日曜の朝、医務室は冬の陽射しで輝いていた。
ハリーが目を覚ました時には3つ隣のベッドはカーテンが引かれ、全て隠れて石になってしまったコリン・クリービーの姿は見えなかった。
反対にアスカが寝ていたハリーの隣のベッドは、カーテンが全て開かれ綺麗にベッドメイクがされており、アスカの姿もない。
右腕からはすっかり痛みがなくなり、ハリーは腕の感触を確かめるように数度握っては開いてを繰り返すがまだ少し強張っていた。
ぎこちなくでも無事に動く右腕にハリーはそっと息を吐く。
頭に浮かぶのは昨夜あった出来事だった。
忙しい夜だった。
屋敷しもべ妖精ドビーの言っていた“秘密の部屋”の事も気になるし、コリン・クリービーの事を寮の皆や他の生徒達は知っているのかも気になっていた。
けれど、それよりハリーにとって衝撃的だったのは、アスカとダンブルドアの会話だった。

(次はベルが石になるって? 1人になるなって? どういうこと? だって、狙われているのはマグル出身者達の筈だよね?)

ベルの両親はマグルではないし、養父はダンブルドアだ。
狙われる要素がハリーには見当たらなかった。

(それとも、ベルは僕達が何か知らないことを知っていて、それを隠してる?)

分からない事ばかりだった。
だがそれでも分かったこともある。

(ベルは、自分が狙われてることを知っていて、1人になるなって言われていたのに僕達から離れていった。僕達を止めるために……止めようとして、1人になった。次に、医務室に石になって運び込まれるのは……ベル?)

昨夜見たコリンの姿が、アスカの姿に変わり、ハリーの顔はサッと青冷めた。

(ハーマイオニーとロンに言わなきゃ! この事を話して……ベルを1人にしないようにしなきゃ!)

ハリーを庇うようにブラッジャーの一撃を頭に受け、血を流しながらもハリーの姿を見て安堵したように笑みを浮かべたアスカの表情が、気を失って力をなくした体の重さが忘れられなかった。
あの時、ハリーはアスカが死んでしまったのではないかと狼狽えた。
アスカにハリーを医務室に連れていけと言われていた双子も、慌てていた。

「頭を打ってる! 安易に動かそうとしちゃダメよ!」

そう焦燥感で上擦りながらも叫んだ声は、ハーマイオニーだったのではないかとハリーは思い起こす。
その声に、アスカに触れようと伸びた幾つかの手が、ピタリと固まった。
その間に現れた黒尽めの教授が、アスカに何かの魔法を掛けるとハリーの上からアスカはふわふわと宙に浮き、周囲に集まっていた生徒達を追い払うようにして杖を操りながらアスカを連れて行った。
その事にとても驚きはしたが、それよりもすぐにロックハートがハリーの腕の骨を訳の分からない魔法で抜いてしまったので、それどころじゃなくなってしまった。
アスカの姿を医務室のベッドの上で見つけたハリーは、ホッと安堵したのだ。

(ベルが庇ってくれなかったら、僕の頭は再起不能になっていた……あの時経緯を聞いたマダム・ポンフリーがそう言ってた)

一昨日のあのトイレでハーマイオニーとアスカが言い争うようにしていた時、ハリーはなにも言えなかった。
トイレから出て行くアスカを止められなかった。
アスカがいつだってハリーやハーマイオニー、ロンの事を大事に思ってくれていることを、ハリーは3人の内で誰よりもよく知っている。
アスカに助けられた回数が一番多いのはハリーだろう。
去年の賢者の石の件では、アスカが単独でクィレルの部屋へ乗り込み、縄に縛られながらも炎に身を投じてまでハリーを助けようとした。
その他にもあげれば次々と出て来る。
あの時、アスカの話をこれからはちゃんと聞くようにしようって皆で言っていたのに。
一年生の時だって、二年生になってからだってアスカは変わっていない。
それを、ハリーは知っていたというのに。

(ベルが石になるなんて冗談じゃない。ハーマイオニーが石になるのだって、そんな事させない)

