「え、お千重ちゃんが!?」

あれから程なくして神田明神の境内の一角で休んでいるところを仁吉に発見された一太郎は、聞かされた話に目を丸くした。
それから両の親は元より、兄やたちや店の奉公人たちにまで迷惑と心配をかけたと肩を落とす。
しかも、目当ての人とは会えなかったので、余計に落ち込む。

「襲われて怪我をしたって…大丈夫なのかい?」
「本人はそう仰ってました」

そう、と一太郎は頷き仁吉が拾った辻駕籠に乗り込む。

「………心配だな」

ぽつりと呟いた声は、駕籠を担ぐ掛け声に掻き消された。





「八千重!? なんで―――…一体、それは…何があったんだ?」

血の赤に斑に染まった着物を着て、しかも右腕に晒まで巻いた娘が、日限の親分と帰宅したので父、開次は目を白黒させた。

「ちょいと殺人事件に巻き込まれちまってね、話はお千重ちゃんから聞いてくれ」
「殺人!?」

開次は悲鳴に似た声を上げた。

「おとっつぁん、落ち着いて。私は大丈夫……ちょっと怪我しただけだから」
「大丈夫じゃないじゃないか!」

慌てて傷を診ようとする開次に苦笑して、八千重は日限の親分に向き直る。

「ありがとうございました」
「ああ、下手人は捕まったんだ。安心してな」
「はい」

頷き、帰って行く日限の親分を見送る。
だが親分の姿が見えなくなる前に開次に呼ばれ、有無を言わせずに傷口を診せることとなった。

「―――…そうか、そんなことがあったのか」

傷口に薬を塗り、晒を巻いている開次は、八千重が話した事の顛末に顔を顰める。
ちらりと見れば、娘の着物の裾は少し短く、破いた後があった。

「…頑張ったね」

ゆっくりと頭を撫でる。

「でも、助けられなかったの」
「私でも助けられなかったさ。…他の患者さんを一生懸命救えばいいんだ」
「……薬も駄目にしちゃったし、薬種も買えなかった…」
「東屋には、明日また届ければいい。長崎屋は、今日は若だんなが行方不明になったってんで店を閉めていたから、薬種は買えなかったんだよ」

開次は苦笑する。
開次も大概一人娘に過保護な風があるが、その開次から見ても長崎屋の若だんなに対する態度は異常に見えるらしい。

「それは仁吉さんから聞いて知ってる…けど、ちゃんと見付かったのかな?」
「ははは、大丈夫だろう。若だんなももう十七なんだ」

笑って開次は手当に使用した薬等をしまっていく。

「それより、着替えておいで」

言われて、八千重は自分の着物の様子に思い出した。
慌てて自分の部屋に引っ込んで行った娘に、開次は息を吐く。

「…命が無事で良かった。お小夜、感謝するよ」

今は亡き八千重の母親にぽつりと礼を述べた。
開次は、小夜が自分たち二人を守ってくれていると信じていた。

「?」

そこで、開次は玄関から聞こえた声に足を向けた。


「おとっつぁん? 今、誰かお客様が……あら、日限の親分さん」

八千重はきれいな着物に着替えて、戻ってみると玄関で先程見送った筈の日限の親分が居て驚いた。

「やあ、お千重ちゃん」
「さっき別れたばかりなのに…どうしたんです?」
「ああ、おさきの薬が切れかけてるのを忘れててね。貰いに戻って来たんだ」
「……そうですか」

八千重は浮かんだ疑問を飲み込み頷いた。
開次の顔が強張っているように見える。
また、日限の親分の様子も少しおかしかった。

「薬は私が用意するから、お前は夕餉の支度をしてくれないか?」
「はい、おとっつぁん」

頷き、踵を返しちらりと顔だけ振り返り盗み見ると、開次と親分は神妙な顔で話を再開したところだった。

(おさきさんの薬は一昨日届けたばかりなのに…)

薬はまだ足りている筈だ。
八千重は、何か自分に聞かれたくない話をしているのだろうと思い、夕餉のメニューを考えるために思考を回した。
右腕を怪我しているので、簡単なものしか作れないが、開次は文句を言わないだろう。
親分が帰った後も開次はどこか上の空で、夕餉を食べながら八千重は眉を寄せた。
何か、嫌な予感がした。
就寝前、八千重は鏡台の前で簪を手に今日の事を振り返る。

「きゅわきゅい、お千重寝ない?」
「眠くない?」
「ううん、今日は色々あって疲れたし、もう寝るよ」

笑って鳴家に応え、八千重は行灯を吹き消した。
鳴家が入っていた布団に自分も入る。

(鳴家がいて良かった)

八千重はそっと鳴家の頭を撫でる。
一人でいたら、亡くなった人の顔が頭に浮かんで眠れなかった事だろう。
撫でる手が心地好いのか、鳴家は擦り寄って来る。
八千重は鳴家の温もりにゆっくりと夢の世界に身を委ねていった。

