嘆きのマートルのトイレから出た5人は、ハリーをからかいつつもフォークスの先導に従い、廊下を歩いていた。
ロックハート以外は、フォークスが何処へ連れて行こうとしているのか途中で気付いていたが、誰も否やを唱える者はいなかった。
ただ、ジニーがぎゅう、と不安を紛らわすように繋いでいるアスカの手を握ったので、アスカは黙ってジニーの手を握り返した。
そうしている内に、5人はとある部屋のドアの前に着いた。
ハリーは、躊躇することなくノックすると、ドアを押し開いた。
ハリー、ロン、ジニー、ロックハート、そしてアスカが、泥まみれで…更にはハリーは血まみれで戸口に立つと、部屋の中は一瞬沈黙に包まれた。
だがすぐに叫び声が響いた。

「ジニー!」

ロンやジニーの母である、ウィーズリー夫人だった。
暖炉の前に座って、泣き続けていたであろうその真っ赤になった顔のウィーズリー夫人は飛び上がってジニーに駆け寄り、泥だらけの娘を、自分が汚れることも厭わず抱きしめた。
すぐに父であるウィーズリー氏も続いて、ジニーを抱きしめる。
アスカはそっと繋いでいた手を離そうとしたが、ジニーから行かないで、とばかりに握ってきたので、黙ってジニーの隣に立っていた。
ジニーの様子を気に掛けつつも、ウィーズリー夫妻のその更に奥にいるこの部屋の主の姿を見止めると、背筋が伸びた感覚がした。
だがその隣にニッコリと笑う恩師の姿があるのが分かると、安堵感で満ちた。
ダンブルドアはホグワーツにいないとリドルは言ったが、なんだ居るじゃないか、と。
その隣のマクゴナガルは、大きく深呼吸をして、落ち着こうとしているようだ。

(考えてみれば、フォークスが連れていく場所なんてダンブルドア先生の場所以外にないわよね)

忠誠心の高い不死鳥の習性を度忘れするくらいにはアスカも緊張していたようだ。
そんなフォークスは、ダンブルドアの肩に止まって、嘴を擦りつけ甘えている。
アスカがそんな光景を眺めていると、グィイッと引っ張られて、次の瞬間にはウィーズリー夫人にきつく抱きしめられていた。
勿論、ハリーとロンもだ。

「あなた達があの子を助けてくれた! あの子の命を! どうやって助けたの?」
「私達全員が、それを知りたいと思っていますよ」

感激しているウィーズリー夫人に頷くようにマクゴナガルが呟いた。
ウィーズリー夫人から解放されたハリーは躊躇しているようにアスカを見てきたので、アスカはコクリと頷いてハリーのベルトに挟んである物を見て促す。
ハリーはアスカの視線の先に気付くと、デスクまで歩いていき、組分け帽子と大きなルビーのちりばめられた剣、それから穴の空いたリドルの日記帳をその上に置いた。
そうして、ハリーは自分が体験し、見聞きした全てを語り始めた。
その場にいた聞き手は、魅せられたようにハリーの話に聞き入った。
ハリーが話している間、ジニーは不安で不安で堪らないのかぎゅう、とアスカの手を握り、震えていた。
ハリーが話したのは、変な声が聞こえたこと、それが水道パイプの中を通るバジリスクだとハ−マイオニーが気付いたこと、ロンと2人でクモを追って森に入ったこと、アラゴグがバジリスクの犠牲者がどこで死んだのかを話してくれたこと、『嘆きのマートル』がその犠牲者ではないかと気付き、トイレのどこかに『秘密の部屋』の入口があるのではないかと考えたこと。
そこまで話してハリーが一息吐いたタイミングで、マクゴナガルが頷いた。

「そうでしたか。それで入口を見つけたわけですね―――…その間、約100の校則を破ったと言っておきましょう。ですがポッター、一体全体、どうやって全員生きてその部屋を出られたというのですか?」

マクゴナガルに続きを促され、ハリーは多少ばつの悪そうな顔をしつつも再度口を開く―――…が、言葉が出てこなかった。
これまでハリーは、リドルの日記についても、ジニーについても触れずに話していた。
だが、ここから先を話すには触れないわけにはいかない。
ハリーはチラリとジニーを見た。
ジニーはウィーズリー夫人の肩に頭を凭せ掛けて立っている。
逆隣りにはその手を握るアスカの姿があったが、ジニーは静かに涙を流していた。

(ジニーが退学させられたらどうしよう?)

ハリーが懸念しているのはそのことだけだった。
ハリーは助けを求めるかのようにアスカを見ると、気付いたアスカは微笑むとハリーの代わりに口を開いた。

「アルバスおじいちゃん、聞きたいのはヴォルデモート卿の手口、ですよね?」
「おお、そうじゃな。おいでアスカ。君が無事な姿を見ることが出来てわしは本当に心から嬉しいんじゃ」
「………………はい」

また演技臭い事を…と内心思いながらも、分かりやすく『アルバスおじいちゃん』と呼んだのは自分である。
アスカがジニーの赤毛を大丈夫だと優しく撫でてからダンブルドアの元へ歩み寄ると、ようやく言葉を理解したのだろうウィーズリー夫妻が狼狽えた。

「な、なんですって?」
「『例のあの人』が関わっていると? どういうことなんですか?」

アスカは、デスクの上に置いてある日記帳を手に取ると部屋の全員に見えやすいように掲げた。

「この日記帳をジニーの荷物に紛れ込ませ、ホグワーツに送り込んだ人がいるようです。ジニーはそいつに利用されたのです。この日記の持ち主は、トム・リドル。ダンブルドア先生は、彼をよくご存知でしょう?」

アスカは、手にしていた日記帳をダンブルドアに差し出す。
続きは…この後の展開はお分かりですよね?、と意思を込めて差し出したトム・リドルの日記を、ダンブルドアは頷いて受け取った。

「見事じゃ。確かにわしは彼をよく知っておる。彼はホグワーツ始まって以来、最高の秀才だったと言えるじゃろう」

ダンブルドアは、アスカの頭を優しい手つきで撫でると、何が何だか分からない、という顔をしているウィーズリー夫妻に向き直った。

「ヴォルデモート卿が、かつてトム・リドルと呼ばれていたことを知る者は、ほとんどいない。儂自身、50年前、ホグワーツでトムを教えた。卒業後、トムは消えてしまった……遠くへ。あちこち旅をして、闇の魔術にどっぷりと沈み込み、魔法界でもっとも好ましからざる者たちと交わり、危険な変身を何度も経て、ヴォルデモート卿として再び姿を現した時には、昔の面影は全くなかった。あの聡明でハンサムな男の子、かつてここで主席だった子を、ヴォルデモート卿と結びつけて考える者はほとんどいなかった」
「でもジニーが……うちのジニーが、その―――その人と、何の関係が?」