話せばきっとハーマイオニーはアスカを1人にするようなことはしないだろう。
アスカなら、3人で話せばきっと仕方ないなと笑って許してくれる。
学年首席のハーマイオニーと次席のアスカが知恵を合わせれば、盗みなんて働かなくても他に良い方法が出て来るはずだ、とハリーには思えた。
ハリーがそう思案している間に、ハリーが起き出した事に気付いたマダム・ポンフリーがトレーに朝食をのせて現れた。
ハリーの腕や指の曲げ伸ばしを診て、満足気に「すべて順調」と頷く。
左手でぎこちなくオートミールを食べていたハリーは、「食べ終わったら帰って宜しい」とのマダム・ポンフリーの言葉に、出来るだけ急いで食べた。

「あの、ベルはもう寮に戻ったんですか?」

ハリーの問いに、マダム・ポンフリーがハリーを見て肯定した。

「今朝早く、ダンブルドア校長先生がお迎えに来て寮へ行きました」

ダンブルドア自ら迎えに来たということは、やはりアスカはそれだけ危険なのだとハリーは思った。
オートミールを食べ終えると、ぎこちない腕で出来る限り速く着替えを済ませ、グリフィンドール塔へ急いだ。
だがロンとハーマイオニーは居なかった。
アスカの姿もない。

(2人は一体どこに行ったんだろう? 僕の腕の骨が生えたかどうか、気にもしなかったのかな? ベルだったら──…)

そこまで考えて、ハリーは塔の外へ出た。
少し、傷ついていた。
図書室の前を通り過ぎようとした時、見知った姿が中へ入っていくのが見えた。
咄嗟に声をかけようとしたが、アスカと入れ違うようにパーシーが出て来て、ハリーに気付くとご機嫌で話しかけてきた。

「おはようハリー。昨日は素晴らしい飛びっぷりだったね。本当に素晴らしかった。グリフィンドールが寮杯獲得のトップに躍り出たよ。君のおかげで50点も獲得した!」
「ロンとハーマイオニーを見かけなかった?」
「いいや、見てない」

上機嫌だったパーシーの笑顔が曇った。

「ロンは、まさかまた女子トイレなんかに居やしないだろうね……」

余計な事を思い出させてしまったようだった。
ハリーは無理に笑い声をあげて見せ、図書室の中に入ってアスカの姿を探した。

「───…あ、いた」

ベルはいつも好んで座る陽当たりの良い席に座り、本を読んでいた。
冬の陽射しを浴びるアスカの顔色は、ハリーが昨日見た時よりずっと良い。
その事に安堵しつつ、アスカに助けてもらった礼を告げようとハリーが近付いていくと、アスカが何かに気付いたように顔を上げると、1つ頷いて微笑んだ。

「?」

不思議に思ったハリーの足の動きが遅くなる。
本棚で死角になって見えていなかったアスカの席の真向かいの席に、ハッフルパフのシーカー、セドリック・ディゴリーが座っており、2人は楽しそうに笑っていた。
図書室という場所のせいか、2人の話している距離はひどく近く見える。
その光景に、ハリーの足はピタリと止まってしまった。

「…………………」

話しかけようとしていた気持ちは急激に萎み、ハリーは踵を返すと早足で図書室を出た。
パーシーの姿はもうなかった。
何故かは分からないが、ハリーの胸の中はもやもやとしたように気分が悪い。
ただ、セドリックと一緒にいるということはアスカが今の所は1人ではないということだ、とハリーは考え、訳が分からないどこか苛々とするようなもやもやを隅に追いやるようにして、嘆きのマートルのトイレに足早に向かった。
何故ロンとハーマイオニーがまたあそこへ行くのか、ハリーにはわけが分からなかったが、2人はそこに居ると直感した。
フィルチも監督正も、誰も周りに居ないことを確認してからトイレのドアを開けると、2人の声が内鍵を掛けた小部屋の1つから聞こえてきた。

「僕だよ」

ドアを後ろ手に閉めながらハリーが声をかけると、小部屋の中からゴツン、パシャ、ハッと息を呑む声がした後、ハーマイオニーの片目が鍵穴からハリーの居る方を覗いた。

「ハリー! あぁ、驚かさないでよ。入って──腕はどう?」
「大丈夫」

ハリーは狭い小部屋にぎゅうぎゅう入り込みながら答えた。
古い大鍋ご便座の上にちょこんと置かれている。
パチパチ音が聞こえてくるので、鍋の下で火を焚いていることが分かった。
防水性の持ち運び出来る火を焚く呪文は、ハーマイオニーの十八番だ。

