翌朝、身支度を調えて朝食を食べようと居間に入ったエレナは、勇利の背中を見つけて、おはよう、と声をかけた。
その勇利の背がビクリと震える。
「…おはよう」
どこか気まずそうに挨拶を返した勇利に、その時のエレナはあまり気にしていなかった。
昨夜の、食事の際の一件のせいかな、と考えたからだ。
だが、その考えは違うのではないか、と練習を開始するまでの間に感づき始める。
(私にだけ。私にだけ、なんだか…緊張してるような、気まずそうにしているような…?)
昨日までと同様にヴィクトルユーリ
とは普通に会話をしている勇利だが、エレナが用事があって話しかけると会話はするものの、視線を合わせようとしない。
エレナにしてみれば、不思議だった。
挙げ句の果てには、ユーリから「あのカツ丼となんかあったのか?」と、怪訝そうに聞かれる始末。
旗から見ても、勇利の挙動は不審に見えるようだ。
(…私、何かしたかなぁ?)
一緒に基礎練をしようと思い、話し掛けると視線を彷徨わせた後、先にと柔軟してからやるから先にやっててとやんわりと断られる。
(勇利くん…さっき、柔軟してたよね)
ロッカールームで勇利が身体を伸ばしている姿をエレナは見ていた。
豪に補助を頼みに行った勇利の背を、エレナは切なそうに見てから、そっと視線を外した。
勇利は自分に向けられた視線がなくなると、エレナの姿を目だけで見て溜め息を零した。
「俺? 別に構わないが…エレナは? 一緒じゃねえの?」
「……僕は豪に頼んでるのに、どうしてそこでエレナちゃんが出てくるの?」
事務所で作業をしていた豪に声をかけると、不思議そうな顔で見られ、勇利は複雑な顔をして聞く。
「いや…だってお前、アイツのことが昔っから好きだっただろ?」
「え!? な、何言って…」
「あ? 気付かれてねぇと思ってたのか? お前、小っちぇえ頃から丸分かりだったぞ?」
狼狽える勇利に、呆れたように言うと豪は肩を竦める。
「せっかく再会して、昔みたいに話せるようになったってのに……何? 何かあったのか?」
「えぇっと……まぁ、エレナちゃんと何かあった…と言うよりは、僕がちょっと……」
言いづらそうに口ごもる勇利に、豪は頭を掻く。
「ロッカールームに行くか。話聞いてやる」
「う、うん……」
誰も使っていないロッカールームに入ると、ドアに内から鍵をかける。
ユーリとヴィクトルはリンクを使っており、エレナは外で基礎練。
暫くは誰も入って来ないだろうが、念の為の行為だった。
「───それで? どうした?」
「あぁ…うん、昨日……なんだけど…」
豪はベンチに座ると勇利に話すように促し、勇利もゆっくりとベンチに腰をおろすとおずおずと話し出す。
先ず話すのは、昨日エレナとのロッカールームでの会話。
「豪にはもう相談したけど、豪に聞く前にエレナちゃんともエロスについて話したんだ。流れで、僕の…初恋の話になって…その、あの……小さい頃の僕は、自分の気持ちに気付いてなくて、エレナちゃんとお別れする時に、…漸く気付いたんだ」
「それはまた……俺達にしてみれば、あんだけ分かりやすかったのに、気付いてなかったのか」
勇利の話に、豪は驚くというよりも呆れたように笑う。
「うん、自分でもどんだけ鈍いんだって思うよ。もっと早く気付いてたら……今、こんな複雑な気持ちになんてなってなかったと思うし……」
勇利が自嘲するように苦笑いを浮かべると、豪はその表情に眉を顰める。
「僕は……あの時に、本当は誰に惹かれていたのか気付いたって…ちょっと、頑張って…エレナちゃんに言った」
「おぉ! やるじゃねぇか! それで? エレナは何て?」
興奮したように豪が先を促すと、勇利はその時のエレナの表情を思い出し、微かに頬が赤く染まる。
「最初は、多分僕が何を言ってるのか気付いてなかったと思う。キョトンとしてたし……けど、暫く見つめ合ってたら、エレナちゃんの顔、真っ赤になった」
「! マジか!!」
「僕、びっくりしちゃって……何か言う前に、逃げられた」
「えぇ〜? お前…そこは、もう一押しする所だろーが? 手を握るとか、抱き締めるとか……そんな反応されたら、黙ってられねーだろ、普通!」
意外とやるじゃねーかと興奮していた豪は、爪の甘い勇利の話のオチにガックリと肩を落とす。
