翌朝、自転車のペダルを漕ぐヴィクトルの後にユーリ、エレナ、勇利、マッカチンの順にアイスキャッスル長谷津までの道のりをランニング。
途中で橋で釣りをしているおじさんの後ろを通り過ぎる際に、ヴィクトルが日本語で挨拶し、エレナも挨拶する。
おじさんも挨拶を返してくれた。

「ほーらユリオも挨拶して」
「勇利くんも!」
「俺はユリオじゃねぇよ!」
「あ…おはようございます」

少し遠くなってしまったが、エレナに促されて勇利がおじさんに挨拶すると、おじさんも返してくれた。
ユーリは、結局挨拶しなかった。

「ちょっと! 挨拶は基本でしょう、ユリオ!」
「だぁかぁらぁ! 俺はユリオじゃねぇっつってんだろぉがぁ!」

走りながら笑い声を上げるエレナとペダルを漕ぎながら笑うヴィクトル。
そんな3人を見ても、勇利は昨日のようなどうしようもない程の不安感は襲ってこなかった。

(エレナちゃんのおかげ…かな? だとしたら、僕って単純だなぁ…)

アイスキャッスル長谷津に到着すると、エレナとユーリはスケート靴を優子から借り、勇利は自分のスケート靴を履き、靴紐を結ぶ。

(───やっと今日からヴィクトルに教えて貰える! 僕だって、ラストシーズンを掛けてる。ここでビビってたら、勝てっこない! この温泉 on iceの勝負、絶対負けられない! そして、その先のGPFを目指すんだ!)

勇利は闘志を燃やしながら、リンクの中央へ向かう。
遅れて、ユーリとヴィクトル、エレナが入ってきた。
全員が揃うと、ヴィクトルが先ずは曲を聞いて貰おうかな、と言ってリモコンでステレオの再生スイッチを入れる。
一拍置いて曲が流れ始める。
透明感あるソプラノとどこか神秘さを秘めた楽曲が、その神々しさを相乗させている。

「この曲は、テーマの違う2つのアレンジがある。愛について〜エロスとアガペー〜。君達は、愛について考えた事があるかい?」
「ねーよ」

ユーリが返答する隣で、勇利はフルフルと首を左右に振る。

「分かった。それじゃあこの曲を聞いて、どんな感じがする?」

問われ、勇利は目を閉じる。

「…すごく透明感があって、純粋無垢で、また愛を知らないような…」
「俺はやだなこの曲。イノセントなイメージとか吐き気がする」

げー、とばかりに舌を出すユーリの背を、エレナは無言でバシンと叩く。

「痛っ、なにすんだよ!?」
「オーケー」

エレナはギロリと睨むユーリを無視し、前に立つヴィクトルを真っ直ぐに見ている。
ヴィクトルは再度リモコンを操作し、曲を変える。
一拍置いて流れてきたのは先程とは違い、アップテンポのどこかラテンの要素が入った曲。

「──全然イメージ違いますね」
「ヴィクトル、俺こっちの曲を滑りたい!」
「え?」
「最初の曲は、愛について〜アガペー〜、無償の愛がテーマだ。そしてこの曲は、愛について〜エロス〜。性愛としての愛がテーマだ。この対局的な曲のテーマを2人には踊って貰う。振り分けはこうだ……」

ヴィクトルが曲を紹介し、勇利とユーリをそれぞれを指差しながら振り分けを発表した。

「ユウリがエロス! ユリオがアガペー!」
「「!?」」

本人達が自分で想像していた振り分けと逆の振り分けをヴィクトルが発言したため、2人の動きが一瞬固まる。

「逆がいい! イメージ違うだろ!?」
「えええええええ!?」
「……………成程」

叫ぶ2人とは違い、エレナはどこか納得したように頷く。

「皆がイメージする事の真逆をしなきゃ、びっくりしないだろう? 俺のモットーだ…って言うか君達は自分が思ってるより無個性で凡庸だから、もっと自覚をした方が良いよ? 自分で自分のイメージを決めるとかよく言えるよね?」

ヴィクトルはにっこり笑って、2人にとっては衝撃的な発言を吐く。

「観客からしたら子豚ちゃんと子猫ちゃんだ。あと一週間で俺の納得出来るレベルに成らなきゃ、振付、どっちもなしだから。俺のファンだから出来るよね?」

ヴィクトルの言葉に、ユーリは口を開く。

「分かった…やるよ、そのアガペー。俺のシニアデビューがかかってんだ! 絶対勝てるプログラムにしてくれるんだろーな!?」
「勝てるかは君次第だよ。俺が滑れば、絶対勝てるけど」
「!」

苛ついたようにユーリが氷を蹴る。

「コイツに勝ったらヴィクトルにはロシアに帰って貰う! そして俺のコーチになれ! それが俺の願いだ!」
「フ、良いよ」
「!」

ヴィクトルがユーリの願いを聞いて了承すると、勇利の表情が曇る。

「じゃあ勇利くんの願いは?」

ユーリの隣にいたエレナが、滑ってきて勇利の隣に並ぶ。

「…エレナちゃん」
「この馬鹿に勝ったら、ヴィーチャに何をお願いするの?」
「おい! 馬鹿って俺の事じゃないだろーな!?」
「貴方以外に誰が居るのよ」
「あァ!?」

ユーリに睨みつけられてもサラリと無視し、勇利を見つめる。

「そうだね。勇利、君はどうするんだい? この勝負、勝ったら何したい?」
「…ヴィクトルと、カツ丼食べたい」
「え?」
「これからもいっぱい勝って! いっぱいカツ丼食べたい!」
「!」
「だから、エロスやります! 全力のエロス、ぶちかまします!!」
「…っ、良いね! そういうの大好きだよ!」

勇利の強い言葉に、ヴィクトルは笑みを零した。



episode4 エロスとアガペーとピリオド



「先ずはユリオ……の前に、レーナ。何か言いたいことがありそうな顔してるね? 何?」
「!」
「え?」

図星を突かれて、エレナはドキリとした。
隣の勇利と、ユーリの視線が自分に集まったのを感じ、居心地が悪くなる。

(…言うつもりなかったんだけど……)