ウィーズリー夫人の問いに答えたのは、当のジニー本人だった。

「その人の、日記に、わ、私いつもその日記に、か、書いていたの。そしたら、その人が、私に今学期中ずっと…返事を、くれたの……」
「ジニー!」

ジニーの言葉に、まるで雷にでも打たれたかのようにウィーズリー氏が仰天して叫んだ。

「パパはお前に、なんにも教えてなかったというのかい? パパがいつも言っていただろう? 脳みそが何処にあるか見えないのに、独りで勝手に考えることが出来るものは信用しちゃいけないって! 教えただろう? どうして日記をパパかママに見せなかったの? そんな妖しげなものは、闇の魔術が詰まっていることははっきりしているのに!」
「わ、私、知らなかった」

ジニーの目からまたポロポロと涙が零れ落ち、しゃくり上げながらぶんぶんと頭を振る。

「ママが準備してくれた本の中にこれがあったの。私、誰かがそこに置いていって、すっかり忘れてしまったんだろうって、そ、そう思った」
「――ウィーズリー夫妻、先程お伝えしたように、ジニーの荷物の中に狡猾に紛れ込ませた者がいるのです。どうかあまり責めないでください…確かに、ジニーは家族に相談した方が良かった――――…けれど、相手はヴォルデモート卿ですよ? 大人でもその名を聞いただけで…口にするのも恐れるほどの人物の策略です。ジニーは、それでもどにかしようと独りでも抗った……そして、生きて帰ってきたのです。死んだら、叱ることも抱きしめることも、成長した姿を見ることも、出来なくなりますよ…お分かりでしょう?」

言わずに見届けることも出来た。
むしろ、それが正解の対応だったろう。
だが、もう少しでハリーを…愛しい子を失くしてしまっていたかもしれない恐怖を味わってしまったばかりのアスカは、口を出さずには入れなかった。
12歳の小娘がなにを偉そうに、知ったような口を開くんじゃない、そんな言葉が返されるだろうとアスカは若干身構えていた。
だが、降りてきたのは優しい声とぎゅうぎゅうに締めつけてくる腕だった。

「ベル! ベル、ありがとう。ベルのあったかい手、とても安心したの…ありがとう! 助けてくれて、ありがとう!」
「娘を助けてくれてありがとう!」
「娘のために…ありがとう」

3方向から抱きしめられて、急に視界が暗くなってしまったアスカは驚くばかりで何がおきてるのか理解するのに時間を要した。

「Ms,ウィーズリーは、医務室に行った方が良いじゃろう。娘の言う通り、苛酷な試練じゃったろう。勿論、処罰はなしじゃ。安静にして、熱い湯気の出るようなココアをマグカップ1杯飲むが良い。わしははいつもそれで元気が出る」

混乱の魔法を解いたのはダンブルドアの言葉で、腕から解放されたアスカはほう、と息を吐いた。

「マダム・ポンフリーはまだ起きておる。マンドレイクのジュースを皆に飲ませたところでな。きっと、バジリスクの犠牲者達が今にも目を覚ますじゃろう」
「それじゃ、ハーマイオニーは大丈夫なんだ!」

ダンブルドアが続けて言った朗報に、ロンが嬉しそうに言った。
それに笑顔でダンブルドアは頷く。

「回復不能の傷害は何もなかった」

ウィーズリー夫妻がジニーを連れて部屋を出て行った。
その背をずっと見送っていたアスカは、ジニーは大丈夫そうだと微笑む。

「のう、ミネルバ」

ダンブルドアが徐にマクゴナガルに向かって考え深げに話しかける。

「これは1つ、盛大に祝宴を催す価値があると思うんじゃが、厨房にそのことを知らせに行ってはくれんかのう?」
「わかりました」

マクゴナガルはいつものようにキビキビと答え、ドアの方へ向かう。

「ポッターとウィーズリー、ダンブルドアの処置は先生にお任せしてよろしいですね?」
「勿論じゃ」

ダンブルドアの返答を聞くと、マクゴナガルは部屋から出て行った。

マクゴナガルが出て行った途端、アスカはズルズルと暖炉近くの椅子に座り込んだ。
ようやく気を張らなくてもいいと思った瞬間に、足に力が入らなくなってしまったのだ。
自分で思っていたよりも大分疲れていたようだ。
暖炉に灯る暖かな火が、地下深くで泥だらけになって冷えた身体を温めてくれた。
だが、ハリーもロンも、部屋を出ていく間際のマクゴナガルの言葉が気にかかってそんなアスカの様子にも気付かない程、固唾を呑んでダンブルドアの言葉を待っていた。
アスカは不安そうにしているハリーとロンを見てから、長い顎髭を撫でつけて逡巡している素振りをしている…が、その実はただ勿体ぶっているだけのダンブルドアを見て呆れたように嘆息した。

(あたしもハリーも、それからおそらくロンも、疲れてんだからさっさと終わらせてよね、こんの狸爺は…)

「アルバスおじいちゃん?」

にっっっっこりと微笑んで、早くしろと促すアスカに、ダンブルドアは思わずなのか笑顔を見せた。

「わしの記憶では、君たちがこれ以上校則を破ったら退校処分にせざるを得ないと言いましたな。じゃが、誰にでも過ちはあるものじゃ。わしも前言撤回じゃ」

ダンブルドアの言葉に、ハリーとロンの表情がみるみるうちに明るくなる。

「2人とも『ホグワーツ特別功労賞』が授与される。それに―――そうじゃな…うむ、1人につき200点ずつグリフィンドールに与えよう」

ロンの顔が、まるでロックハートのバレンタインの花のように明るいピンク色に染まった。
アスカは満足そうに微笑んで、うんうんと頷く。

(これならきっとご褒美に新しい杖を買ってもらえそうだね)

折れてしまった杖に散々振り回されていたロンを見ていたので、子だくさんのウィーズリー家には負担なのだろうと分かってはいるが、巻き込まれることも多かったアスカ達としては喜ばしいことだ。

(ふむ…こっそり寄付でもしようかしらね…でも、余計なお世話かな? 親の矜持を傷つけるのも良くないかな…ううん……)

アスカがこっそりとどうしようかなと悩んでいると、「ところで…」というダンブルドアの声が聞こえてきて視線を上げる。

「1人だけ、この危険な冒険の自分の役割について、恐ろしく物静かな人がいるようじゃ―――ギルデロイ、随分と控えめじゃな。どうした?」

不思議そうなダンブルドアの声に、彼の人の存在をすっかり忘れていたことを3人は思い出して、各々が驚いた。
慌てて視線を移せば、ロックハートはまだ曖昧な笑みを浮かべて部屋の隅に立っていた。
ダンブルドアに呼びかけられているのに、自分が呼ばれているとは分からず、誰が呼ばれたのだろうかと辺りを見渡している。