「今なら、あーすればよかったとか、こうすればよかったとか、言えるけど、あの時の僕は…まさか、そんな反応してくれるなんて思ってなかったから……混乱して全く動けなかったんだよ」
「昨日も言ったけど、恋愛経験乏しいもんな、お前。どうせずっとエレナ一筋だったんだろ?」
「う……そうですけど…」
図星をさされて勇利は口ごもる。
「分かり易い奴だよな……てか、まさかそれで気まずくなってんの? お前の話だけ聞いたら、結構脈ありっぽくねーか?」
「正直、家に帰るまで僕もそう思ってた。結構、浮かれてた」
頭の中は、エロスとエレナの事でいっぱいになっていた。
「家でなにかあったってことか…」
「うん……食事の後、エレナちゃんが眠そうにしてたから、部屋に戻るように声をかけたんだ。そうしたら───…エレナちゃんの隣で1人で晩酌してたヴィクトルが、エレナちゃんに…キス、した」
「キスぅう!? なに?ヴィクトルとエレナ、報道されてるとおりに付き合って…」
「あぁっ、違う違う! ヴィクトルとエレナちゃんは付き合ってないよ! 誤報でよく勘違いされるって、エレナちゃん話してたし! それに、キスも口じゃなくて頬! 頬にしてた!」
立ち上がった豪に、勇利は慌てて頭を振る。
「…………なんだ…そう言うことか…びっくりしたじゃねぇか…」
すとん、とまたベンチに座った豪に、勇利は苦笑いで謝る。
「…突然キスされて、しかも耳元でなにか囁かれてエレナちゃん……真っ赤になった。その顔を見て、自分がひどく自惚れで、自分に都合の良い解釈をしてたのかって…気付いた」
「あ〜……成程。──お前、自分とあのヴィクトル・ニキフォロフを比べたな?」
本日三度目の図星は、深く勇利の心に突き刺さった。
無言で頷いた勇利に、豪は長い溜め息を吐く。
「それで勝手に勘違いしてた自分が恥ずかしくってエレナとまともに話せないって? そんな所か?」
「……はい、そうです」
俯きながら頷く勇利に、豪は頭を掻く。
「───まぁ、よく考えれば、エレナはロシアでヴィクトルとずっと一緒に居る環境で、さらには略称で呼び合う仲だしな。まだ付き合ってないってだけで、そうなるまでもう秒読み段階…なのかもな? そんな状況なら、俺だったら即ヴィクトルに惚れてるわ」
「! そう、だよね……僕も、同じような事考えたよ……」
顔が引きつった笑いに、豪は複雑そうに顔を歪める。
なんと言葉をかければ良いのか、逡巡する。
「……でも、お前の考えも俺の考えも、結局想像でしかないよな? エレナに、ヴィクトルが好きなのかって聞いたのか?」
「な! そ、そんな事聞けないよ!?」
豪の問いに、勇利は驚いて顔を上げると何を言い出すんだと頭を振る。
「聞けよ。聞いて、ちゃんと自分がエレナをどう想ってるのか伝えろ。いいか? アイツは温泉 on iceが終わったらロシアに帰っちまうんだぞ? お前がロシアのユーリに負けたら、その時、ヴィクトルも一緒にロシアに帰る。お前、そんな事になったらスケート続けられんのか?」
「!!っ」
豪の言葉に勇利は息を呑む。
「──それに、お前の話を聞いて、もしかしたらって思ったんだが……」
そこまで言って、豪は言いづらそうに口ごもる。
勇利はそんな豪を不安そうに見ていると、意を決したように豪は再度口を開いた。
「あくまで俺の憶測だからな? そうと決まったわけじゃない…それを念頭に置いて聞けよ?」
「…うん……」
「ヴィクトルは、エレナのことが好きなんじゃないか?」
「……………………え…?」
何を言われるのか、身構えしていた勇利だったが、それでも反応が遅れた。
「さっきも言ったが、俺の勘違いかも知れない。だが、それを考えると結構納得出来る部分があるんだよ」
「納得出来るって…?」
「お前、昨日初恋の話をしてエレナに逃げられたって言っただろ? 逃げ出したエレナは、どこに行ったんだ? 単純に考えると、アイスリンクじゃねぇか? …さっきまで勇利と一緒にいたエレナが、真っ赤な顔してリンクに来たら、ヴィクトルがそれを見たら…どう思う? お前と違ってヴィクトルは恋愛経験豊富だろうし、まあ、そうじゃなくても勇利と何かあったって気付くだろ?」