ヴィクトルを恨めしい目で見ても、ヴィクトルはニコニコエレナの発言を待っているだけ。
エレナは、溜め息を1つ吐くと口を開いた。

「じゃあ、言わせていただきます。個性について、だけど…さっきヴィーチャはああ言ったけど、無個性…別に悪くないと思うんだよね。個性が無いってことは逆に言えば、どうとでもなれるって事だと思うの。何をしても受け入れて貰える。下手に個性があって、皆にそのイメージが定着すると…他のイメージで演技し辛くなる」

エレナの言葉に、2人のユーリは目を見開く。

「だから、良いと思うんだ2人のアガペーとエロス。ヴィーチャもそれを踏まえた上での振り分けでしょう? 2人を知ってる私は、振り分け聞いてもあんまり驚かなかったけど、きっと皆は良い意味で驚くよ───以上!」

エレナの言葉に、どこか腑に落ちない顔をしたヴィクトルだったが、2人のユーリの目が輝いたのを見て、息を吐く。

「じゃあユリオのアガペーから通して見せるから、良く見てて」

言われたユーリが頷き、ヴィクトルを残して3人はリンクサイドへ戻る。

「エレナちゃん…振り分け聞いても驚かなかったって……どうして?」

エッジカバーを着けながら勇利が聞くと、エレナはきょとんと目を瞬かせる。

「どうして、って……振り分け聞いた時、簡単に想像出来たから」
「え?」
「はぁ?」

自分も気になっていたのか、聞き耳を立てていたユーリも驚いてエレナを見る。

「ユーラは言ったら怒るかも知れないけど、貴方って純粋だよね。まだ16歳だし、無垢で無邪気、って分かるよ…良い意味でも…まぁ、悪い意味でも」
「………………」
「勇利くんは成人した男性だし、それに、今までのプログラムの中でもドキッとする表情してた時あったもの。まぁ、あの時は一瞬だったけど…」
「え…」
「2人に対して、アガペーもエロスも感じたことあったから、簡単に想像出来た」

エレナの見解にユーリは複雑な顔になり、舌打ちしてリンクを見る体制になる。
一方、勇利は混乱していた。

(え? なんか今、割とすごい事言われたような…? え? エレナちゃんが一瞬でもドキッとしてくれたって…? それ…どのプログラムだろう?)

「勇利くん? 曲、再生するけど…見ないの?」
「…っ、見る見る!」

エッジカバーを着けた状態のまま固まってしまった勇利は、不思議そうに声を掛けられハッと思考の海から這い上がり、慌てて見る体制になる。
それを見届け、エレナがヴィクトルに合図すると、ヴィクトルはポーズをとった。
ステレオの再生ボタンを押すと一拍置いて曲が始まり、ヴィクトルも合わせて動き出す。
3人は食い入るようにヴィクトルの演技を見つめる。
アガペー…無償の愛。
神からの無限の愛。
それは自己犠牲的で非打算的。

(ヤバい…これは難しい。ヴィクトルだから成立してるけど…ユリオはどうやって……)

ヴィクトルの振付は高難度。
勇利は思わず顔を顰め、チラリと隣のユーリを見る。
ユーリは、リンクの壁の上で寄りかかるように組んだ腕に顎を乗せ、ヴィクトルの一動作も逃すまいと瞬きもせずに見入っている。
その表情から、何を考えてるのか勇利には読み取れなかった。

(エレナちゃんなら、ユリオが何を考えてるか分かるのかな…)

ユーリからエレナへ視線を移すと、エレナはリンクの壁に両手を乗せ、姿勢正しく背筋を伸ばしジッとヴィクトルを見つめている。
右手の人差し指が、小さくトントンとヴィクトルの演技に合わせて動いている。
その姿が、まるでメモを取っているようだと勇利は思った。
上体を反らしながら両手を合わせた腕を上に伸ばし、演技は終わった。
体制を戻し、ヴィクトルはユーリを見る。

「…って感じなんだけど、どうかな?」
「あぁ、だいたい覚えた」
「え?」

たった一回見ただけで、しかもあんなに高難度のプログラムを?、と勇利が驚いていると、拍手の音が響いた。

「すごい! 感動した!」

紅潮した頬で拍手する優子が、いつの間にかエレナの隣に立っていた。

「優子ちゃん…いつの間に……」
「あぁ? 何だよその女は?」

優子と初めて会うユーリが怪訝な表情で問う。

「彼女はここのスタッフの優子さん」
「練習の邪魔してごめんなさい。あんまり素敵だったから、つい…」

笑顔でヴィクトルを見ている優子をユーリがジッと見ていると、視線に気付いた優子がユーリを見て微笑む。
その笑顔に毒気を抜かれたのか、ユーリの眉間の皺が一瞬とれた。

(……ユーラは、可愛い系がタイプか…ふーん。…でも、残念…優子ちゃんは、勇利くんの……)

そこまで辿りついて、エレナは自分の考えに落ち込んだ。

(あぁ、そうだった……昨日の夜、一緒に滑れて、気まずさがなくなった嬉しさと感動で忘れてたけど…勇利くんと優子ちゃんは付き合ってるんだった……)

「優子ちゃん、勇利くんの隣空いてるから、そっちで見たら?」
「え? 私、別にここでも…」
「良いから」

ぐい、と背中を押して、半ば無理矢理勇利の隣に優子を立たせる。
不思議そうにしながらも、ありがとうと言って笑う優子は、同じ女のエレナから見ても可愛らしかった。

(…私も、優子ちゃんみたいに可愛らしかったら……少しは、可能性あったのかなぁ……)

「じゃあ次はユウリ。いくよー?」
「あ…はい!」

ヴィクトルの声にエレナの思考は浮上し、ヴィクトルがポーズをとったのを確認するとステレオの再生ボタンを押す。
一拍置いて流れ出した曲に、ヴィクトルも動き始める。
艶めかしく腕を上に上げ、滑らかな動きで体のラインをなぞる。
曲に合わせて一瞬動きが止まり、ヴィクトルがふっと誘うように挑発的な色気たっぷりに微笑むと、優子が鼻血を吹き出して倒れた。
2人のユーリが慌てふためき、勇利にちゃんと見せるためかユーリが介抱を請け負う。
ユーリが優子を介抱しながらチラリとエレナを見ると、壁に手を乗せ、ヴィクトルの動きに合わせてトントン、とメモを取るように小さく動いているのが分かった。

(…アイツ、スイッチ入ってやがる。こんな時は、隣で誰かが大鼾で寝ていても気付かねぇんだよな)

ユーリは、助けを求めるのを諦めた。

エロス…性的な愛。
快楽に次ぐ快楽。
ひたすら溺れる。

(くそ格好いい…男の僕でも妊娠してしまいそうな程エロス!)