「『秘密の部屋』で事故があって…ロックハート先生は―――「おやまあ、私が先生? それは―――…役立たずのだめ先生だったでしょうね?」……あ―――…ロックハート先生がかけようとした『忘却術』が…杖が、逆噴射したんです」

ロンの言葉で、自分が先生だったと知ってロックハートは眉を落として苦笑いをして呟いた。
狭い部屋では全員に聞こえてしまい、アスカはなんだか複雑な気持ちになった。

(今までの所業を鑑みるとまったくもってその通りなんだけど―――…なんだか、ちょっと…可哀想に思えてしまう…けど、果たして彼はマダム・ポンフリーの手で元に戻せるのかしらね? 彼にとっても、あたし達にとっても、このままの方が幸せなのかもしれないわ…今の彼は、常識が通じそうだしね)

「なんと! 自らの剣に貫かれたか、ギルデロイ!」

ロンの説明で、おそらくは何があったのか大体把握したであろうダンブルドアの銀色の口髭が小刻みに揺れた。
ロンの折れてスペロテープでぐるぐる巻きになっていた杖を、ダンブルドアだって知っている。
その杖をロックハートが使ったということはどういう状況だったか…簡単に推察出来た。

「剣? 私は剣なんか持っていませんよ。でも、その子が持っています。その子が貸してくれますよ」

そう言ってハリーを指差すロックハートを、ダンブルドアは医務室に連れて行くようにロンにお願いした。
ロンは、部屋に残ることになるハリーとアスカを気にしていたようだが、アスカが大丈夫だと頷いてみせると安心したのか、ロックハートを促して退室して行った。

「ハリー、君に話したいことがある」

そう言って、ダンブルドアはアスカの隣の椅子に腰掛け、ハリーも座るように微笑んで促す。
ハリーは、なぜか胸騒ぎを覚えつつもおずおずと腰をおろした。
途端に疲れがどっと溢れてきて、暖炉の暖かさも相俟ってほう、と息を吐く。

「まずは、ハリー、礼を言おう」

ダンブルドアから放たれた最初の言葉に、ハリーは面食らって落としていた視線を上げる。
ダンブルドアの目は、キラキラと輝いていた。

「『秘密の部屋』の中で、君はわしに真の信頼を示してくれたに違いない。それでなければ、フォークスは君の所に呼び寄せられなかったはずじゃ」

いつの間にかダンブルドアの肩から膝へ移っていたフォークスを、ダンブルドアは優しく撫でている。
フォークスが現れた時の事を思い出して、ハリーはぎこちなくニコっと笑った。

「ベルのこともじゃ。我が子ながら優秀な子じゃが、それでもヴォルデモートとバジリスクを相手にするのは厳しかったじゃろう…ジニー・ウィーズリー君を人質にとられていれば、おそらく自らついていくことを選択したかもしれん―――…君がいたから、この子はここでこうして笑っていられるんじゃ」
「そんな―――…」

ダンブルドアの言葉に、ハリーはまさか、と思わずアスカを見るが、当のアスカもその状況なら確かについていったかもなあ等と考えて苦笑いを見せる。
その表情に、ハリーの顔がさあっと青冷めた。

「ありがとう、ハリー」
「いえ……ベルは大事な親友ですから…それに、僕もベルにはいつも助けてもらってます」

ハリーは青い顔でぶんぶんと頭を振って答えた。
ダンブルドアは大きく頷いて、また口を開く。

「―――それで…、君はトム・リドルに会ったわけじゃな。多分、君に並々ならぬ関心を示したことじゃろうな」

その言葉で、ハリーの胸に今までしくしく突き刺さっていた何かが、突然口から飛び出した。

「ダンブルドア先生…、僕がリドルに似ているって彼が言ったんです。不思議に似通っているって…そう言ったんです」
「ほぉ、彼がそんなことを? ハリー、君はどう思うかね?」

ダンブルドアは、ふさふさの銀の眉の下から思慮深い目をハリーに向けた。

「僕、あいつに似ているとは思いません!」

ハリーの声は、ハリー自身でも驚くほど大きかった。

「だって僕は―――僕は、グリフィンドール生です。僕は…」

続けようとして、ハリーは口を噤んだ。
ずっと、もやもやしていた疑いがまた鎌首をもたげたのだ。
言おうとして、その場にアスカがいることを思い出したハリーは、黙って話を聞いているアスカをちらりと見た。

「―――あたしも医務室でココアでももらって来ます」

自分が居てはハリーが話しづらいようだと感じ取ったアスカが席をたとうとするが、ハリーが慌ててそれと引き留めた。

「―――大丈夫だから、君もここにいて! ベル」

ガシリと掴まれた手にアスカは吃驚しながらも、ハリーが良いなら…と上げかけたお尻を元に戻した。

「―――先生、『組分け帽子』が言ったんです。僕が…僕がスリザリンでうまくやっていけただろうに、って。皆は、しばらくの間、僕をスリザリンの継承者だと思ってました。僕が……蛇語を話せるから……」

ハリーがおずおずと話した内容に、アスカは覚えがあった。

(そういえば、あの時…ロンが、もしスリザリンに組分け帽子に入れられたらって話していた時、ハリーは―――…何も言ってなかった…笑ってはいたけれど……。もしかして、否、その前からずっと気にしていたんじゃないだろうか?)

きっと、あの時この話をしなかったのは、ロンや自分達の反応を恐れていたんじゃないか……だからきっと話せなかったんじゃないか、アスカは思った。
そうでなければあの時に話していただろうし、更には、今も言い出す前にアスカを気にしたりなんてしないはずだ。

(―――馬鹿だなあ…ハリーは……)

アスカは、ハリーが膝の上でぎゅう、と硬く握りしめている両手にそっと手を伸ばした。
急に訪れた温もりに、ハリーはビクリとして自分の手に置かれた小さな手に気付くと、その先を辿るように視線を移した先で、アスカの表情を見て戸惑う。
口を開こうとしたが、それより先にダンブルドアが口を開いた。

「ハリー、君は確かに蛇語を話せる。何故ならヴォルデモート卿が…サラザール・スリザリンの最後の子孫である彼が、蛇語を話せるからじゃ。わしの考えがだいたい当たっているなら、ヴォルデモートが君にその傷を負わせたあの夜、自分の力の一部を君に移してしまった。勿論、そうしようと思ってしたことではないのじゃろうが……」
「ヴォルデモートの一部が僕に?」

