「わ、若だんな…」

二十五両を安いものだと言ってしまう一太郎に、八千重は絶句していた。

(――…ううん、きっと若だんなは金銭感覚がおかしいだけなんだ! きっとそう! でも、二十五両もあったらお米がひぃ、ふぅ―――…)

数えだした八千重をよそに、仁吉と佐助が金の出所を一太郎に問う。
それにサラリと答え、一太郎は文机で計画を立て始めた。

「やはり筋違橋御門の所から、不忍池に向かう道がいいかしらね。ねぇ、お千重ちゃん」
「え? ―――あぁ、成りそこないを誘き出すんだったよね」
「うん。争い事になるとしたら、なるべく人も家も少ない所がいいから」

文机に近寄り、覗き込むと、一太郎は自分で描いた地図の上に護符を貼る場所の印をつけていた。

「確か場所は東叡山を考えてるって言ってたよね」
「うん」
「確かに江戸じゃぁ町屋や武家屋敷が広がっていて、場所がありませんからね。東叡山の境内なら広さも申し分ありません」
「それに、上野には寛朝様や寿真様がいらっしゃるから…万が一、私が失敗しても、封じて貰えるかもしれないだろう? でも先ずは、成りそこないを通町から遠ざけないと…」

八千重は一太郎に頷き、自分と同じように地図を眺める手代達に視線を移す。
間近に護符があるというのに、仁吉も佐助も普段と変わりない。

(鳴家や屏風のぞきには効いてたんだけど…)

護符が離れに来てからというもの、鳴家は姿を現さず、また屏風のぞきは「それは妖封じの護符だろう! 私を封じこめようとする気かい? あれはほんの冗談じゃぁないか!」と、死に物狂いで屏風に戻り、それから姿を現さない。
拗ねているのかもしれない。

(あれは成りそこないだけど、同じ付喪神の屏風のぞきに効いたんだから、成りそこないにも効く……筈)

効かなかったらどうしようだとかは考えないことにして、八千重は視線を文机に戻す。
成りそこないは、返魂香の香りにつられて通町近くをうろついている。
被害者もここの者が多い。
一太郎は、繁華で人の通りが多い通町や店を護符で封じて、成りそこないを遠ざけようとしていた。
一旦、長崎屋付近に近付けないようにしておいてから、そこからわざと一太郎が離れた所…東叡山に向かえば、墨壺は一太郎の香りに誘われて後を付いてくる筈だ。

「通町を護符で封じ、東叡山に来るよう仕向けて、そこで討つ」

一太郎の立てた計画は単純なものだった。
妖同士の対決となれば、成りそこないなどより、佐助達の方に分があると八千重も一太郎も思っている。
しかし、困った事があった。
一つは、墨壺が人に取り憑くということ。
手代として暮らしている二人に、人殺しをさせる訳にはいかない。
そしてもう一つは、うまく墨壺を誘き寄せる事ができるかということだった。
一太郎が生まれる前に使われたという返魂香の香りも、二十年近い時と共に、たいそう薄れてきているに違いない。
実際、成りそこないはこれまでに、一太郎以外の者を何人も襲っている。
こちらの都合のよい日にうまく引き付けられるか…それが一番の問題でもあった。
一太郎にとってまさに命を賭けたこの事態で、引っかかってくるのは親の目だ。
東叡山に行き、成りそこないと対峙するとなれば、一日仕事になる。
相手次第では、夜まで事が延びるかもしれない。
黒蜜や砂糖よりも子に甘い二親が心配して騒ぐこと請け合いだった。
おまけに、手代達と出かけるのであれば店の者に内緒という訳にもいかない。
三人で纏まって、たった一回出掛ける事すら大変なのだ。
さらに、八千重も一緒とあれば尚更話は難しくなる。
予め、日を決めておかなくてはならない。
その時成りそこないが香りに気がつかず、来なかったら、最悪の事態となる。

「はぁ……」

思わず洩れた溜め息に、佐助が素早く振り返る。

「若だんな、お疲れですか?」

このところ気を揉んでばかりで気が休まらず、一太郎は今一つ顔色が良くない。
それでも、この家から消えたくなければ、今はひたすら努力しなくてはならなかった。

「香りの事で頭を痛めているんだよ」

問題点を手代達に相談していると、思わぬ方から救いの手が来た。

「若だんな、香りだけで良いのなら、なんとか調達出来るやも知れません」

声の主を探して辺りを見回すが、姿が見えない。

「こっちですよう」

天井からの声に、上を見上げれば、鳴家達が幾人も隅に張り付いて、引き攣った顔で護符の方を見ている。
一太郎が、大急ぎで紙の束を隅の小引き出しに隠す。

「これで降りて来られるかい?」

下に招くと、ちょろちょろと何人かが降りてくる。
その中には八千重と仲の良い子もいて、真っすぐに八千重の膝の上に来て座った。
八千重もニコニコと笑いながらその頭を撫でる。