ヴィクトルの滑りを見ていた勇利は、途中で頭を抱えだす。

(あれ…僕、これ…滑れるの!?)
勇利が頭を抱えて自問自答してる間に、いつの間にかヴィクトルの演技は終わっていた。

「ユウリ!」
「っ!」
「どうかな? 今の」
「え、あ…あの、凄くエロスでした!」

ヴィクトルに感想を求められ、慌てながらも答える。

(……うん、エロスだったねぇ。クリスがやったら、全世界の淑女達が黄色い悲鳴を上げて気絶しそうなくらいのプログラム…)

ヴィクトルの演技が終わったことで、エレナの集中も途切れる。
勇利の感想に、同意するようにこっそりと頷いた。

「でしょう? で、構成だけどクワドは何がいけそう?」

構成の話になり、ヴィクトルと勇利が相談を始めたので、エレナはそろそろ自分も柔軟して軽く滑ろうかな…と1つ伸びをすると、その背に切羽詰まった声がかけられる。

「おい! レーナ! こっち手伝え!!」
「え? な……っ! 何があったの優子ちゃん!! 何で血塗れ!? ちょっと…タオルタオル!」

振り向いたエレナの目に飛び込んできた惨状に、エレナは目をこれでもかと見開いた。
自分用に持ってきていたタオルをひっつかみ、駆け寄る。
エレナが駆け寄った時にはもう鼻血は止まっていたが、流れ出た量が結構な量だったので、優子を拭いたエレナのタオルは真っ赤になった。
落ち着いた所で、顔を上げると「じゃあユウリは基礎練やってて、先にユリオに教える」というヴィクトルの声が耳に入った。
勇利の息を呑む音が聞こえた気がして、エレナは立ち上がった。
そうして見えた勇利の表情に、エレナは眉を寄せる。

「今ユウリが出来ないことを教えたりしないよ。君は今まで、何回本番で失敗して来た? 勝てるスキルがあるのに、何故発揮出来ない?」
「それは───…多分……自分に、自信がないから………」

ヴィクトルの問いに勇利の言葉は尻すぼみになり、その視線もどんどん落ちていく。

「そう。ユウリに自信を持たせるのが俺の仕事だよ」

ヴィクトルの伸ばした手が勇利の顎を掴み、上を向かせると親指でその唇をなぞる。
グッと距離を狭め、鼻先が触れる位の距離でヴィクトルが甘く囁くように話す。

「世界中の皆は、まだユウリの本当のエロスを知らないんだ…それはユウリだって気付いていない魅力かも知れない。それを早く、教えてくれないか?」
「!! …っ、」

間近にあるヴィクトルの整った顔と、色気ある目つき、耳に届く甘い声に、勇利は身動ぎすらできずにただ目を見開く。
今にもキスをしそうな2人のどこか怪しい雰囲気に、エレナは見てはいけないものを見てる気がしてソッと視線を逸らす。

「おいヴィクトル! 俺先に教えんだろー!?」
「! はーい! ──じゃあユウリ、自分にとってのエロスとは何なのか、よぉく考えとくように」
「!!っ」

ユーリに促され、2人は体を離すとヴィクトルがユーリに返事をして、最後、勇利に爆弾を落として行った。

(僕にとってのエロスって何だ!?)

フラフラとリンクサイドに戻ってきた勇利の顔色に、エレナは顔を顰めた。

「勇利くん大丈夫? 顔、真っ青だけど…」
「! エレナちゃん! さっき僕の過去のプログラムにドキッとした瞬間があったって言ったよね!? それ、どのプログラム!?」
「えぇ?」

エレナが声をかけると、エレナの姿にハッと思い出して勇利が詰め寄った。
突然迫られ、エレナは顔を赤くして戸惑いの声をあげた。
それから場所を移して柔軟しながら勇利の話を聞いたエレナは、難しそうに唸った。

「ん〜…私が話すのは簡単だけど、それってヴィーチャが出した問いの答えになるかな?」
「え?」
「だって、私のは見た側の意見でしょう? 演技する側とじゃ大分感覚が違うと思う。例えば──…そうだなぁ、本人は唇が乾いたから舐めただけのつもりでも、それを見た人はエロスを感じるかもしれない。そういうことって経験ない?」

エレナがゆっくりと首を回しながら言うと、その長い髪が流れて現れたエレナの白い項に、勇利の心臓が跳ねる。

「あー……あるかも知れない…」
(今、正に…)

赤くなった顔を伸ばした両足で隠すように上体ごと倒して足を伸ばす。

「勇利くんが自分を見直して考えないと、勇利くん自身のエロスが何なのか…答えは出ないと思う」
「そっか……やっぱり、そう簡単に答え出てきたりしないよね…」
「それか、あれかな? ちょっと言いづらいけど……その…………こ、恋人との事を考えるとか?」
「へ!?」

顔を赤くして言い辛そうに述べたエレナの言葉に、勇利の顔は真っ赤になった。

「む…無理無理! だ、だって僕……いままで一度も…女の人と、付き合ったこと……ない、から…」
「へ!?」
「え、やっぱり変!? この年になって…って、そう思う……よねぇ…」

エレナは勇利の口から飛び出た爆弾発言に、本日最高の衝撃を覚えた。

「え? えぇ? だ、だって…ゆ、優子ちゃんは!?」
「優ちゃん!? いやいや付き合ってなんかないよ! 第一、優ちゃん人妻だし…」
「え…」
「え?」
「えぇえええええええええ!?」

あの時声の限りに叫んだのは仕方ないと思う、とエレナは後々考える。

「もしかして…エレナちゃん知らなかったの? 優ちゃんと豪、結婚したんだよ? 子供もいるし…ほら、あの三つ子」
「!? ………も、もう…なんだか、訳が分からなくなってきた…」