雷に打たれたようにハリーがダンブルドアを見る。

「どうもそのようじゃ」
「それじゃ…僕はスリザリンに入るべきなんだ」

ハリーが絶望的な目でダンブルドアの顔を見つめて、わなわなと震えた声で呟く。

「『組分け帽子』が僕の中にスリザリンの力を見抜いて、それで―――…」
「それで? 貴方は今、どこの寮に入ってるの?」
「え…」

ぎゅう、とハリーの手の上に添えたアスカの手に力がこもり、驚いたようにハリーはアスカを見た。
アスカは不安になっているハリーに、自分の気持ちが全部伝われば良いのに…と思っていた。

「ハリー、よくお聞き。サラザール・スリザリンが自ら選び抜いた生徒は、スリザリンが誇りに思っていた様々な資質を備えていた。君も、たまたまそういう資質を持っておる。スリザリン自身の、希にみる能力である蛇語、機知に富む才知、断固たる決意、やや規則を無視する傾向……だが、それでも『組分け帽子』は君をグリフィンドールに入れた。それは何故か? 君はその理由を知っておる。考えてごらん」

最後には悪戯っぽく笑みを浮かべて、ダンブルドアがハリーの思考を導くように問えば、ハリーはあの時の事を思い起こしてみる。

「帽子が、僕をグリフィンドールに入れたのは……僕が…僕が、スリザリンに入れないでって頼んだからだ」
「その通り」

にっこり笑うダンブルドアとは対称的に、ハリーは打ちのめされたように顔が青冷めていた。

「だからこそ、君がトム・リドルと違う者だという証拠になるんじゃ。ハリー、君が本当に何者かを示すのは、持っている能力ではなく、自分がどのような選択をするかということなんじゃよ」

そう続いたダンブルドアの言葉に、ハリーは呆然として身動ぎもせずに座っていた。

「君がグリフィンドールに属するという証拠が欲しいなら、ハリー、これをもっとよーく見てみるとよい」

ダンブルドアは、マクゴナガルの机の上に手を伸ばし、ハリーが置いたあの銀の剣を取り上げ、ハリーに渡した。
アスカの手がさっと引き、ハリーがダンブルドアから受け取った剣をぼんやりと見ながら、裏返す。
ルビーが暖炉の灯りできらめく。
その時、鍔のすぐ下に名前が刻まれているのを見つけた。
その名前を読んで、ハリーの目が驚きに揺れた。

“ゴドリック・グリフィンドール”

「真のグリフィンドール生だけが、帽子から、思いもかけないこの剣を取り出してみせることが出来るのじゃよ、ハリー」
「……………………」

ハリーは、信じられないような気持ちで刻まれた名前を見つめていたが、
何度確かめて読んでみてもその名前は変わらないし、消えたりもしなかった。

「ハリーにはたくさんの資質があったから、色んな寮に入ることが出来たんだね。それって凄いことだよ。ハリーが同じ寮を選んでくれて良かった。そうじゃなきゃ、あたしはきっと今ここには居られなかったかもしれないもの」

アスカが微笑んでそう言うと、ハリーは手元の剣から視線をアスカに移して静かに頭を振った。

「そんなことないよ。例えベルと寮が違ったとしても、僕達は友達だったろうし、僕は君を助けに部屋に行ったよ」
「………うん、ありがとうハリー。あたしも、逆の立場だったらそうしてたよ」

アスカの言葉の意味は、ハリーの受け取った意味とは違ったのだけれど、それでもアスカは嬉しくて笑みが零れた。
そうしてしばしの優しい時間が流れたのだが、アスカと見つめあっていたハリーは、ふとアスカの瞳の色がいつもと違うことを思い出して、そっと笑みを抑える。

「あー…ベル、その…聞いても、いいかな? 君の―――その瞳の色についてなんだけど…」

言い出しづらそうに口にしたハリーの言葉に、アスカは驚いたように眼を丸くしたが、すぐに苦笑してコックリと頷く。

「ダンブルドア先生、構いませんよね? コレの事、話しても」
「そうじゃな、話しておかねばなるまい。何故ヴォルデモートがしつこくもベルを狙っているのか。ベルが知る限りのことを」

養父の意見を仰ぐように見たアスカに、ダンブルドアは同意するように頷いて見せた。
ここまでの道中、話すことになるだろうなと覚悟を決めたつもりでいたアスカだったが、改めていざ話すとなると緊張してきた。

「先ず、フィーレンについてだけど……実は、あたし自身そんなに分かってないんだよね。代々一族の者の中に、1人だけ能力を顕現する次代の当主となる者が産まれてくるんだけど…でも、ある程度の年齢になるまではそれが誰なのか分からないんだ。分かるのは当主のみで、選ばれる者に拒否権は存在しない。選ばれれば親から引き離され、その時から次代の当主としての徹底的な教育が始まる……アスカ…ママは、7歳で当時の当主であるお祖母様―――…あたしにとっては曾祖母様ということになるんだけど―――に、拉致のような形で両親から引き離され、お屋敷に軟禁状態でとても厳しく教育された――…みたい。そんな風に代々引き継がれていっていたみたいなんだけど―――まあ、ママの話は今はあんまり関係ないか」

話が若干逸れてしまったことに自分で気付いたアスカは、仕切り直すように1つ咳ばらいをして再度口を開いた。

「ごめん、フィーレンの能力について話すね。去年、あたしのことをケンタウロスが“ノルン”と呼んでいたのを覚えてる? あの時は分からないって言うしかなかったんだけど、本当は何故そう呼ばれているのか知ってるんだ。それというのも、フィーレン家の初代当主様は、それはすごい魔力の持ち主だったらしくて、現在・過去・未来を自在に視ることが出来たらしいの。マグルで有名な北欧神話の中で運命を司る3柱の女神がいるんだけど、それぞれ現在・過去・未来を冠していて…3柱の場合は“ノルニル”と呼ばれるのだけど、初代当主様はたった1人で全てを操れたから、“ノルン”と呼ばれていたみたい。初代様が没した後も、血族には一代に1人だけではあったけれど、初代様と同じ能力を扱える者が必ず現れた。代によって現れる能力やその強さに差はあったけれど、そうしてフィーレン家は魔法界で知らない者はいないとまで言われるまでの旧家の1つとして繁栄していたのね。ただ、初代様と同じように完璧な“ノルン”は現れなかったようだけど……魔法界で唯一無二の血によってのみ受け継がれる能力…使い方によってはそれは強力な力になる。ヴォルデモートが欲するには、十分な理由だったんだろうね」

