「あ〜…」

長崎屋に居候になった翌日。
八千重は離れで唸っていた。
理由は、八千重が客人としてもてなされていることに起因している。
八千重はここでは黙っていても三食昼寝付きの仕事無し……ようするに暇で暇で仕方ないのだ。
いつも何かしら仕事をしていた八千重にとって、手持ち無沙汰だった。
何もせずにお邪魔はできないと女中に混ざって仕事をさせて欲しいと佐助に言ったら却下され、めげずに今度は仁吉に言ったらまたしても却下されたばかりか軽く窘められてしまった。
それでも諦めきれずに一太郎に相談してたえに話をしたら、笑顔でだめよと言われ、流石に諦めた。
それでは散歩でもと思ったが外出も許されず……自分が一太郎のように思えてならない八千重はちょっぴり拗ねていた。

「そんなに暇なら何か読むかい? それとも私と碁でも打つ?」

今日は天気も良く、襖を開けている一太郎の部屋。
日当たりの良い縁側に座り、溜息吐きながらぼーっと庭を見ている八千重の姿に、かいまきを着せられた一太郎は苦笑して声をかける。

「どんな本?」

知識欲のある八千重は、興味を示した。
膝に乗せていた鳴家を降ろして、一太郎ににじり寄る。

「色々あるよ。じい様が本好きだったからね」
「見たい見たいっ」

途端に目をきらきらと輝かす八千重に、一太郎は微笑む。

「じゃぁ私が案内を「ううん。若だんなは座ってて? 鳴家に案内してもらうから大丈夫」…どうして?」

一太郎の言葉を遮って言った八千重に、不満そうに一太郎が問う。

「漸く布団から起き上がるようになれたのに、また布団に縛り付けられたくはないでしょう?」
「う…」

二人にばれたら大変だと言う八千重は、昨日今日とで長崎屋での立ち振る舞いのコツを何となく掴んできていた。
特に二人の兄やたちが、噂の通りであったことを一日目の自分の不用意な言葉で体験したので、それに関して注意するようになった。

「あ、でも若だんなも何か読みたい?」

暇に慣れていない八千重と違って、一太郎はこれが日常な為、苦ではない。

「私はいいよ」
「そう? じゃあ行ってくる」

八千重の家までついて行っていた特に仲良しの鳴家二匹を肩に乗せ、うきうきと書庫へ向かう八千重の背を見送り、一太郎は微笑む。

暫くしてほくほくとして戻ってきた八千重。
何冊か持って来た内に、一太郎は懐かしい本を見付けた。

「おや」

どれから読もうか考えていた八千重の視線が本を手にした一太郎に向く。

「懐かしいねえ」
「『今昔百鬼拾遺』? ああ、それね。なんか気になっちゃって……人成らざるものが見えるって言っても、そうそう妖になんて遭わないからさ」

若だんなは別だろうけどね、と言って笑う。

「そんなことないよ。私だって、最初から鳴家たちと仲良く話していたわけじゃぁないし、兄やたちが来るまでは、気配は分かっていたけどひとりだったんだよ」
「仁吉さんと佐助さんって、どうやって若だんなの兄やになったの?」

ふと涌いた疑問だった。

「そうか、お千重ちゃんは知らなかったんだね。知りたい?」
「うん」

ちょうどいい暇つぶしにもなるし、じゃぁ話してあげる…そう言って、一太郎は話し出した。

一太郎が仁吉と佐助に初めて会ったのは五つの時。
とりわけて暑かった夏のある日。
また寝付いていた一太郎を祖父である伊三郎が訪ねてきた。
側には二つの小さな影がいて、その珍しさにもっとよく見ようと苦労して久しぶりに起き上がった。
そんな一太郎を、祖父が蚊帳の外に出してくれた。
そこで対面したのが仁吉と佐助だった。
二人はその時、十の子供の姿だった。
祖父は、今度長崎屋に奉公に来た子らだと教えてくれた。
それを聞いた一太郎は、店にはいつも十人からの小僧がいるのに、祖父が離れに連れて来る事など今まで無かった…何故二人だけ連れて来たのか不思議に思い、問いた。
すると、一太郎の問いに笑い声を返したのは当の小僧の方だった。
なんとも子供らしくない二人に一太郎が目を丸くしていると祖父は苦笑して二人を窘めた。

「私には、死んだ兄がいたんだ。産まれてすぐに亡くなったと聞いたよ」

一太郎は八千重が話を聞きながら淹れた茶をこくりと一口飲み、続ける。

「その後、おっかさんはなかなか子供に恵まれなかった。子供が欲しかったおっかさんは、庭にお稲荷様の祠も作って、毎日毎日熱心にお願いした。お供えもして、お百度も踏んで…漸く私を授かった」