「それで? なんとか出来るかもってどういうことなんだい?」

八千重の膝に乗り頭を撫でられている鳴家を羨ましそうに見て、今にも「我も、我もー!」と言い出しそうな鳴家達に、一太郎は声をかけた。
すると姿勢を正し、真っすぐに一太郎を見て話しだす。

「昔、おたえ様が焚きあげて、煙をお吸いになった何やら高貴なお薬。それは小さな薄桃色の紙で包まれておりまして」
「そうか、お前達もあの頃この家にいたんだね」
「はい。荼枳尼天様のお使いが来るなど、滅多に有ることではありませんので、陰ながら拝見しておりました」

返魂香で子を得ても、生まれるのは幾月も先の話だ。
たえは今度こそ無事に生まれるようにと、香を包んでいた薄紙を他の供え物と一緒に、庭の稲荷神社に奉ったという。

「あの紙ならば、香りが強く残っているかも知れません。僅かに香の屑さえ、ついていてもおかしくない」
「それならきっと使えるよ。若だんな、そいつを見てましょう」
「私も!」

今にも庭に賭けだしそうな手代とそれに続いて行きそうな八千重を、一太郎が袖を掴んで引き留めた。

「お待ちよ。昼間からお稲荷様のお社を開けていたら、店の者に見つかるよ。なんて説明する気だい? 夜だよ、夜!」
「……そうですか?」
「あ゛ぁ…」

不満げな手代達と確かに、と項垂れる八千重に一太郎は溜め息吐いた。

(相変わらず妖というのは、時々危なっかしいよ。お千重ちゃんは佐助達に釣られただけみたいだけれど……やっぱり妖が混じってるせいだとかあるのかしら?)

「ごめんね、若だんな」
「ううん、お千重ちゃんは悪くないよ。とにかく、夜を待つしかないね」
「うん…」

その時に備えて、一太郎と八千重が店の守りの護符を貼って回ったので、鳴家達は早々にまた消えてしまった。



雲は低く、月の光は遮られてしまっている。
そんな常闇に近い夜だったのは、稲荷に近付く四人にとって、好都合な話だった。
暫くの間開けていないお社を開くというので、埃避けに四人共豆絞りの手ぬぐいを頭から被って、腰にも一本下げている。
手代達は、手に小さめの箒と雑巾を持ち、一太郎と八千重はお供え物を運んで行く。
人目を忍び、音を立てないように気配りをして庭を歩いた。
一太郎の口から、ボソリと文句がたれる。

「なんだか泥棒にでも入りに行く気分だよ。人殺しの成りそこないと対決している筈なのに、古しの英雄豪傑とは、随分やっている事が違う気がするんだけどね」

これに、クスクスと控え目な笑い声と押し殺した様な笑い声が横から応えた。

「それは仕方ないよ、若だんな」
「私らは商人。様式を守って格好に命を賭けている武士とは違います。仕事も日々の事も、放っておく訳にはいかないですからね。船荷を仕分けて薬を調合する間に、血にまみれた妖物を倒すんですよ」
「気分の乗らない話だよ、まったく」

溜め息を吐く一太郎に、八千重は穏やかな声で告げる。

「私は、武士より若だんなの方が英雄だと思うなー。頑張ってる若だんな、素敵だよ」
「え…えぇ!?」
「―――若だんな、気持ちは分かりますがお静かに」
「…………ごめん」

驚いて声をあげた一太郎に、手代の咎める声が小さく響く。
一太郎は赤くなった顔で俯くが、常闇の中では顔色など分かろう筈もなかった。

土蔵近くにある稲荷は、小さいながらも名人と言われる宮大工の作だけあって、全体に凝った作りだった。
前面の扉は、花や木の透かし彫りと二重になっていて、なんとも美しい。
手前には、今でもたえが毎日欠かさない、団子やお神酒が供えてある。

「失礼致します」

仁吉が声をかけてから、それらを横に退かす。
小さな扉を手前に引いて開けると、中から甘いとも清々しいとも言える、思わず立ちすくんで目を見張るような香りが漂った。

「良い香り……だけど、ちょっと強い…佐助さん、大丈夫ですか?」

八千重はコソリと佐助に問う。
佐助の本性は犬神だ。
人よりたいそう鼻がきく。

「大丈夫ですよ、ありがとうございます」

佐助はにっこりと笑って返した。
その笑顔にホッとして、八千重は祠にまた視線を戻す。

「成る程、これが返魂香の香りか……」

小振りな祠の中には、小さな酒樽や鏡、玉などが並んでいた。
その中に、大事そうに布の上に置かれた紙切れがあった。
それは不思議なほど新しいものに見えた。
埃をかぶることもなく、薄桃色が色褪せている事もなかった。
一太郎がそっと手に取ると、薄い紙が破けて散ってしまいそうに感じる。
いっそう立ち上る芳香に、眩暈がしてきそうだった。
それは一太郎の近くにいた八千重も同じで、思わずまた佐助を見る。