どこか他人事のようにアスカは言ったが、ゴクリ、とハリーが生唾を呑んだ音が聞こえてきて、アスカは苦笑する。

「曾祖母様は“現在”を視ることが出来たけれど、魔力はそこまで強くなかった。次期当主のママの方が断然強くて……あっという間に、闇の陣営に敗して捕えられてしまった。貴重な能力を持つということでしばらくは生かされていたんだけど、矜持がとても強く性格もまぁ敵を作り易かったのが災いしてね……結局は、殺されてしまったみたい。現当主だった曾祖母が死んで、必然的にママが当主になったんだけれど……当時、ママはまだホグワーツに在籍してる学生だった。既に未来を視る能力が開花していたのでその能力を活用したり、初代が残したとされる隔離可能な時計塔も使って、闇の陣営から逃げ続けてホグワーツを無事に卒業することが出来たし、卒業した後も捕まることはなかった。けれど―――…ある日、ママは、とある未来を視てしまった」

話しながら、アスカの脳裏に、あの時の情景がまざまざと浮かんで来る。
激昂するジェームズ、泣き叫ぶリリーの悲鳴、ハリーの泣き声、走る緑の閃光。
フラッシュバックするかのように、次々移り変わる光景に動機が激しくなって次の言葉が出て来なくなってしまった。
締め付けるような胸の痛みに、思わず両手で胸を押さえて肩で息をしだしたアスカの様子に、ハリーは戸惑う。

「―――…ベル? ベル、大丈夫?」
「……ハリー、ありがとう。大丈夫…ここは、ハリーにちゃんと話さなきゃ…」

赤ちゃんのハリーの泣き声ではない、アスカを案じてくれている声に思い出から意識を浮上させたアスカは、深く深呼吸をして早鐘を打つ鼓動を少しでも落ち着けてから再度口を開いた。

「親友であるポッター夫妻が襲われ、産まれて間もない赤子までもがヴォルデモートに殺されてしまうという最悪の未来を視てしまったママは、自分が狙われているなんて頭から吹っ飛んでしまっていたんだろうね……安全な時計塔から自ら飛び出してしまったの。――――それからは、ハリーも知っているよね? 日刊預言者新聞にも記事にでたみたいだけど……ママは、死んでしまったんだって」本当は、死んでいなかったのだが、世間ではこう公表されているのだ。
自分がアスカフィーレン・だと今、告げるわけにはいかないアスカは、嘘をおり交ぜて話した。

「……ベル…僕、……僕…ごめんなさい」
「―――あぁ、ハリー。ハリーが謝ることなんて何にもないんだよ、そんなに重く受け取らないで? 悪いのはヴォルデモートだし、ハリーは命を狙われた被害者でしょう? 気にする必要なんてないんだよ。これは…全部ダンブルドア先生から聞いた話だし、アスカ・フィーレンは―――…結果的にママは、親友の愛する子供を守ることが出来たんだから。勿論全員無事だったら一番良かったんだろうけどね。ヴォルデモートは本当に、強かった……んだろう、ね」

アスカは笑ったつもりだったが、実際にはあまりうまくは笑えていなかった。
けれど、幸運にもハリーは視線を落としていたので見られることはなかった。

(考えておいたあたしの出自を、話す時だ。上手に話せればいいのだけど…)

きゅ、と唇を一度噛んでからアスカは続きを話し出す。

「ママが死んでしまい、必然的に最後のフィーレンになったあたしがその瞬間に当主になった。能力は開花していなかったけれど、幸いあたしの魔力は高かった。生存本能が働き、自分の望み通りに時計塔を動かしてなんとか命を繋ぎ止めていたときにダンブルドア先生があたしを迎えに来た――――まあ、その時の記憶なんてあるはずないから、全部成長してから聞かされた話なんだけど、両親がダンブルドア先生を名付け親に選んでくれたおかげであたしは助かった。そして、最後のフィーレンになったせいかは分かんないけど、あたしの能力の開花はママより早かった」

うまく話せているか不安になって、ダンブルドアをチラリと見れば、なにやらご満悦な表情を浮かべていたので、アスカは一気に気が抜けてしまった。

「ホグワーツに入学する前に、あたしは自分がホグワーツに入学するシーンを視た。黒髪のくせ毛の男の子と、のっぽで赤毛の男の子、それからふさふさの髪の女の子とあたしは笑って話してた。その時から、サファイアブルーだった瞳が、ピンクに変わったの。それから何度か未来を視たけれど、そうして分かったのは、能力の発動は自分でコントロール出来なくって、いつ未来を視ることになるか分からない事。能力が発動するときはまるで全身の血液が瞳に集中しているかのように熱くなり、
ピンクの瞳がその時だけ赤くなる事―――…ハリーが覚えているかは分からないけれど、ハリーと初めてダイアゴン横丁で会った時、あたしはまだピンクの瞳を完璧に隠せていなかった。認識を阻害する魔法をかけた伊達メガネで誤魔化してはいたけどね。ホグワーツ特急で再会した時、ハリーに雰囲気がなんか変わったか聞かれて、内心はすごく焦ってたんだよ。ダンブルドア先生から、自分の能力のことや自分の中に流れている血が、途絶えたとされているフィーレン族のものだと感づかれる事は絶対に避けなければならない。話してもならない。あたし自身も、知った人すらも危険になる。利用しようとする者が後から後から沸いて出て、更にはヴォルデモートに知られてしまえば、今度こそ逃がすことのないよう、地獄の果てまでだって追ってくるだろう……そう、聞かされていたんだよ」
「………………………」

アスカがようやく話し終えてハリーを見ると、ハリーは驚愕に目を丸くさせ、口は半開きでアスカを凝視していた。
あまりの反応の良さに、アスカはぎょっとしてしまった。

「は、ハリー?」
「ま、待って…ちょっと……衝撃的なことが多すぎて…理解が、全然追いつかないんだ」

ハリーの顔はその通り、混乱してます!、と言わんばかりだった。

「んー…長々と話してしまったけれど、要するに、あたしは未来を視ることが出来て、本当の瞳の色がピンク。そして、能力が発動する時は赤く変わるってこと。瞳の色を隠しているのは、目立たないようにするため。自分の事に関して話せなかったのは保身のためと、一緒にいてくれる人達に被害の芽が行かないようにするためだってこと。それぐらいかな」

自分が話したことを指を立てて要点だけ述べたアスカに、ハリーは勢いよく頭を振る。

「いやいやいやいや! それだけでも聞いた僕としては混乱する内容だからね!?」
「えぇー…?」

それじゃあ、自分が本当はアスカ・フィーレンなのだと無事にホグワーツを卒業した後に話した時には、ハリーはどうなってしまうのかとアスカは心配になってしまった。
それからハリーは大きな溜息を吐くと、気持ちを落ち着けてからもう一度アスカに視線を戻した。