豪の言葉に、目を見張ったまま身体が硬直したかのように動けなくなった勇利は、ただ愕然としながら黙って豪の話を聞いている。「勇利は分かり易いから…きっとヴィクトルは、お前の気持ちに気付いてる。だから、昨日のエレナへのキスはお前への牽制。エレナに手を出すなっていう…牽制の意味が含まれていて、わざとお前に見せ付けるようにやった」
「……僕に、見せるためにわざと…エレナちゃんにキスした?」
「だと思うぜ? それに、普段からヴィクトルはエレナに対して距離が近いと思う。エレナは多分いつものことで慣れてしまってるんだろうが…それを見た周りが、2人は付き合ってるんだって誤解するくらいだから…確信犯かもな」
「え……え…? じゃあ本当に? 本当にヴィクトルは、エレナちゃんのことが好き…なの??」
豪の話を聞いていると、確かに筋が通っているように思えてならない。
「あ〜…俺は、そうじゃねぇかなと思う…俺より、お前は?」
「僕?」
「勇利、お前の方が俺よりヴィクトルと接してるだろ? 思い返してみろ……ヴィクトルがエレナと接する時、お前やロシアのユーリと居る時と違う事はないか? 表情や、仕草…態度でも……なにか、感じたことねぇか?」
「…………違う、こと……」
言われて勇利は記憶を辿る。
ロシアからユーリとエレナが突然長谷津に来た時のヴィクトルの反応、それよりも前…GPFでエレナを見ていた時の表情、美味しそうに幸せそうに蕩けた笑顔を見せたエレナと自分の会話を、ヴィクトルはどんな表情で見ていた? 勇利の母、寛子とエレナは仲良しだね、と言って見ていた時、どんな表情をしていた? 次々と思い出して行くと、ヴィクトルがどんな表情で見ていたか思い出せない部分もあったが、思い出したヴィクトルの声は…表情は、ひどく優しかった。
目を細めて優しく微笑むヴィクトルからは、エレナに対する愛おしさが込められていたようだった。
(────あぁ……っ、)
そこまで考えて…勇利は両手で頭を抱えてうなだれる。
(あぁ…僕は、本当に……自分の事にいっぱいいっぱいで………気付いていなかった…)
「…豪……」
たっぷりと時間をかけて、記憶を辿る旅から帰ってきた勇利は、小さく口を開いた。
「なんだ?」
「豪の言う通りだ……僕も…僕も、今はヴィクトルがエレナちゃんの事が好きなんだって…そう、思うよ……」
「!! ────…そうか……」
豪は勇利の心情を気遣い、宥めるように慰めるように肩を叩いた。
「スケートのライバルがロシアのユーリで、恋のライバルがあのヴィクトルとか…お前……大丈夫か?」
大丈夫ではないだろうと思いながらも、豪は聞かずにはいられなかった。
「あんまり……いや、かなり大丈夫じゃない…」
だろうな、とはとても言えなかった。
「勇利、ヴィクトルは世界一モテる男だって言われてるけど、だからといってその男の恋が必ずしも実るとは限らない。お前にだって可能性はあると思うぜ。俺はお前を応援する! 頑張れよ!」
「っ、……ありがとう」
豪がバン、と勇利を勇気付けるように背中を勢い良く叩く。
その勢いと痛みに少しつんのめりながらも、勇利は苦笑いでも笑う。
「先ずは、エレナから逃げてねぇでちゃんと話せ。んで、アプローチかけろ、隙があれば告白でも抱き締めるでもキスでもしちまえ! エレナのこと、諦められるなら別だが…ここまで初恋拗らせて来たんだ……無理だろ? だったら、腹括れ!」
「───…うん、そうだね。僕、頑張る」
「よし! じゃあとっとと基礎練行ってこい。エレナ、きっと待ってんぞ!?」
「っ、………よし!」
一瞬、躊躇いを見せた勇利だったが、すぐに立ち上がるとロッカールームのドアの鍵を開けると飛び出した。
「──…とは言ったものの……一筋縄じゃいかねぇだろうな…踏ん張れよ、勇利」
恋のライバルの相手は、可愛い子猫ではない。
あのヴィクトル・ニキフォロフ。
それを思うと、豪は前途多難であろう勇利の恋がうまくいくように…心の中で祈った。
だが、やはり勇利の恋は少女漫画のようにはうまくいかない。
ロッカールームを飛び出した勇利の目に、基礎練を終えたエレナがアイスリンクのドアから中へ入っていく姿が映った。
勇利が声をかけるより、ドアが閉まる方が早かった。
エレナの後を追いかけてリンクへ向かう事は出来ない。
勇利は、今日の分の基礎練がまだ終わっていないのだ。
(すぐ、終わらせて…話しかけなきゃ! とりあえず、朝からの態度を謝ろう!)