思考回路がショート寸前のエレナは、一端落ち着こうとプラスチックのベンチに腰掛ける。

「──…要するに、私がいない間に勇利くんは優子ちゃんに失恋したってこと?」


深呼吸を数度して、漸く思考が整理出来たエレナが勇利に問うと、勇利は複雑そうな表情を浮かべる。

「ええっと…そうだなぁ、失恋するも何も僕、優ちゃんのこと女の子として好き、ってわけじゃなかったんだ」
「………………はい?」

エレナは漸く落ち着いてきた筈だったが、また混乱し始める。

「え…優子ちゃんが初恋じゃなかったの?」
「…うん、そうだね」

苦笑いで頷いた勇利に、エレナは息を呑み、手を口に宛て考え始める。

(優子ちゃんが初恋じゃなかったって……そんな馬鹿な? だって、あの頃の勇利くんは、確かに優子ちゃんに想いを寄せている様子だった。勇利くんと、一番一緒にいた私がそう感じていたのに……だから、お別れの時、自分の気持ちを隠したのに……。私の勘違いだった…?)

「あ、あの……エレナちゃん…?」
「──私が、お別れの時勇利くんに言った事…覚えてる?」

エレナの口に宛てていた手が頭を抱えた頃、勇利がどこか伺うように声をかけた。
その声に、頭を抱えた状態のまま問えば、勇利は寸の間黙り、小さな声で同意する。

「──うん…覚えてる」

その小さな声に、エレナは大きく溜め息を吐き出した。

「ごめん………あの頃の私は、勇利くんの隣に居るのが当たり前で…父さんが死んだ事も凄く悲しかったけど、勇利くんの隣に居られなくなる事も悲しかった。勝手に、私が居なくなったら勇利くんどうなるんだろう? 一人ぼっちで滑るのかな?、なんて…想像して、余計に悲しくなっちゃって。……勇利くんは優子ちゃんの事好きだから、優子ちゃんが勇利くんの隣に居てくれたらきっと大丈夫なんじゃないかって……勝手に、考えて…あんな事言った」

エレナから語られる過去の背景に、勇利は驚く。

「きっと…混乱させちゃったよね? ごめんなさい…」

知ったか振りをして空回りした自分の行動が、恥ずかしくて申し訳なくて、頭を下げる。

「あぁ! ち、違うんだよ! 謝らないで」
「え?」

謝ったエレナに慌てながら、勇利が慌てて手を振った。

「エレナちゃんが、優子ちゃんにちゃんと気持ちを伝えろって僕に言った時まで、僕は優子ちゃんに惹かれてるんだと思ってた。けど、そうじゃなかったんだってエレナちゃんが居なくなってから気付いたんだ」
「?」

エレナは、勇利の言葉がうまく飲み込めず首を傾げる。

「僕自身、エレナちゃんに言われるまで気付いてなかったんだ…本当は、誰に…惹かれていたのか」
「…え?」

エレナと勇利の視線が合い、暫し無言で見つめ合う形となる。
勇利の目はその頃を思い出してるかのように細められ、エレナの心臓が大きな音を発てて鼓動が早くなり、顔が徐々に朱に染まっていく。
勇利が赤くなったエレナに驚いて目を丸くすると、その表情の変化に気付いたエレナが勢いよくベンチから立ち上がる。

「わ、私!! す、滑ってくるから!!」

言うが早いか、荷物を疾風の如くかき集め、脱兎の如くロッカールームから飛び出して行った。
残された勇利は、ただ呆然とその姿を見送り、エレナが居なくなった後も数秒固まったままだった。

「────…え…?」

自分の口から出た声に意識が浮上し、先程のエレナの表情を思い出して途端に勇利の顔も真っ赤に変わる。

「ちょっと…今の顔は……反則……っ、まいった…」

両手で真っ赤になっている顔を覆って、天を仰ぐように上を見上げる。

「あんな顔されたら……勘違いするよ、エレナちゃん…」

はぁ、と熱を帯びた溜め息を吐き、勇利は顔の熱が治まるまで暫く動けなかった。

猛ダッシュでリンクサイドに現れたエレナの姿に、滑っていたユーリとヴィクトルがギョッとした。

「なんだ…アイツ? 何であんなに顔赤くしてんの? ランニングでもして来たのか?」

ユーリの言う通り、肩で息をしているエレナの顔はリンクの上からでも分かる位に赤く染まっていた。

(…レーナは、確かユウリと一緒に………)

エレナと勇利が幾らか言葉を交わした後、連れ立ってどこかに場所を移した事は見ていたので気付いていた。
エレナはヴィクトル達が見ていることにも気付かず、胸に手をあてて深呼吸を繰り返している。
軽く伏せられた瞳が微かに潤んでいるのに気付き、ヴィクトルは目を細めるとエレナから視線をユーリに移した。

「────…ユリオ、練習に集中して」
「あ? あぁ…そうだな」

ヴィクトルに促され、練習を再開する。
ユーリの練習を見ながら再度チラリと視線だけでエレナを見ると、エレナはスケート靴の靴紐を結んでいた。
屈んでいるため、その表情は見ることが出来ない。
ヴィクトルが呟いた小さな声はユーリが氷を滑る音に掻き消され、誰の耳にも届かなかった。

(顔、赤くなったの…勇利くんに絶対バレた……そのまま見られているのが堪えられなくて思わず逃げて来ちゃって…勇利くん、変な奴って思っただろうな…)

右足の靴紐を結び終え、左足の靴紐に取りかかりながらエレナは自分で考えてショックを受ける。

(勇利くんは優しいから、多分何事もなかったみたいに話してくれると思うけど……気まずい。私が、気まずい)

折角、昔みたいに気軽に話せるようになったと言うのに…自分の失態が恨めしかった。

(けど……だけど、あれは仕方なくない? あんな事言われたら、普通勘違いするよね!? 私に他の人のことを応援されて、本当は誰に惹かれてたか気付いた…だなんて……言われたら……そんなの、私に言ったら……ダメだよ、勇利くん)

自分に都合の良いように解釈しちゃうよ、と左足の靴紐を結び終えたエレナは長い溜め息を吐いた後、気持ちを切り替えるようにパン、と両手で頬を叩き立ち上がる。
エッジカバーを外してリンクに入ると、軽くブレードに馴染ませるように動かしてから滑り出す。
ユーリとヴィクトルの邪魔をしないようにリンクの隅の方を使って調子を見ながら滑っていると、ヴィクトルが近づいてきた。
ユーリがリンクサイドで水分補給しているのを見て、休憩か、とエレナは動きを止める。