「聞いたのは僕だし、そのおかげで色々腑に落ちたけど……1人で聞くんじゃなかったってちょっと後悔してるよ」
「それは…ちょっと、ひどくない?」

一部嘘も混ぜてしまったけれど、勇気を出して話したというのにあんまりじゃないか?、とアスカが若干傷ついていると、ハリーはもう一度、今度は短く嘆息した。

「この話、ロンとハーマイオニーにも話すの?」

真剣な顔のハリーの問いを受けて、アスカはゆっくりと頷く。

「ロンにはもう見られちゃってるし、後にしてって話してあるからね。勿論話すつもりだよ。ハーマイオニーには―――…ちゃんと仲直りしてから、ロンと一緒に、聞いてもらえたら嬉しい」
「分かった―――大丈夫だよ、心配しなくても、ハーマイオニーはベルのこと大好きだから。勿論、ロンも…僕だって、君のことが、だ…大好きだよ」

思春期故なのか、どこか恥ずかしそうに若干吃りながらも好意を伝えてくれたハリーに、アスカは嬉しくなってニッコリと笑みを溢した。

「うん。あたしも皆のこと大好きだよ!」

今まではさらりと口から出たのに、勝手に顔が熱くなってうまく口が回らなくなり、そんな自分に戸惑っているハリーと、心から嬉しそうに笑っているアスカの姿を優しく見守っていたダンブルドアは、パン、と1つ拍手を打った。
ハリーとアスカの注目を集めることに成功したダンブルドアは長い髭を撫でながら満足そうに頷く。

「さて、君達2人には食べ物と睡眠が必要じゃ。祝いの宴に行くがよい。わしはアズカバンに手紙を書いて、森番を返してもらわねばのう。それに、『日刊預言者新聞』に出す広告を書かねば……『闇の魔術に対する防衛術』の新しい先生が必要じゃ」

ダンブルドアはそう言って考え深げにしたが、アスカはアズカバンと聞いて弾かれたように口を開いた。

「アズカバンから森番を返してもらう…って、ハグリッドが連行されてしまってるんですか
「あ、そうか! ベルは居なかったから……もしかして、気付いてないと思うけど、もうすぐ期末テストだ」
「え……」

ハリーの言葉に、アスカは鈍器で殴られたような衝撃を受けて寸の間固まった。
「えぇぇえええええええぇぇえぇ!?」

アスカの反応にハリーが笑いながら席を立ち、そのままドアの取っ手に手を掛けた途端、ドアが勢いよく向こう側から開いた。
あまりにも乱暴に開いたので、ドアが壁に当たって跳ね返ってきた程だった。
ルシウス・マルフォイが怒りを剥き出しにして立っていた。
その腕の下で、包帯でぐるぐる巻きになって縮こまっているのはドビーだ。
現れた人物に、ダンブルドアの隣にいたアスカの表情がサッと警戒色を露わに強張った。

「こんばんは、ルシウス」

アスカとは違い、ダンブルドアはにこやかに挨拶した。
ルシウスは許可してもいないというのにヅカヅカと部屋の中に入ってきて、その勢いでハリーを突き飛ばしそうになった。
恐怖の表情を浮かべたドビーがルシウスのマントに裾の下に這いつくばる様にして小走りでついていく。

「それで! お帰りになったわけだ。理事達が停職処分にしたのに、まだ自分がホグワーツ校に戻るのに相応しいとお考えのようで」

ルシウスはダンブルドアを冷たい目で見据えた。
その口から出てきた内容に、アスカは片眉を上げて成程と内心頷いた。

(ダンブルドアがホグワーツにいないって言ってたのは、コイツのせいだったわけね。何人理事を脅したんだか……あぁ、だけどそうだった。まだ、貴方が残っていたわね)

アスカにとっての問題が、全て片付いていたわけではないことを本人を目の前にして思い出し、アスカはそっと目を細める。

「はて、さて、ルシウスよ。今日、貴方以外の11人の理事がわしに連絡をくれた。正直なところ、まるで梟の土砂降りに遭ったかのようじゃった。アーサー・ウィーズリーの娘が殺されたと聞いて、理事達がわしにすぐ戻ってほしいと頼んできた。結局、この仕事に一番向いているのは、このわしだと思ったらしいのう。奇妙な話を聞かせてくれての。
元々わしを停職処分にしたくはなかったが、それに同意しなければ家族を呪ってやると貴方に脅された、と考えておる理事が何人か居るのじゃ」

ダンブルドアが静かに微笑んで言えば、ルシウスの青白い顔が一層蒼白になった。
(本当にそんな子供染みた小細工で、ダンブルドア先生を罷免に追いやることが出来ると思っていたならよっぽどの大馬鹿者よ、ルシウス)

ざまあみろとばかりに、アスカが内心ほくそ笑んでいる姿が見えていればルシウスの態度はまた違ったのだろうが、怒りで視野の狭まったルシウスには残念ながら(アスカにとっては抱腹絶倒だが)、見えていなかった。

「すると、貴方はもう襲撃をやめさせたとでも? 犯人を捕まえたのかね?」

嘲るようにルシウスは言ったが、アスカに言わせればその姿は滑稽この上なかった。

「捕まえたとも」

ダンブルドアは相も変わらず微笑んでいる。

「それで? 誰なのかね?」
「前回と同じ人物じゃよ、ルシウス。しかし。今回のヴォルデモート卿は、他の者を使って行動したようじゃ。この日記を利用してのう」

ダンブルドアが真ん中に大きな穴の空いた黒い日記帳を、ルシウスに良く見えるように取り上げて見せると、ルシウスの眉がピクリと動いた。
ルシウスの背後では、ドビーとハリーが何やらアイコンタクトを交わし、ドビーが一生懸命ジェスチャーも加えて何かを訴えていたが、ハリーには伝わっていないようだ。
だが、事の真相をアスカはしっかりと気付いていた。
その為に、トンネルを歩く道中、ジニーからゆっくりと丁寧に聞き出していたのだ。

(残念だけど、証拠がないから、ルシウスをアズカバンへハグリッドの代わりに放り込む事は叶わないだろうが、それでも煮え湯を呑ませる事は出来るはず。ついでに、あたしに関わるなと釘を差しておかなくちゃね)

ダンブルドアとルシウスのやり取りを聞きながら、アスカは某悪戯仕掛人の友人のように不敵な笑みを浮かべた。

「成程……」
「狡猾な計画じゃ。何故なら、もし、このハリーが友人のロンと共にこの日記を見つけておらなかったら、ジニー・ウィーズリーが全ての責めを負うことになったかもしれん。ジニー・ウィーズリーが、自分の意思で行動したのではないと、一体誰が証明出来ようか?」

ルシウスはダンブルドアが示して見せたハリーを鋭い視線で見据えたが、ダンブルドアは抑揚を押さえた声で続ける。
微笑みはもうどこかへ消え去り、ルシウスの一挙手一投足を見逃しはしないとばかりに真っ直ぐ見つめている。

