。
守り刀も同じく一本、二十五両。
双方の寺には他にも金子を出しているから、大枚百両が消えたらしい。

「近頃の坊主は業突く張りだこと」

手代達にとって、ただでさえ妖封じなどとは聞くだけでも気に入らないのに、それに当然のように大金を要求してくる僧らが腹立たしい。
御利益など疑わしいものだったが、一太郎は人の身で、狂った成りそこないから身を守る術を持たない。
欲しいと言われれば、是非もなかった。

「ねぇ、若だんな。どうして刀が二本あるの?」

八千重は先程から考えていた疑問を一太郎に投げる。

「ああ、一本は私。もう一本はお千重ちゃんの分だよ」
「私の?」

八千重は思ってもみなかった返答に、目を瞬かせる。

「何かあった時の為に必要だろう? 護身用に持っていて欲しいんだ」
「で、でもこれ、一本二十五両もするのに…」
「二十五両でお千重ちゃんが助かるなら安いものだろう? 私も安心だし……持っていておくれよ」