「レーナ、温泉 on iceで何やるかもう決めた?」
「あ〜…ごめん、まだ決めてないや」

言われて、そういえば何も考えていなかったとエレナは苦笑いを返す。
昨日は、そんな事を考えている余裕がなかったとエレナはどうしたものか…と考え出す。

「じゃあ、俺がリクエストしてもいい?」
「…リクエスト? 別に良いけど、何がいいの?」

首を傾げるエレナをグイ、肩を引き寄せ、その耳元に唇を宛てて囁く。

「…ひゃっ……───え?」

耳に触れたヴィクトルの唇の柔らかな感触にびビクリと肩を震わせ、口から思わず変な声を出したエレナだったが、囁かれた曲名に目を見張る。

「───どうして…? あれはフリーのプログラムだけど」

顔を離したヴィクトルの優しく細められた瞳をエレナは見つめ返す。

「ハセツは君の生まれ故郷だし、あのプログラムは俺が好きなんだ」
「…………そう…うん、分かった」
「ありがとう。本番、楽しみにしてるね」

嬉しそうに微笑んで言って、チュ、と頬にキスをすると、ヴィクトルは「休憩中、好きに使って」と告げてリンクサイドへ向かい滑って行った。
ヴィクトルに突然キスをされた頬を手で押さえ、エレナは暫く固まっていたが、早くしなければ休憩時間が終わってしまうということにハッと気付き、練習を始めた。
その振付を汗を拭きながら見ていたユーリが「…この振付……」と気付くと、ヴィクトルは口角を上げた。
午前中の練習が終わると、エレナは荷物を纏め、バッグに入れ始める。
昼食のお弁当を食べだしていたユーリがそんなエレナに声をかけた。

「あ? 帰んの?」
「うん。まだ、大事な人に挨拶していないから…ちょっと会いに行ってくる」
「ふーん? もしかして……昔の彼氏か?」
「え!?」
「!?」

黙って見ていた勇利とヴィクトルが、大事な人に会いに行くと言ったエレナをからかうように言ったユーリの言葉に反応して顔を上げる。

「何言ってんの。そんな人居ないし…」

エレナが笑いながら言うと、つまらなさそうにユーリが眉を寄せる。

「あぁ、でも……まぁ、似たようなもの…かもしれない」

言うだけ言って、じゃ、練習頑張ってとエレナは鞄を持ってアイスキャッスル長谷津から出て行った。

「…似たようなものってなんだよ?」

不思議そうに首を傾げながらもお弁当を口に運ぶユーリの傍で、ヴィクトルと勇利はあれこれと思考を巡らせ、箸を止めていた。

商店街でお目当てのものを買うと、エレナは目的地に向かって歩き出す。
春の心地良い風が、エレナの長い黒髪を撫でるように揺らし、遊んでいく。
長い階段を上がり、着いた先は寺だった。
庭で掃除をしている住職に挨拶をすると、エレナに気付いた住職が語りかける。
少し会話をして、エレナが手に抱くようにして持つ花束を見て、手桶と柄杓をだしてきてくれた。
その厚意にお礼を述べ、手桶に水を入れると寺の傍の横道に入る。
墓石がずらりと並び、静まり返った
中をエレナは手桶と花束を持ったまま迷わず歩く。
やがて、1つの墓石の前に辿り着くと、その墓石に刻まれた名をなぞるようにそっと手を触れ、微笑む。

「ただいま、父さん。全然帰ってこれなくてごめんなさい。元気にしてた…?」

墓石に刻まれているのは、以前に自分も名乗っていた日本の姓。
エレナの実の父の姓。
エレナは墓石の下に眠る父に語りかけ、溢れ出そうになる涙を堪え、落ち着いて来たところで墓石の掃除に入った。
ロシアに渡ってから来れなかった分まで墓石を綺麗に磨き上げると、手桶の水を綺麗な水に移し替え、花を供える。
バッグから父が好きだったお菓子を取り出し供えて、同じようにバッグから取り出した線香に火を着ける。
全てやり終えると、墓石の前にしゃがみ込んで手を合わせた。

(父さん…私、フィギュアスケート続けてるよ。父さんが輝いていた世界で、自分なりに頑張ってる。見ててくれていますか?)

心の中で父に語りかけ、ロシアでの生活や母のこと、新しい父のこと、親友のこと、それから久し振りに会った勝生家のこと、勇利のこと等を思い付く限り話す。
そうしている間に時はすっかりと流れ、真上の方に合った陽が傾いてきていた。

「───じゃあ、私、そろそろ帰るね」

しゃがんでいた体制から立ち上がると、足が痺れてしまっていた。
話をする事に夢中になって気付かなかったエレナは、足に走るビリビリとした不快な痺れに呻きながらも体を伸ばすようにゆっくりと動かし、まともに動けるようになると鞄やゴミ、住職から借りた手桶に柄杓を入れて手にすると、名残惜しそうに墓を背にした。
住職に手桶を返そうと本堂の方へ向かうと、バシーン、という音が聞こえてきた。

(誰か…座禅してる?)

エレナは、経験したことは無かったが知識としてはあった。
邪魔をしないように音を発てないように本堂を覗き込むと、見知った金髪の少年が胡座をかいて瞑想していた。

「!?」

何故、アイスリンクで練習している筈のユーリがこの寺に居て、座禅をしているのか?、エレナは混乱して暫し呆然とその様子を伺うが、まだもう少しかかりそうだと思うと、そっとその場を離れ、終わるのを待つことにした。
暮れなじむ景色を静かに見つめていると、住職と共にユーリが本堂から出てきた。
しこたま打たれたのだろう肩を押さえ、顔を歪めているユーリにエレナは微笑む。

「ユーラ、住職さん」
「!? な、なんでお前がここに居やがる!?」
「あぁ、もしかしてお待たせしてしまいましたか? そこら辺に置いておいて下さってよろしかったのですよ?」