一太郎の話を聞きながら、八千重は開次に聞いた自分の出生に似ていると思った。

「だから私はお稲荷様から、産まれてこのかた守られているんだって。佐助と仁吉は、お稲荷様が遣わして下さった妖なんだとじい様は仰った」
「お稲荷様の遣い……」

八千重は、いまいちピンとこなかった。
それが何故なのか考えて、八千重は合点がいった。
自分は、二人の本性を知らないのだ。

「二人は、妖狐なの?」

お稲荷様の遣いならばと聞いた八千重だったが、一太郎は頭を振った。

「仁吉は白沢。佐助は犬神という妖だよ」
「白沢…、犬神……」

八千重は、その名に聞き覚えがある気がした。
だが、どこで聞いたのか思い出せない。

「どうかした?」

首を傾げ唸りだした八千重に、一太郎が訝しむ。

「…ううん。何でもない」

勘違いかな、と思うことにして、八千重は一太郎に笑んで見せた。

「どんな姿なんだろうと考えてただけ。…若だんなは知ってる?」
「そういやぁ見たことないねえ。この本に載っているかしら」

言いながら頁をめくりだした一太郎の手元を八千重も覗き込んだ。
結果として、二人の本性は載っていなかった。
肩を落とす二人の耳に、足音が聞こえてきた。

(誰かな?)

八千重が顔を上げると、ひょっこり顔を出したのは菓子屋の跡取り息子だった。

「栄吉!」

一太郎が嬉しそうに笑う。
栄吉もにこやかに笑んで、近くに来て座る。

(この人が…栄吉さん)

八千重は栄吉に会うのは初めてだった。
思わずじ、と見ていると、栄吉と目が合う。
途端に栄吉は顔をサッと赤らめ、一太郎に耳打ちする。

「………あ、そうか。二人とも対面するのは初めてだったね。紹介するよ」

こそこそと、この方は誰かと聞かれた一太郎が栄吉の言葉に、はっとして二人を見交わす。

「話したことあったよね? 菓子司三春屋の栄吉。私の幼馴染みなんだ。で、こちらが開次先生の一人娘の八千重ちゃん」
「貴女が―――…初めまして、栄吉です。宜しく」
「こちらこそ。どうぞお千重と呼んでくださいね」

にっこりと微笑む八千重に、栄吉の顔が真っ赤に染まった。
そんな栄吉に、一太郎は胸がもやもやとして顔を歪めた。
昨日も感じた感情に一太郎は首を傾げる。

「一太郎、これ。俺が作ったんだ…餡こを使わない生菓子なら、結構上手くなってきたよ」
「それは楽しみだね」
「あ、よかったら君も食べてよ」
「良いんですか? 嬉しい」

八千重は栄吉の言葉に嬉しそうに笑う。

「じゃぁ俺はもう行くよ」

言って、三春屋に帰っていく栄吉を見送ってから一太郎は栄吉から受けとった包みを開ける。
成り行きを黙って見ていた鳴家が我先にと顔を出す。
今日は団子らしい。
草団子に黄粉団子、みたらし団子…八千重は顔を綻ばせる。
ついでに鳴家の顔も同じように綻んでいる。

「黄粉は滋養に良いよ。若だんな、たんと食べてね」
「…お千重ちゃんたら」

横から覗いた八千重が、いそいそと茶を淹れ始める。
一太郎は、八千重の言葉に複雑そうに笑う。

「おや、お千重さん、お茶なら私が淹れます」

ちょうど若だんなの様子を見にやって来た仁吉が、八千重にそう言って近寄る。

「仁吉さん」

八千重から急須をやんわりと取り上げる仁吉を見て、咄嗟に頭に浮かぶ白沢の名。
姿は想像するしかないが、その名の通り真っ白なのではないかと八千重は思う。
その腹の中は、真っ白とは言えないだろうが…。

「先程誰かお見えになりましたね? 栄吉さんですか?」
「そうだよ。菓子を届けてくれたんだ」

八千重は急須を仁吉にとられたので、菓子を出している一太郎の方を手伝う。

「―――…そういえば、下手人が捕まっていないっていう薬種屋殺しの件、私詳しく知らないんだ。若だんなは知ってるんでしょう?」

ふと思い出して問うと、若だんなは驚いたような顔をして固まっていた。
その様子に八千重は怪訝そうに首を傾げる。

「若だんな?」
「…知っているよ。知りたいの?」
「……うん、気になる」

どこか神妙な面持ちの一太郎が気になったが、八千重は素直に頷いた。

「では、若だんなに代わり、私がお教えしましょう」
「仁吉さん」

手渡された温かいお茶を受け取り、八千重は一太郎を見る。

「若だんなが話し疲れてしまいますから」
「それくらいで倒れないよっ」
「お願いします」
「お千重ちゃんまで…」

一太郎は不満げに顔を顰める。