「帰って来たら、信頼出来るものに任せるとしよう……それまで頼んだよ、白。私はお前を信頼してるからね」
「―――本当にお一人で行かれるのですか?」

仁吉の顔が、様々な感情により複雑な色を見せる。
九尾は苦笑して、ス、と仁吉の頭に手を伸ばした。

「!?」
「…行ってくる」

柔らかな髪をニ、三度撫でると九尾の手は仁吉から離れた。

「…………お気をつけて……」

背を向け歩き出した九尾は一度も振り返らなかった。
なので、九尾を見送る仁吉がどんな顔をしているのか八千重にはわからなかった。

一人旅というものを、八千重はしたことがなかったが、とても楽しかった。
実際に旅しているのは九尾なのだが、九尾の目を通して八千重も同じ物を見て、九尾の肌を撫でる風を共に感じ、匂いも嗅ぐことができた。
九尾は、慣れた体で旅をしていた。
こうして慈安の生まれ変わりを探して旅をするのは何度目なのだろうか?
八千重は、九尾の慣れた様子に何故か悲しくなってくる。
目的地があるわけでもない。
九尾は旅をしながら、村人や商人、茶店で出会う人等に話を聞く。
それは、大抵が「人助けをしている人を知らないか」とか、「馬鹿がつく位お人好しな人はいないか」とかで、八千重は思わず自分の父を想い浮かべて苦笑する。

(確かにおとっつぁんは頭に馬鹿がつく位のお人好しだわ)

九尾がそう問うからには、きっと慈安というお人が、そのような人柄であって、更に生まれ変わってもそれは変わらないのであろうことが窺えた。

「あぁ、そいつぁきっと開次先生の事だわ」

何人目になるであろうか。
畑を耕していた中年の痩せた百姓がそう言った。
八千重は目を見張り、息を飲む。

「開次先生?」
「あんお人は、腕の良いお医者様でな、更に、俺らみたいに医者にかかる金子の余裕もない貧しい暮らしの奴の診察を無償でして下さるんだわ」
「無償で?」
「あぁ、俺も先だって風邪を拗らして、寝込んじまったんだ。俺ん家はまともに働けるのが俺しかいねぇ……俺が働かなけりゃ家族皆お陀仏さ。頼る親戚も無え。あぁ、こりゃぁもう駄目だわって諦めそうだった時に、あんお人が現れた」

そう話す男の目は、生き生きと輝いていた。
まるで神を崇める様な物言いで、男は開次の事を九尾に話して聞かせた。

「金が無えから断ると、開次先生はそんなものは要らないってんだ。家族全員驚ぇたよ。それから開次先生は俺を診察して、薬まで下すった。俺は忽ち元気になって、ほらこの通りさ!」

男は痩せていたが、鍬を肩に担ぎ、ニカッと歯を見せて笑う姿は健康的に見えた。

「また畑が耕せるようになったんで開次先生に僅かながら金を持って行ったんだ。だが開次先生は受け取らんかった……自分が勝手に節介を焼いただけだからと言って……治って良かったと…開次先生は笑った」

男は今度、目を涙で潤ませて言う。
余程感謝をしているらしい。

「聞けば、開次先生に助けられたのは俺だけじゃぁないらしい。村の皆が開次先生を尊敬し、感謝してるよ」

(おとっつぁんらしい)

八千重は九尾の中で誇らしげに微笑む。

「そうですか、私も是非お会いしたくなりました。――それで、その先生は何処にいなさるんでしょう?」
「あぁ、俺らの村にいなさる……だが、今はお会い出来んかも知れねぇなぁ」

九尾の問いに、男は忽ち言い澱み、表情を曇らせた。

「それはまたどうして」
「あ―――〜…、開次先生のおかみさんが、お子を流しちまいそうなんだとかで……開次先生は付きっきりなんだわ」

(!)

八千重は目を見開き、ギュッと心臓を鷲掴みにされた気分になった。

(私の事だ…きっと、そう)

ドキドキと鼓動が早い。
九尾は顔を険しくして、男に礼を述べる。
八千重は、自分も母も助かると知っている。
九尾が助けてくれると知っている。
だが、それでも心臓は鼓動を早めたままだった。
そこから村までは近かったが、開次が滞在していると聞いた
家の前で九尾は佇んでいた。
八千重が不思議に思っていると、声が聞こえてきた。

『どうしよう、どうしよう…どうしよう』

それはとても小さな九尾の声だった。
何かを思い悩んでいるような様子が窺える声音に、八千重は首を傾げる。

(これはもしかして、九尾の……八千重さんの心の声?)