エレナの姿に驚くユーリをそのままに、住職と会話をしてから手桶と柄杓を返し、挨拶をし、ユーリにも挨拶をさせると寺を後にした。
長い階段を下りながら、ユーリが何故寺にいるのか問う。

「…うん、父さんに挨拶をね…ここに父さんの家系のお墓があるから。ユーラは? てっきりリンクでヴィクトルと練習してると思ってたのに、何で座禅なんてしてたの?」
「そうか…。俺は、ヴィクトルの奴に言われて……」

エレナの返答に複雑そうな顔をしたユーリだったが、すぐに表情を苦々しく変え、事の次第を話し出す。
ユーリの演技に、ヴィクトルは何かが違うんだよね、と言った。
今のままのユーリでは、欲が全面に出過ぎてて全然アガペーの無償の愛という感じがしない。
自信を持つのは良いことだけどこの曲では見せ付けるべきじゃない。
そこまで聞いて、エレナは成程、と相槌を打つ。

「それで? ユーラの事だから、黙ったままじゃないでしょ?」

続きを促せば、バレバレかよ…と舌打ちして続きを話す。

「ヴィクトルに、じゃあお前にとってのアガペーは何なんだ?って聞いた。そしたらアイツ──…」

そんなのフィーリングなんだから言語化出来るわけないだろう?
一々そんな事考えて滑ってるのか?
おかしな奴だな、ユリオはー。

「って言って笑いやがった!」
「あぁ〜…それはまた……」

思い出して怒りを露わにするユーリにエレナは苦笑いを浮かべる。

「それから、ヴィクトルに『ま! 寺かな』って言われて…」
「それで、座禅になったわけね」
「そーだよ!」
「それで? 座禅して、何か感じた?」
「…………肩が、痛い」
「……………」

ユーリの返答に、これは明日も寺だな、と思ったのは言わないでおいた。
そのまま2人並んでゆ〜とぴあかつきへ向かい歩いていると、ふとユーリがエレナを見る。

「…なあ、お前にとってのアガペーってなんだ?」
「私? 私なんかの聞いて、参考になる?」
「なるか、ならねぇかは俺が決める。どうなんだよ? お前までフィーリングとか抜かしやがったら、お前が無断で練習サボって、ヤコフとセルゲイに説教された件をヴィクトルとあの豚にチクるからな?」
「えぇ!? もう、素直に教えてって言えばいいのに…」

エレナは顔を歪めてユーリの背を小突く。

「アガペー…無償の愛、か。そうだなぁ、無償の愛と言えば、よく聞くのは親が子供に抱く愛情として有名だね。でも、私に子供なんて居ないし、親が子供を思う愛情はちょっとまだ想像出来ないな」

エレナは考えながら、思い付く事を口にしていく。

「だから、私がもしアガペーを滑るなら、等身大の私で滑る。両親に対する思い、実の父への思い、与えて貰った愛を。与える側の表現は出来ないけど、与えて貰った側として表現する…かな」
「与えて貰った側として…」
「そう。あぁ、それと…最近は、弟に対する愛ってのも、分かってきつつあるかなぁ」

もう一つ、思い当たる感情を思い出し告げると、ユーリがキョトンとして目を瞬かせる。

「は? お前、弟出来たの?」
「ふふっ、実際にできたわけじゃないの。弟みたいに思ってる人が出来たってだけ」

言って、ユーリの夕日に照らされ輝くように見える金髪を撫でる。
やめろ!、とその手を振り払おうとしたユーリだったが、エレナの目がとても優しく自分を見つめていることに気付き、振り払うのを躊躇った。

「…………チッ…」

髪グシャグシャにしたら蹴るからな、とぶっきらぼうに言ってジャケットのポケットに手を突っ込んだユーリに、エレナは嬉しそうに笑った。
可愛い反応についついからかいたくなって、髪をグシャグシャにして思いっきり撫でると、怒ったユーリに本当に蹴られた。
ゆ〜とぴあかつきに無事に辿り着いた頃にはもう陽は沈んでおり、温泉入ってくると言ったユーリと別れて、自分も温泉へ向かう。
たっぷりの温泉に身を委ねると、至福の溜め息が零れる。
昨日は遅くに勇利と帰ってきたため、住宅の方のシャワーを借りてすぐ寝てしまったため、温泉に浸かるのは久々だった。

「やっぱり温泉大好き〜」

自分以外の客が居ない為、自然と歌を歌い出す。
誰も居ない露天風呂は、声がよく響いて気持ちいい。
一曲歌い終えると、大満足で頭と身体を洗い、洗顔を終えると、もう一度湯船に浸かってから温泉を後にした。
館内着に身を包み、まだ濡れたままの髪を纏めて留めると、着替えの下着と持ってきていた化粧水等でスキンケアし、食事処へ行くと既に2人のユーリが机にうなだれるように顔をテーブルに預けて、ヴィクトルがにこにことしながら座っていたため、近付いていく。

「ユーラ、勇利くん、随分疲れてるみたい……大丈夫?」
「あ? …っ、」
「え?…!っ」
「?」

呼び掛けられたユーリと勇利が振り向いてエレナを見留めると、2人同時に言葉を詰まらせた。
ヴィクトルはニッコリと笑顔を向ける。

「wow! レーナ、セクシーだね!」
「んー? そう? 館内着が新鮮だからそう感じるんじゃない?」

ヴィクトルがこっち空いてるよ、とヴィクトルの隣を示して来たので素直にそこに座ると、ヴィクトルの手がソッと伸びてきてエレナの項をその長い指がなぞるように撫でる。

「そんな事ないよ、ココとか」
「!?」

思わずビクリと肩を跳ねて身を捻る。
エレナの反応にヴィクトルは残念そうにしつつも手を引っ込めた。

「あら、エレナちゃんも温泉上がったとね。ご飯持ってきて良かと?」
「はい、食べます」

お盆に湯気立つ料理を運んできた寛子がエレナに気付いて声をかけると、嬉しそうにエレナは頷く。
ちょっと待っててね、との言葉にエレナは立ち上がる。

「おばさん、作ってるところ見てもいい? 私、お手伝いします」
「あら、ありがとねー」

隣に並んだエレナに寛子は嬉しそうに礼を述べると2人ともにこにこと笑いながら、厨房に入って行った。

「ヒロコとレーナ、親子みたい。仲良しだね」

エロスについて、考えが行き詰まっていた勇利は、ヴィクトルの問い掛けに返事する気力もなく、ぼーっとテーブルの上を見つめる。
思考の端々に先程の湯上がりで上気した頬と濡れた髪を纏め上げたエレナの顔、それからロッカールームでの真っ赤に紅潮した顔が浮かび、邪念が混じる。

(エレナちゃん…色っぽかったなぁ〜…ロッカールームの時も、可愛かったし……抱き締めた……って違う違う! 今考えてるのは、エロスだよ、エロス…!)