「おやすみ」

その声は闇の中に、溶けて消えた。





「こんにちは、若だんな」
「こんにちはお千重ちゃん。いらっしゃい」

翌日、八千重は長崎屋の離れにいる一太郎と顔を合わせていた。
というのも昨日買いそびれた薬種を買うため…だったのだが、今日は少し勝手が違った。

「無事で何よりね」
「それはこっちの台詞さね。怪我は痛むかい?」

元気な様子の一太郎に微笑む八千重に一太郎は着物の袖から見える晒に目をやる。

「大丈夫。すぐに治るよ」

八千重は自分について来ていた鳴家が仲間と合流するのを見ながらケロリと明るく言う。
そんな八千重の前に佐助が茶を出す。
律義に礼を述べて、両手で包むように持つと、じんわりとした熱が伝わってきた。

「そういえば、今日は開次先生と一緒に来たんだって聞いたけど…どうしてだい?」

ふと思い出して問う一太郎の前にも、佐助が茶を置く。
その佐助も気になるのか、菓子鉢を置きながら八千重をみる。

「さあ?」

こくりと程よい熱さの茶を飲んで八千重は苦笑する。

「私も実はわからないの。今朝、私が長崎屋に行くと言ったら自分も行くって言い出して…」

朝、朝餉を食べて昨日買えなかった薬種と薬を届けてくると言った八千重に、開次は自分も行くと言いだした。
八千重は一人で大丈夫だと言ったのだが珍しいことに頑として譲らず、有無を言わせぬ態度で長崎屋まで来た。
忙しくなってきた開次の仕事は、二人で分担してなんとか成っている。
今は八千重が薬関係や雑用を請けている為、往診や急患などを除いて開次は家にいるのが常だ。
それは急患にすぐに対応するためなので、開次は自らなるべく家にいるようにしている。
それなのに、おかしな話だった。
八千重の話を聞いて、一太郎もそう思ったのか首を傾げる。

「理由は聞いたのかい?」
「聞いたけど、長崎屋のご主人にお話があるとかで……今話しているようだけど、一体何を話しているのやら」

何か失礼なことを言って、粗相をしてなければいいけど…と心配そうに話す八千重に、一太郎は苦笑いした。

「まあ、後できっちり問い質すからいいわ。それより、私は昨日の若だんなの他出の方に興味があるのだけれど?」
「え?」

一太郎は、昨日散々父と母、そして兄やたちに叱られたばかりで、顔が引き攣る。
佐助は、そんな一太郎の様子に笑みを押し殺してそろりと退出して行った。

「私も、仁吉さんに聞いて心配したのよ? あんな事件に遭った直後だったし…」
「あー…」

確かに、一太郎も八千重の立場だったなら、心配になるだろうし、他出の訳も知りたくなるだろう。
散々叱られたのであまり話したくはなかったが、だが何故だか八千重には聞いて欲しいと思った。

「情けない話なんだけどね」

一太郎はそう前置きして話しだした。
昨日の他出の訳を。


一太郎は長崎屋の一粒種。
大事な大事な跡取り息子。
だが、驚く程体が弱い。
季節の変わり目には必ず風邪を引き、高熱を出して寝込み、また流行り病にも欠かさず罹る。
その度に生死を彷徨い、両の親は心配し倒れ、兄やたちは必死で看病し、奉公人たちは危惧する。
生まれてから数えで十七年、無事に一年が過ぎたことはなかった。
いつだったかまだ幼少の頃、また体調を崩して寝込んでいた一太郎に、親戚の者たちが見舞いに来た。
そのとき、一太郎は自分に『兄』がいることを知ったのだ。
一太郎が病気で苦しむその枕元で、一太郎が死んだら誰がこの店を継ぐのかという話をしていた親戚らは、当然の様に藤兵衛がよそに産ませ、出された…腹違いの兄、松之助の話をした。
一太郎は最初は話が噛み合わずわからなかったが、話を聞いてるうちにやがて理解した。

「……私は、自分の体がどれだけ不甲斐ないか心得てる…自分のことだからね。だから、兄さんに会おうと思ったんだ」

二親は、寝付く度に心を痛め、神に祈り、助かると安堵する。
だが一太郎が寝付かずとも、いつまた寝込むか、今度も助かるのかと心配が絶えない。
いつ死ぬかわからない跡取りが跡を継いでも、奉公人たちは生活がかかっているんだ…心配する。
回りに心労ばかりを与えて、何の役にもたてない自分。
それならば、自分の代わりに体の丈夫な跡取りをと考えてしまうのだ。
松之助なら、腹違いでも藤兵衛の息子であるのだから、資格は充分だと思ったのだ。

「幼馴染みの栄吉に頼んで、探してもらったんだ。それで…」
「昨日抜け出して会ってきた?」