八千重はこの声に今まで気付かなかったが、急に聞こえてきたわけではない。

『開次と言うお人が、慈安だったら…慈安だったら、どうしよう』
(…あ、そっか。…そうだよね)

八千重は何故九尾が開次にすぐに会いに行かないのかわかった気がした。
九尾は、仁吉に最後の旅になるだろうと言っていた。
やっと自分の想いが叶うのではないかと、多かれ少なかれ期待していたのだろう。
それが、僧の生まれ変わりの可能性がある人には妻がいて、更には子も孕んでいる。
もし、その人が九尾の愛した男の生まれ変わりだったのだとしたら、また、九尾の恋は叶わないことになるのだ。

(尻込みするよね)

八千重は眉を下げる。
胸がキュウッと切ない声を上げた。
何故なら、八千重は知っている。
開次が、慈安の生まれ変わりなのだという事を……九尾の、恋が叶わない事を。

『大丈夫、まだ、慈安だと決まっているわけじゃぁない』
(……そっか、そうだよ。私達は推測でおとっつぁんが慈安さんの生まれ変わりだろうと思っていたけど、真実違うかも知れないんだ。おとっつぁんじゃぁないのかもしれない!)

八千重は九尾の心の声に頷く。
九尾はグッと腹に力を込め、決意と勇気を振り絞り、戸口を開け中へ入った。
声をかければ、この家のおかみが現れ、応対する。

「あぁ、開次先生でしたら今薬を煎じていなさるんですわ。お待ち下さいな、呼んで参ります」

長閑な雰囲気のおかみは、気さくな風体で言うと奥に消える。
八千重の心臓は、緊張と期待、不安等で忙しなく動き続けている。
それは九尾も同じなのだろう。
おかみが消えてから落ち着きなく足を動かしている。
暫くして奥から姿を現したのはおかみではなく、優男だった。

(おとっつぁん! 若い!)

現れた男は紛れも無く八千重の父、開次その人だった。
今より十数年若い開次は、付きっきりの看病で余り寝ていないのか、目の下に隈ができており、更には無精髭も生えている。
八千重はマジマジと開次を見る。
九尾も開次を下から上、上から下へと見ているので、八千重は労せずに開次の姿を見れた。
玄関まで来た開次は、九尾を見て目を軽く見はる。

「お待たせしてすみません。私に何やら用とか…一体どういった件でしょう?」

疲れた顔でも柔和に微笑む開次。
九尾の目が見開かれる。

「………………………」
「…娘さん?」

呆然として黙り込んだ九尾に、不思議そうに開次が声をかける。
八千重は、九尾の心の声が聞こえて、複雑な心境になった。

「あ…、ご、ごめんなさい。私、八千重と申します」
「八千重さんですか。良い名です」

ハッとして九尾は話し始める。
開次は気にせずに無精髭を撫でながら頷く。

「私を…覚えていませんか?」

九尾の問いに、今度は開次が寸の間黙る。
ジ、と九尾を見つめるが、その顔は思案気だ。

「いや―――…申し訳ない。娘さんの様な美人なら会っていたなら忘れる筈がないんだけどな……私とどこかでお会いしたことが?」
「―――はい。貴方様は、私の命の恩人です」

言って、九尾は微笑んだ。
その頬を涙が滑り落ちる。

『慈安…会いたかった―――…』

響く声は甘く、それ以上に切ない。
切なく胸中で呼ぶ声に八千重は胸が苦しくなる。
会いたかった人には…恋しい人には、妻子があった。
だが、そう思いながらも会えただけでただただ嬉しくて涙が零れるのだろう。
だが、開次はそんな事は知らない。
驚き、自分が泣かせてしまったのかと戸惑い、狼狽える。

「すみません…ずっと探していた方に会えた感激で涙が勝手に……どうかお気になさらないで下さい」

涙を指で拭い、九尾が取り繕うが、開次か気にしないことなど出来る筈もなく、眉を寄せる。

「確かに私は医者を生業にしているが、命の恩人とは…。詳しくお聞きして思い出して差し上げたいのですが、今は身重の妻の具合が良くなく……申し訳ない」

申し訳なさそうに言う開次に、九尾は頭を振る。

「思い出さない方が、良いのです」
「え? …今、なんと?」

ポツリと呟いた声は、開次には聞き取れなかったらしい。
聞き返す開次に、九尾は笑顔でごまかす。

(八千重さん…)

「――貴方様の事を教えて下さった方が、奥方様は子を流しそうな剣呑な状態だと仰っていました。…大丈夫なのですか?」
「………………」

開次は何も言わず、視線を下げた。

「正直な所、私の「開次先生! お小夜さんが!!」…っ!! 失礼!」

開次の声を遮り、奥から先程のおかみの緊迫した声が響いた。
開次は顔を険しくさせ、九尾に一礼して奥へと駆け出す。

「………っ…」

九尾は、一瞬躊躇したものの直ぐに草履をぬぎ、開次の後を追った。

(おっかさん!)

八千重の落ち着いていた心臓がまた騒がしくなる。
八千重の母、小夜が寝ている部屋はすぐにわかった。
奥の部屋の襖が少し開いており、そこから開次とおかみの声が聞こえる。
九尾はそこへ足を踏み入れた。