先程寛子が持ってきたカツ丼をヴィクトルは美味しそうに食べている。
対して太りやすい勇利は野菜炒め。
隣に座っているユーリは勇利と同じ様にテーブルに頭を預けお膳には手をつけていない。

(僕にとってのエロス……エロス………)

エレナが自分のお膳を持って戻って来ても、2人のユーリの状態は変わっておらず、エレナは顔を顰めた。
ヴィクトルの隣のテーブルにお膳を置くと、そのまま正座し、背筋を伸ばす。
それからすぅ、と息を吸い込むと口を開く。

「ユーラ!! 勇利くん!!」
「「!?っ」」

突然響いた声に2人のユーリは驚いてテーブルから顔を上げる。
そこに、ニッコリ笑うエレナの姿があり、ユーリは怪訝そうに、勇利はその表情に顔を青ざめ、慌てたように顔だけではなく背筋を伸ばした。

(ヤバい……怒ってる時の顔だ……)

昔、勇利が誤ってエレナが大事にしていた玩具を壊してしまった事があった。
その時、エレナは怒るでも泣くでもなく、ニッコリと笑ったのだ。
顔は笑っているのに、目は笑っていない。
無言の圧力が、耐えられず、幼い勇利は泣き出した。
あの時の記憶が、勇利の脳裏に瞬時に蘇った。

「ユーラ、勇利くん。お話があります」
「は、はい!」
「あ? 何だよ?」

テーブルに頬杖ついて怠そうに返事をしたユーリに、エレナはニッコリ笑ったままの目を細くさせる。

「姿勢が悪いです。今すぐ直して下さい」
「は…はぁあ?」

一瞬何を言われたのか分からず、ユーリは眉間に皺を寄せる。

「なんでんなことお前に言われなきゃならないわけ? ほっとけよ、俺は今考え事してんだ」
「聞こえませんでしたか? 私は姿勢を正せと言いました。同じ事を二度も言わせないで下さい」

笑顔の圧が増し、ユーリは気圧され、小さく呻く。
渋々といったように背筋を伸ばして座ればエレナが小さく頷き、再度口を開く。

「2人共、プログラムの事で悩んでいるのは分かりますが、何故食事に手をつけないのでしょう? 自分と対話し、演技に磨きを掛けることはとても大事です。真剣に取り組んでいる2人の姿勢は素晴らしいと思います。ですが、せっかく作ってくださった美味しい料理が冷めてしまいます。アスリート足る者、身体が資本。考え事に耽って、それを蔑ろにしてはいけません。そんな事は私に言われなくても知っていますよね?」

確認するように問えば、ユーリは嫌そうな顔をしながらも頷き、勇利はコクコクと頷く。

「では、悩むのは後にして、さっさと食事を摂って下さい。考え事に夢中で、周りがよく見えていないのではありませんか? 貴方達が死んだようになったまま食事に手をつけないものだから、おばさんが私の分の食事を作りながらそれはそれは心配していました」

言われて、2人のユーリが寛子の方を見ると、作業をしながらも心配気にこちらをチラチラ見ている様子が窺えた。
それから、それぞれが自分の前に置かれているお膳を見ると、いつの間にか運ばれてきた時に出ていた湯気は、すっかり消えて見えなくなってしまっている。

「私が言ってること、分かりましたか?」
「うん。エレナちゃん…ごめんなさい…」
「…悪かった」
「謝るのは、私にではありませんよね?」
「うん、後で母さんにちゃんと謝る」
「……俺も…」

2人の返事に満足したエレナは、表情を和らげる。

「良かった! じゃ、皆で食べよう! 私、もうお腹ペコペコ!」
「う、うん…」
「お、おう…」

コロリと態度がいつも通りに戻ったエレナに、2人のユーリは戸惑いながらも頷く。

「レーナ、今のかっこよかった! ゾクゾクしちゃった!」
「え…?」
「今度、俺にもやって!」
「何言ってるの? ヤだよ」

キラキラとした顔のヴィクトルに、ドン引きしながらエレナは顔を顰めた。
何だったんだ今の…と思いながらフォークを手に取ってカツ丼を食べようとしたユーリは、隣からの視線に気付いて怪訝に勇利を見る。

「…何だよ?」
「…………………」

聞いても勇利は何も応えず、ただユーリを…否、ユーリの手にしているカツ丼をジィッと見つめている。
その異常な熱視線に、ユーリが戸惑いよりもよく分からない恐怖を感じ始めた時、エレナは勇利の口から涎が垂れたのを目にしてしまった。

「!??」

その光景に驚愕し、勇利を呼ぼうとしたところで勇利の目がカッと見開かれた。

「分かった、カツ丼! それが僕のエロスだ!!」

大声でそう叫んだ勇利の言葉に、エレナは伸ばし掛けていた手
のまま固まり、ユーリとヴィクトルの動きもピタリと止まった。
シーンと静まり返ったその場に、勇利はハッと気付いて頭を抱える。

「あ…すいません。違いますよね?」
「オーケー、それで行こう。ユニークで良いね」

ヴィクトルは笑って頷いた。

「マジかよ」
「──あ〜…うん。私にはよく分からないけど…でも……あ、ほら! 食欲と性欲は似ているって言う人も居るってどこかで聞いたことあるし! 良いと思うよ、勇利くん!」