「そうなれば、一体何が起こったのか、考えてみるがよい。ウィーズリー一家は純血の家族の中でも最も著名な一族の1つじゃ。アーサー・ウィーズリーと、その手によって出来た『マグル保護法』にどんな影響があるか、考えてみるがよい。自分の娘がマグル出身の者を襲い、殺していることが明るみにでたらどうなったか……幸いなことに日記は発見され、リドルの記憶は日記から消し去られた。さもなくば、一体どういう結果になっていたか想像もつかん……」

ルシウスの顔は能面のようになっていたが、無理矢理口を開いた。

「それは、さぞかし幸運な」
「あら、マルフォイ氏は心にもないことを仰いますね?」

アスカはひょっこりとダンブルドアの背後から顔を出して、ルシウスを見上げる。

「っ、な……んだと?」

この部屋にアスカがいるとは思っていなかったのだろうルシウスの目が、戸惑いに揺れているのが分かり、楽しそうにアスカはピンクの眼を細める。
まるで舌舐めずりする蛇のようだと、ハリーは思った。

「ヴォルデモートが使った“他の者”の正体にご興味はありませんか? ジニーがどうやってトム・リドルの日記帳を手に入れたか、知りたいと思いませんか?」
「馬鹿な小娘がどうやって日記を手に入れたか、私が何故知らねばならないのだ?」
「はい、そうですよね。だって貴方はもうご存知ですものね」

アスカの言葉と、さっきから繰り返しルシウスと日記や自分を指さしてゴンゴンと頭を叩くふりを見せたりして、何かを訴えているドビーのジェスチャーに、ハリーは突然理解した。

「だって、どちらも貴方がやったことでしょう? 貴方がF & B書店で一暴れした後、ジニーに『変身術』の教科書を返す時に一緒に大鍋の中に日記を滑り込ませた。そうしてひっそりとホグワーツの内部に、ヴォルデモートの過去を侵入させたんです。なんにも知らない11歳の女の子を利用して」

アスカの眼光は鋭くルシウスを睨めつける。

「…何を証拠に」
「そうですね、仰る通り証拠はありませんし、誰も証明をすることは出来ないでしょう。ヴォルデモートの過去であるリドルは、またしてもハリーに敗れ、キレイさっぱり消えて失くなってしまいましたから。闇の帝王も無様なものです」

煽りに煽って、自滅してくれたら…という魂胆だったが、ルシウスは挑発に乗っては来なかった。
残念…、と思いながらも、それならば釘を差しておかなければとアスカはダンブルドアに視線を向ける。
ダンブルドアは、ニッコリ微笑みながら頷くと引き受けたとばかりに口を開く。

「ルシウス、忠告しておこう。ヴォルデモート卿の昔の学用品をばら撒くのはもうやめにすることじゃ。もし、またその類のものが罪もない人の手に渡るようなことがあれば、誰よりも先ずアーサー・ウィーズリーがその入手先を貴方だと突き止めるじゃろう」

ルシウスは一瞬立ちすくんだ。
12歳の小娘に良いように言われ、ダンブルドアに牽制され…杖に手を伸ばしたくて堪らないという様に右手がピクピク動くのが、ハリーにははっきりと見えた。
しかし、杖の代わりにルシウスは屋敷しもべ妖精の方へ怒りにぎらついた視線を向けた。

「ドビー、帰るぞ!」

ルシウスはドアをグイっとこじ開け、ドビーが慌ててルシウスの傍までやってくると、ドアの向こうまでドビーを蹴飛ばした。
八つ当たりに他ならなかった。
廊下を歩いている間中聞こえて来るドビーの痛々しい叫びにアスカは眉を顰め、ルシウスのクズさ加減に歯ぎしりする。
いくらブラックリストに載せた者であろうと、屋敷しもべ妖精であろうと、聞いていて楽しいものではないし、更にはハリーに見せたくも聞かせたくもない。
アスカは腹いっぱいに力を込めて怒鳴るように声を上げた。

「ルシウス・マルフォイ!!」

マクゴナガルの部屋の中にとどまらず、開けたドアの先の廊下にまで響き渡る声量で叫んだアスカの声に、ルシウスのみならず、ハリーやドビーでさえもビクリと肩を揺らして動きを止めた。
皆が驚愕に固まっている間に持ち前の俊足でズカズカと先程のルシウスに負けず劣らずの素早さでルシウスとの距離を詰めたアスカは、
廊下の真ん中で唖然としているルシウスに向けて冷めたピンクの目で睨め上げた。

「まだお帰りにはなりませんよね? あたし達、まだ話さなければならないことがあったと思いますが?」
「…………………………」

黙り込むルシウスに、アスカはコテリ、と首を傾げる。

「だんまりですか? あたしから息子さんにお返しした品について、息子さんから一切お聞きになっていらっしゃらない? それとも、12歳の小娘を相手に、どう対処するべきか迷っていらっしゃる? あぁ、それとも、あたしを復活したヴォルデモートへの贄にしようと思っていらっしゃったのに、思惑通りに事が進まなかったから腸が煮えくり返って言葉がうまく出てこないのでしょうか?」
「き…さま、黙っていれば言いたい放題と。貴様こそ何が言いたい?」

歯茎を剥き出しにしたルシウスの手が、躊躇なく杖を掴もうとしているのが見えて、アスカはわざとらしく髪を耳に掛けてそこに揺れる石がルシウスによく見えるようにしてやった。
石の存在を目にして、ルシウスの手がピタリと止まる。

「―――いえ、あたしはただ、息子さんから聞いていないのならば、直接お伝えしなければ、と思っただけです」

(魔法は使えないでしょう? このピアスがどんな働きをするか、貴方は教えてもいないのによぉーくご存知でしたものね?)

「……何をだ?」
「あたしの居場所は、あたし自身で決めますのでご心配いただかなくても結構です。あたしは貴方の“お人形”になるつもりはありません。悪趣味な招待状も必要ありません。第一、あたしは貴方が待っている人ではありませんので…勘違い、ご苦労様、と」

ニッコリと微笑んで言い放ったアスカに、ルシウスの眼が驚きに見開かれた。

(面白いくらいに反応してくれるね、ルシウス。そりゃあそうだよねぇ? だって、あたしの事を……アスカの事を“お人形”だと裏で言っていたのは、他ならぬ貴方ですものね? あたしが気付いていないとでも思っていたのかしら?)


