鏡の中の自分をいくら見つめたところで、答えが出てくる訳ではない。
八千重は溜息を吐いた。
自分の中に、妖がいると知って…八千重は自分が解らなくなってきていた。

(私は、本当に私なのかな?)

知らない内に口から出る言葉も、一太郎達に感じた既視感も、病や怪我を己に移す特殊な能力、妖を見ることが出来るのも、全て妖のものだった。
そのことに今になって気付く。
そしてその事実は、八千重が妖の影響を受けていることを示している。
体は人の……八千重のもの…それは間違いないらしい。

(寄生……見越の入道様は、そう言ってた。融合、或いは寄生したのではないかと…)

「私は、知らない内に妖に中から操られているんじゃ?」

妖の影響を受けていることが解った今、その可能性は否めない。

「人になりたがっていたって言ってたよね…あ、でも」

(願いは成就したけど、やっぱり恋は叶わないんだ)

人に成れても、父と娘では、妖の想いは叶わない。
結局、九尾の八千重と僧の慈安は結ばれる事はないようだ。
そう考えて、ヅキン、と痛む胸に八千重は眉を下げる。

(私は何故、悲しいんだろう? これは八千重さんの感情? それとも、私自身の感情? ―――わからない…)

「あぁ…っ、もう!」

八千重は鏡台の前で頭を抱えて首を左右に振る。

「…………………おとっつぁんに会いたい…」

ポツリと呟く。

いつだって、開次は八千重の一番の良き理解者であり、相談相手であり、味方である。
八千重が幼い頃ポロリと妖が見えると話してしまい、周りから気味悪がられた時も、立ち寄った村の子ども達とうまく打ち解ける事が出来なかった時も、仲良くなった患者が亡くなった時も、いつでも八千重の隣で暖かく包み込んでくれたのは開次だった。
八千重は、開次が傍にいないことなど、生まれてから一度たりとてないのだ。
八千重は改めて、開次……父の存在の大きさを知る。

「慈安さんも、おとっつぁんみたいな人だったのかな?」

慈安の生まれ変わりだという、開次。
その人物に興味がないわけがない。
だが、考えかけて八千重は頭を振ってそれを止めた。

「今、大事なのは若だんな! 成りそこないをどうにかしなければ、若だんなが連れて行かれてしまうっ」

八千重はそう独り言ちて、うんと頷く。

(そうだよ。私の事はとりあえず後回し! 今は若だんなの命が危ないのだから)

そうと決めた八千重は、早速成りそこないをどうにかするにはどうすれば良いのか考え始める。
だが、考えてるうちにうつらうつらとしてきて、やがて寝入ってしまったのだった。





ヒラリ、ヒラリと舞う花びら。

(………桜?)

八千重は目の前に咲き散っていく桜の花びらに無意識に手を伸ばそうとした……が、どういうわけか手が動かない。
おかしいな、と思い手や足、指等に力をいれてみるがやはり動かせない。
何故、と声に出そうとしたが、それすら出来ない。
八千重はそこで漸く意識だけがそこに…桜の木の下にあるのだということに気付いた。

(これは夢なんだ)

八千重は、今自分が寝ていて、夢をみているのだと得心して安堵した。
だが、安堵したのもつかの間……今いる場所に八千重は心当たりがなかった。

(これが夢なら、私が知っている場所のはずだよね?)

そんなことを考え、不思議に思っていると、視界に白い手が映り込んだ。
その手は、自分の手のようだった。
だが、八千重の手ではない。
八千重は今、意識だけの状態であって、身体は存在しない。
どういうことなのだろう?

(まるで、誰かの中に私が居るみたい)

そんな印象を持ちながらも、八千重は再度舞い散る桜を見やる。
視界に映る掌に、薄紅の花びらが乗る。

(……ああ、なんて…)

「なんて綺麗なんでしょう」

八千重の言葉を次ぐ様に、声が響いた。
それはまるで自分が発した声のようで、八千重は驚く。
だが、八千重の声とは別の声だった。
八千重より意志の強そうで落ち着いた凜とした声は、耳によく透る、綺麗な声だった。
八千重はこの声に聞き覚えがある気がした。
どこか遠い昔…、それこそ母の腹の中で聞いたことがあるような…そんな感覚。

「発つ前に、ここからの景色を見たかった。何故かはわからないけど、暫く見れなくなりそうだからね」

ザリ、と土を踏み、ニ、三歩身体が前に進むように感じた八千重は、目の前に広がる景色が変わったことに気付く。
どうやら今居る場所は小高い山らしく、町が展望出来る。
朝陽の光にキラキラと光る町は、美しかった。
八千重は、見える町並みに、江戸のようだと思うが、どうやら今と少し様子が違う。

(私が知ってる江戸より、もう少し前の…これは、昔の江戸なのかな?)