ユーリには鼻で笑われ、エレナにはフォローまでされて、勇利は顔を真っ赤にすると、急いで食事を掻き込むように食べ、外へ飛び出した。

「あーーー! はーっずかしー! 発想が幼稚過ぎるって、絶対思われてるよーーーー!!」

勇利は、海辺の砂浜をマッカチンとひたすら走った。
翌日から、2人のレッスンは本格的に始まり、基礎練に筋トレ、演技指導…ハードなスケジュールを競い合うようにこなしていく2人に混じり、一緒になって練習に励んだ。
2人が休憩してる短い間にリンクの全面を使って振付の確認をし、2人の内どちらかが使用している時はリンクの隅で邪魔にならないように気を付けながらジャンプやスピンなどの精度を磨く。
昨日エレナが思った通りに、ユーリに再度寺行きが申し付けられた時は思わず笑ってしまい、ユーリに睨まれた。
勇利はやはりクワドサルコウの成功率が低く、殆ど失敗して転んでしまっている。
着氷しても片手を着いてしまったりと、なかなか思うように跳べていない。
だが、一生懸命の2人の姿はとても眩しく見えた。

(好敵手…って言葉が、ピッタリくる2人だなぁ。ヴィーチャの言葉を借りるなら……良いね、こういうの私大好き! …かな)

エレナは1日の疲れを温泉に浸かって癒やしながら、楽しそうに微笑んだ。
温泉から食事処へ向かうと、2人のユーリとヴィクトルは、エレナが来るのを待ってくれていたようで、手を振られたため、駆け足でヴィクトルの隣に座った。
寛子が持ってきてくれた膳に目を輝かせ、全て平らげ満腹になると、エレナは次第に眠くなってきた。

「エレナちゃん、眠いの?」
「ん……今日はもう寝ようかな」

勇利に聞かれ正直に頷くと、隣で晩酌にビールを飲んでいたヴィクトルが、つまんなそうに声を上げた。

「え〜、レーナも一緒に飲もうよー」
「ごめん、今度にして。今日はもう…睡魔に勝てる気がしない…」
「無敵の女王も、睡魔には勝てないってわけか」
「もう、からかわないで。───あ、そうだヴィーチャ、明日で良いから貴方のパソコンのアドレス教えてくれる?」

立ち上がり、部屋へ戻ろうとしたエレナはふと用事を思い出し、ヴィクトルを見る。

「パソコンの? 良いけど、何で?」
「温泉 on iceでの私の音源。ヴィーチャのパソコンにデータを送って貰おうと思って」
「あぁ、そういうことか。じゃ、僕からセルゲイにメールするよ。セルゲイのアドレスは知ってるし、その方が楽だろう?」
「え…良いの?」
「君の為ならこれくらい構わないよ。今日、部屋に戻ったらメールしておく」
「ありがとう、ヴィーチャ」

エレナが礼を述べて微笑むと、ヴィーチャはエレナの頬に唇を寄せ、「どう致しまして。おやすみレーナ」と耳元で囁いた。

「!? お、おやすみ!」

エレナは眠気で重くなってきていた瞼をカッと見開き、逃げるように部屋へ向かい走り去った。
そのヴィクトルとエレナの流れるようなやり取りをどこか蚊帳の外状態だった勇利は呆然と見つめていた。

(エレナちゃん、ヴィクトルにもああいう顔するんだ……じゃあ昨日のは、ただ単純に恥ずかしかっただけ? 僕が勇気を出して遠回しに言った言葉の意味に気付いて赤くなってくれたわけじゃなかったんだ……あぁ、僕、自分に都合良い勘違いしてた………)

勇利は、コップに入った水を飲み干し大きく息を吐く。

(──よくよく考えれば、そうだよね。ヴィクトルと付き合っていないってエレナちゃんは言ったけど、ヴィクトルは世界一モテる男なんだ。そんなヴィクトルがいつもすぐ傍に居るのが当たり前だったエレナちゃんが、ヴィクトルに恋をしていないだなんて確率は、極めて低い。初恋拗らせて、恋愛経験値も稼げないままで今に至ってる僕なんかが、ヴィクトルに勝てる筈ないんだ)

馬鹿だな、もっと早く気付けよ…と、もしかしたらなんて舞い上がっていた昨日の自分を詰る。

「ユウリ? 顔色が悪いけど……体調悪いの?」
「え? いや…違うよ、大丈夫です」
「そう? 明日もレッスンだし、ユウリも寝るかい? なんなら、一緒に…」
「い、いえ! 1人で寝ます!」

テーブルに上体を預けるようにしながら勇利に伸びたヴィクトルの手が、勇利の顎を掴む。
グイ、と近付いてくるヴィクトルの端正な顔に、勇利の脈拍数が急激に上がっていく。

「勇利はツレないな。親睦を深めるチャンスなのに…」
「は!? や…、あの……僕には、まだ早いです!」

ヴィクトルの放つ色気に顔を赤くした勇利が身を後ろに引き、ヴィクトルの手を顎から遠ざけると、勢いよく立ち上がる。
そのまま、「僕ももう寝ます。おやすみなさい!」と言って踵を返そうとした勇利に、ヴィクトルが思い出したかのように告げる。

「ああ、そう言えば──…レーナのプログラム、何を滑るのか決まったよ」
「!」
「知りたい?」

こてん、と首を傾げるヴィクトルに勇利は頷く。

「知りたいです。エレナちゃんは、何を滑るんですか?」
「ふふっ ユウリには……教えてあげない」
「え…えぇ!? 何で?」
「ツレない勇利には教えてあげなーい」
「…………………ヴィクトル、酔ってるでしょ?」

呆れたように勇利が指摘すると、ヴィクトルはビールの注がれたコップを持ち上げながら、「酔ってないよー」と返すが、やはり勇利には酔っ払ってるようにしか見えない。
溜め息を吐くと、今度こそ立ち上がり、「ヴィクトルも早く寝ないと明日に響くよ」と言って今度こそ部屋へ向かって行った。
その背を見送りながら、ヴィクトルは持ち上げていたコップを置くと、1つ空いたビールの空き瓶を指先で弄る。

「ビール1本くらいじゃ俺は酔わないよ、ユウリ。まだまだだね」

つまりは、すべて酔っ払いの戯言ではない。

(あの表情……少しは仕返しが出来たかな?)

ヴィクトルのキスで赤くなったエレナを見た時の勇利の表情を思い出し、ヴィクトルはコップの中身を呷る。

(さて、部屋に戻ってセルゲイにメールをしなくちゃ。ついでに、例の件も送って貰おう)

ヴィクトルは軽い足取りで部屋に戻った。


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