過去の―――ずっと昔の、感情を押し殺していた頃の自分を思い出して、アスカは自嘲気味に笑ったが、その表情がルシウスには薄ら恐ろしく見えたのだろう。
青白い顔が、真っ青になっていた。

「貴方があたしの母にしたことをあたしは知っていますよ。貴方の家のどこにどんな秘密が隠されているのか、服従の魔法を掛けられていたというヴォルデモートと貴方が本当はどんな関係だったのかも……すべて視えます。貴方が懲りずにハリーとあたしに余計な手を出すのなら、すべて洗いざらい正式な場で、打ち明けましょう。きっと皆さん信じてくれると思いますよ? あたしに流れる血がどんなものか懇切丁寧に発表すれば……そう思いませんか?」
「なっん……だと…? お、お前は……っ、今、この私を脅しているのか?」

ルシウスの薄い唇が、ワナワナと震えている。

「人聞きの悪いことを仰らないで下さい。脅されている、と貴方がそう感じたのであれば…それは、全て、身に覚えのある事だということでしょう? だとしたら、身から出た錆ではありませんか?」

(昔から、貴方のことが嫌いだったのよルシウス。我が物顔でフィーレンの屋敷に足を踏み入れ、裏ではあたしを“お人形”だと馬鹿にしながらも、表だってではあたしに従順な振りをして側近の顔で虎の威を借ろうとしたり、コソコソお祖母様に忠言する振りをしてあたしを意のままに操ろうとしたり……貴方との婚約話が出た時はどんなに驚いたか! 全身の産毛が総毛だったわよ)

ハリーにアスカの…昔の話を聞かせたせいなのか、ルシウスに対して思っていた過去の過ぎ去った感情がぶり返したようだった。
ルシウスが何かを言おうと口を開いた時、背後でハリーの声が響いた。

「マルフォイさん」

アスカが振り返ると、急いで来たのだろうハリーが肩で息を弾ませ、駆け寄ってきた。
その手にしているものが何か分かると、耳に掛けていた髪をおろし、アスカはハリーに場所を開けるようにスッと横に退く。
それは、ハリーが何をしようとしているのか、気付いたからだった。

「僕、貴方に差し上げるものがあります」

アスカが今まで立っていた場所に駆けこんできたハリーが、言いながら差し出したのは泥だらけになった靴下だった。

「なんだ―――?」

差し出した、というよりも、押し付けるように強引に渡された汚れた靴下に、ルシウスは不快に眉を顰め、靴下を引きちぎるように剥ぎ取り、中の日記を取り出すと靴下を投げ捨てた。
投げ捨てられた靴下の軌道の先に何があるのかをチラリと確認すると、包帯だらけで震えている屋敷しもべ妖精と眼が合い、彼がハリーにしたことを思い返してアスカは複雑な表情を浮かべた。
だが、ハリーが望んでいることならば……と、ハリーがルシウスの視線を集めている間に、ルシウスに見えないように今しがたルシウスが手ずから投げ捨てた靴下を指さして見せた。
自分のすぐそばに転がっている靴下に、ドビーのぎょろりとした眼がキラキラと輝く。
そこへ、ちょうどタイミングよくルシウスがドビーを呼んだ。
だが、いつもならすぐに返ってくる反応が来ない。

「ドビー、来い。来いと言ってるのが聞こえんか!」

いい加減にしびれを切らしたルシウスが振り返ってドビーを見るが、ドビーはピクリとも動かなかった。
ハリーの泥だらけの靴下を握りしめ、まるでそれが宝物であるかのようにじっと見つめている。

「ご主人様がドビーめに靴下を片方くださった。ご主人様が、これをドビーにくださった」
「なんだと? 今、なんと言った?」
「ドビーが靴下の片方をいただいた。ご主人様が投げてよこした。ドビーが受け取った。だからドビーは―――ドビーは、自由だ!」

歓喜に震える声を上げたドビーとは裏腹に、ルシウスはドビーを見つめたまま、その場に凍りついたかのように立ちすくんだ。
だが次の瞬間には、矛先をハリーに定め、飛び掛かった。
その場には、散々自分が虐げてきた自由になったドビーがいるというのに。

「小僧め、よくも私の召使いを!」
「ハリー・ポッターに手を出すな!」

ハリーの前に先回りしたドビーが叫ぶと、バーンと大きな音がして、ルシウスは後ろ向きに吹き飛び、階段を一度に3段ずつもんどり打って転げ落ち、下の階の踊り場に落ちてぺしゃんこになった。
その様子に、アスカは思わず噴き出し、声を上げて笑った。
ルシウスは怒りの形相で立ち上がり、杖を引っ張り出したが、ドビーが長い人差し指を脅すように向けたので、動きを止めた。
おまけに、ハリーの隣にはアスカが立っており、ルシウスの脳裏に先程アスカが言い放った言葉が浮かぶ。

「すぐ立ち去れ。ハリー・ポッターに指一本でも触れてみろ。早く立ち去れ!」

ルシウスは従う他なかった。
忌々しそうに3人に最後の一瞥を投げ、マントを翻して身に巻きつけ、急いで立ち去って行った。
その後ろで、その姿が見えなくなるまでアスカは警戒は怠らずに見つめていた。
隣では、ドビーが大きな眼をキラキラと輝かせながら、キーキーと甲高い声で興奮してハリーに感謝を述べている。

「ハリー・ポッターがドビーを自由にしてくださった! ハリー・ポッターがドビーを解放してくださった!」

改めてドビーをまじまじと見たアスカは、成程、ハリーから聞いてた通りだと思った。

「ドビー、せめてこれぐらいしかしてあげられないけど…ただ、もう僕の命を救おうなんて、二度としないって約束してくれよ」

ハリーの口からまさかそんな言葉が出てくるとは思ってもみなかったのだろうドビーは、きょとりとボールみたいな大きな眼を更に大きくした。

「ねぇ、ドビーさん? ハリーはもう自分ですべて解決して、更には貴方の事まで解放してくれたのだから、あたし達がハリーに送った手紙やプレゼントは、返しておくべきじゃない? このままだと、ハリーの記憶に、貴方は泥棒だとのこることになるわよ?」
「え? あ…貴女は……」
「返してくれるわよね?」
「は、はい!」

ドビーがどこか恐々とした様子なのは、先程のルシウスとのやり取りを見ていたせいなのだろうなとアスカは思ったが、都合がいいからと黙っていることにした。
にっこりとアスカが微笑えめば、コクコクとドビーは頷き、すぐに指を鳴らそうとした。

「あぁ、待って。あたし達、これから宴会があるから、ハリーの部屋のベッドの上にでもおいておいてくれる? ね、ハリー?」
「うん、そうだね。それに、ハーマイオニーも、もう目覚めているはずだし」

プレゼントや自分に届くはずだった手紙の事をすっかり忘れていたハリーは、戻ってくると分かって嬉しそうに頷いた。
ドビーはハリーの胴辺りに腕を回し、抱きしめた。

「ハリー・ポッターは、ドビーが考えていたよりずっと、ずーっと偉大でした。さようなら、ハリー・ポッター!」

最後に、パチン、という大きな音を残し、ドビーは消えた。