「見舞いに行くべきだったんだけど、先にポリジュース薬に取り掛かろうって決めたんだ」

ハリーが定員オーバーのぎゅうぎゅう詰めの小部屋の内鍵をなんとか掛け直した時、ロンが説明した。

「ここが薬を隠すのに一番安全な場所だと思って」

その言葉にハリーは頷き、昨夜あったことを話そうと、手始めにコリンの事を述べ始めると、ハーマイオニーがそれを遮った。

「もう知ってるわ。マクゴナガル先生が、今朝フリットウィック先生に話しているのを聞いちゃったの。だから私達、すぐに始めなきゃって思ったのよ」
「マルフォイに吐かせるのが早ければ早いほど良い。僕が何を考えてるか言おうか? マルフォイの奴、クィディッチの試合の後、気分最低で腹いせにコリンをやったんだと思うな」
「まだ2つ話があるんだ」

ロンの推察を聞き、ハリーはアスカの事は最後にしようと先にドビーの件を話すことにした。

「夜中にドビーが僕の所に来たんだ」

ニワヤナギの束を千切っては煎じ薬の中に入れていたハーマイオニーとそれを見ていたロンは驚いたように顔を上げた。
ハリーは昨夜、ドビーが話したこと…というより話してくれなかったことを全部2人に話して聞かせた。
ロンもハーマイオニーも口をポカンと開けたままそれを聞いていた。

「“秘密の部屋”は以前にも開けられた事があるの?」
「これで決まったな」

驚いたままのハーマイオニーと違い、ロンは大きく頷いた。

「ルシウス・マルフォイが学生だった時に“部屋”を開けたに違いない。今度は我らが親愛なるドラコに開け方を教えたんだ。間違いない。それにしても、ドビーがそこにどんな怪物がいるか教えてくれたら良かったのに。そんな怪物が学校の周りをうろうろしてるのに、どうして今まで誰も気付かなかったのか、それが知りたいよ」
「それ、きっと透明になれるのよ」

ヒルを突ついて大鍋の底に沈めながら、ハーマイオニーが言った。

「でなきゃ、何かに変装してるわね───鎧とかなんかに。『カメレオンお化』の話、読んだことあるわ」
「ハーマイオニー、君、本の読み過ぎだよ」

ロンがヒルの上から袋ごと鍋にあけながら言った。

「ベルがいたらそんな風には……」

空になった袋をくしゃくしゃに丸める音に紛れて、ハーマイオニーがポツリと口中で呟いた早口の声は、2人には聞こえなかった。

「それじゃ、ドビーが僕達の邪魔をして汽車に乗れなくしたり、君の腕をへし折ったり、ノックアウトしようとしたのか」

ロンは、困ったもんだという風に首を振りながら言った。

「ねぇハリー、分かるかい? ドビーが君の命を救おうとするのをやめないと、結局君を死なせてしまうよ」
「……ベルが庇ってくれなかったら、僕は今頃棺桶の中だった。マダム・ポンフリーが言ったんだ。嘘じゃない」

ハリーの口からアスカの名が出て、ロンは驚き、ハーマイオニーは大鍋の中を掻き混ぜている手がピタリと止まった。

「残りの最後の話だ」

ハリーはそう最初に2人を見回して告げ、声を1つ低くして昨夜聞いたダンブルドアとアスカの会話を全て話した。

「理由とか詳しくは分からないけど、ベルが石になる可能性が高いみたいだ。ベルはそれを知っていたのに、僕達の事を考えて止めようとしたんだ。───だから、ベルともう一度話して、仲直りした方が良いと思う」

ハリーの言葉に、ロンは信じられないような顔で言葉が出て来ないようだ。
ハーマイオニーは何も言わず、大鍋の中の薬をゆっくりと混ぜている。
ハリーは、そんなハーマイオニーを見ながら続ける。