八千重は、自分は何故こんな夢を見ているのだろうかと不可思議に思う。

(この人は誰? もしかして…私の、おっかさん? これは、私がおっかさんのお腹にいた時の記憶なのかな?)

そう考えれば、何となくだが得心がいく。
だが、その八千重の考えは、背後からかけられた声ですぐに否定されてしまう。

「八千重様!」

(!?)

八千重はその声に自分が呼ばれたのかとドキリとした。
声が知っている人のものだったのだ。
だが、彼は八千重のことを様付けで呼んだりしない。
八千重は、彼がそう呼ぶ人に心当たりがあった。
まさか…、と声に成らない声で呟く。

「なんだ、もう見付かっちゃったか」

信じられなかったが、今回は否定されなかった。
声の主…八千重が同化している人物、九尾の狐はあーあ、と息を吐く。
踵を返したのか、八千重の目に見知った人の姿が映る。

「見付かっちゃったか、じゃぁありません! 私が気付かねば、また黙ってお一人で旅立たれるつもりでしたね?」

どうやら彼は大層怒っているようだった。
端整な顔を険しく歪めている。

「だって言ったらついてくるでしょう?」
「当たり前です!」

ピシャリと言う彼に、八千重はびくびくするが、九尾は平気そうにやれやれと肩を竦める。

「私を一体誰だと思ってるんだい? 十にも満たない童じゃぁあるまいし……そこいらの侍にだって負けやしないよ」
「そ、それはそうですが…ですが貴女の姿は、一見ただの女人。女子が一人旅だなど、要らぬ厄介事を招きます」

八千重は九尾の中で、彼の言葉に頷く。
女人の一人旅だなんて、襲って下さいと言っているような物だ。

「それも一理あるけれど、大丈夫よ。多分、これが最後の旅になると思う」
「!」

八千重は、彼の目が軽く見開いたのに気付く。
だがそれも一瞬で、いつもの涼やかな顔に戻った。

「―――それは、此度こそ貴女の想いが叶うということですか? あの僧と皮衣様方の様に、結ばれると?」

彼の目が冷ややかに変わる。
九尾はそんな彼に、苦笑いを零す。

「そう成れたら死ぬほど嬉しいけれど……どうかな? 先の事はいくら私でも分からないから………ただ、そう感じたのよ」

恐らく眉を下げて笑っているのであろう九尾を見る彼の顔が、切なさに歪む。
それは、同情の物ではないように八千重には思えた。

(ああ、八千重さんが…好きなんだ……)

漠然とだが、それは確かな物として感じられた。
九尾は、気付いていないのだろうか?
この、彼の切ない想いに…。
八千重には知る術がない。

「……いっそ、もう忘れてしまえば良いではないですか…」
「…白?」

白、と呼ばれたの彼は……仁吉は、呟く様に言う。

「もし…叶わなかったのなら……もう人などやめて…」
「白沢……私は「私なら! 私なら、貴女を一人にしたりはしない!」…っ……」

言葉を遮り、仁吉が叫ぶように言う。
九尾は黙り込んでしまった。
八千重は早鐘を打つ胸に、洩れそうになる声を聞こえる訳がないことを忘れて抑え、事の成り行きに生唾を飲む。

「私はずっと「お止め」……八千重様…」
「今は、やめて。帰って来たら、その時に聞くから…」

仁吉から視線を逸らし、九尾は硬い声でそう告げた。
仁吉は何か言いたそうだったが、一呼吸後に了承した。
桜の木の根本に置いてあった旅の荷を手にして、九尾は薄く微笑む。

「長崎屋をお願いね? 特に、一太郎が心配だから…」

(一太郎? 若だんなのことだ。じゃぁもう生まれているんだ)

「心得ております。ですが、長崎屋には皮衣様の配下のものがいますから…」
「そうだけど、守狐はたえ付きの妖狐。―――そうだね、その内一太郎付きに誰か付けなくてはね」

(若だんなにまだ仁吉さんが仕えてないってことは、若だんなは今幾つ何だろう?)

二人の会話を聞きながら、何年前の話なのか考えてみる。

「坊ちゃんはまだ生まれたばかりですよ。まだ早いのでは?」
「私達と違い、人の子の成長は早い。瞬く間に稚児から大人になり、死んでいく……」
「…八千重様……」

九尾は仁吉の案じるような視線を受け、大丈夫だというように微笑む。