「僕達、去年の賢者の石の事が終わった後言ったよね? 今度から、ベルの話をちゃんと聞くようにするって。───ハーマイオニー、君だって本当は知ってる筈だよ。ベルが、マグル出身者を蔑ろにするような子じゃないって。ハーマイオニーが石になったら、ベルはきっと…」
「そんなの、分かってるに決まってるじゃない」

ハリーの言葉を遮り、ハーマイオニーは口を開いた。
その声は、震えて変に上擦っている。

「ベルがいつだって、自分の事より私達の事を大事にしてくれてるのなんて、分かってるわ」
「だったら!」

ハリーが二の句を述べる前に、ハーマイオニーの鋭い眼差しがハリーを射抜いた。

「けれどこれしか方法はないの。ベルがこの方法を否定する以上、一緒にいるなんて出来ないわ」
「ポリジュース薬しか方法が無くたって……ベルとハーマイオニーだったら、盗まずに薬の材料を調達する方法を考え出せるんじゃないの?」
「───そんな方法、ないわ。私達みたいな生徒が、個人で買うことなんて出来ない品物なの。誰か大人に頼んで買って貰うしかないのよ。私達の事情も使用用途も何も聞かずに買ってくれるだなんて、そんな人、居ないでしょう?」

ハリーは、ハーマイオニーの言葉に口を開いたが、声が出てこなかった。
ハーマイオニーの言葉を反論出来る程の知識や大人の協力者に、心当たりがハリーにはなかった。
そんなハリーから視線を大鍋に戻し、ハーマイオニーは追い討ちをかける。

「それに、ベルだったら大丈夫よ。私達が…私なんて居なくたって、ひとりぼっちになったりしないわ」
「どういうこと?」

それまで黙って2人の話を聞いていたロンが怖ず怖ずと口を開く。

「───貴方達、今までベルの傍にいて、全く、これっぽっちも気付いてないなんてことないと思いますけど、ベルには友達も知人も沢山居るわ」
「そ、それくらい知ってるよ」
「僕だって分かってるよ。でも、ベルと普段からずっと一緒に行動してるのは僕達3人だけだろう? 僕達が居なきゃ、ベルは1人の時間が…」
「1人の時間なんて、そうそうないわよ。ベル自身は、極力目立ちたくないなんて思ってるんでしょうけど、ベルは黙ってたって人を集めるの。ベルが1人でいたら、必ず誰かが寄って行くわ。…貴方達だって身に覚えがある筈よ」

ハーマイオニーのどこか冷めた言葉に、ハリーとロンは各々思い当たる節があり、ハッと息を呑んだ。
ハリーの脳裏に、先程図書室で見たアスカとセドリックの光景が浮かび上がる。

「……私の言いたいこと、分かったかしら? ベルは、私達が傍に居なくたって大丈夫なのよ」

押し黙るハリーとロンに視線を向け、ハーマイオニーが淡々と話す。
その声が、感情を押し殺したもののようにハリーには聞こえた。

「───そうなのかも知れないけど、僕は、ベルが好きだし大事だ。大事な親友だと思ってる。いつも一番に助けてくれて、悩みを聞いて一緒に考えたりアドバイスをくれたり……そんなベルが危険な状態で、困ってるのなら、今度は僕が助けたい。一緒にいたい。1人になることがないから大丈夫だなんて……そんな風に、僕には簡単に思えない。そんな事がなくたって、一緒にいたいって思うよ。ロンは、ハーマイオニーは違うの?」

ハリーの問い掛けに、誰も答えなかった。
グツグツと沸く大鍋の薬の音と、火の焚ける弾ける音だけが暫く狭い小部屋に響く。

「……一緒にいたくても、今は出来ないのよ。私、酷いことを言ってしまったし、ベルは絶対に考えを曲げたりしないわ。危険だと分かってるのに、自ら1人になったんだもの…」

やがて、涙ぐんだハーマイオニーがポツリと呟いた言葉の声に、ハリーはそれ以上何も言えなくなってしまった。

「ポリジュース薬を出来るだけ早く完成させて、継承者を…マルフォイをホグワーツから追い出そう。そうすれば、また4人で居られるようになるよ」

その場を取り繕うように言ったロンの言葉に、ハーマイオニーもハリーも小さく頷くだけだった。