そう決意して、基礎練を怒濤の勢いで終わらせ、急いでアイスリンクに入ると、エレナはリンクの隅で振付のチェックをしている。
真剣な表情に、声をかけるのは躊躇われた。
集中しているエレナは、他の事が耳に入らなくなる。
だが、それでも早く話をしなくては…、と勇利がエレナに声をかけようとするが、それを打ち消すようにヴィクトルの声が響く。
「勇利! 基礎練終わったの!? 次、入って!」
「は、はい!」
勇利は慌てて靴紐を結ぶとリンクの中、ヴィクトルの元に滑る。
「随分遅かったね? レーナと一緒だと思ったのに……何かあった?」
「い、いえ!」
「……そう、なら滑って見せて。ユウリのエロス」
「はい!」
エレナは、リンクを滑る音が変わったことに気付くと顔をあげ、滑走者がユーリから勇利に変わった事を確認するといつもは見ている練習姿も見ているのが辛くなり視線を逸らす。
リンクサイドを見るとユーリが水分補給をしながら勇利とヴィクトルの練習を眺めている。
エレナは心を落ち着けるように深呼吸し、滑り出す。
滑っている間は、スケートの事だけに集中出来た。
昼食をユーリと摂り、午後の練習が始まると筋トレとバレエの基礎練で汗を流し、アイスリンクに戻るとヴィクトルしか居なかった。
「あれ?」
ユーリはまた寺へ行ったのかと思ったが、勇利の姿もないことに不思議に思いながらも、筋トレや基礎練をしているのだろうと検討をつけて、靴紐を結ぶ。
2人がいない間は、エレナがリンクを使っていい事になっている。
エレナは、リンクサイドからリンクへ上がると、氷の感触を確かめ滑り出す。
エレナが練習に入る前に、エレナが戻って来たことに気付いたヴィクトルが近づいて来た。
「通しで滑る?」
「うん、そのつもり。2人は?」
ヴィクトルの問いに頷き、姿のなくなった2人はどうしたのか聞けば、ヴィクトルは笑う。
「2人共、滝に行ったよ」
「滝!? え……寺の次は滝!?」
「ユリオには無我の境地が必要だし、ユウリは少し頭を冷やした方が良いからね」
驚くエレナにヴィクトルはずっと笑顔だ。
「そっか……じゃあ、今日はもう切り上げたら? 私ももう少し滑ったら終わりにするし」
「もう少しで終わりにするなら一緒に帰ろう。俺、終わるの待ってるから」
「え、悪いよ」
「俺がレーナと一緒に帰りたいんだよ。君のスケートも見てられるし」
にこにこと笑うヴィクトルに、これは何を言っても無駄だと悟り、「オーケー、待ってて」と肩を叩いてリンクの端を円を描くように滑り出す。
身体の調子をみながら、なるべく早く済まそう、と考えた。
「やっぱりあのプログラム良いね。内容は鬼だけど。あの曲の振付、レーナが自分でしたんだろう? よくあれだけ難易度上げたよね、あれを滑ってるレーナを初めて見たとき、君はドMだなって思った」
練習を終え、2人はゆ〜とぴあかつきへの帰路を、雑談しながら歩く。
ヴィクトルは、朝乗ってきた自転車を引いて歩いている。
「自分の事を棚に上げてよく言うよ。今回の2人のプログラムだって、相当難易度高いよ。私がドMなら、ヴィーチャはドSでしょう?」
「そんな事ないさ。俺は出来ない事をやらせたりしない」
「…ふーん」
つまりは、今回の振付は滑れればただ勝てるだけのプログラムにしたのではなく、2人の技術、表現力も想定に入れて作ったのだと読みとれて、エレナは嬉しそうにクスクス笑う。
「ヤコフコーチは、ヴィーチャにコーチなんて出来るわけないって言ってたけど、貴方、案外コーチに向いてるかもね」
「え、本当?」
驚いたようにヴィクトルが目を瞬かせる。
「うん。───あ、でも、引退を勧めてるわけじゃないよ? ヴィーチャは、まだ現役で輝ける。それに、貴方のスケートが見れなくなるのは、寂しい。貴方のスケートは、見てて気持ち良いし、それに胸が熱くなる。貴方のスケートが好きなの」
自分の気持ちを素直に口にすれば、
ヴィクトルは感極まったようにエレナを抱き締めた。
急に手を離した自転車が、ガチャンと音を発てて倒れる。
「ヴィ、ヴィーチャ、急に抱きつかないで!」
「だって嬉しいんだ! 君に、好きだなんて言って貰えるとは思ってなかったから!」
「え……今まで、言ったことなかったっけ?」
ヴィクトルの腕の中でエレナが首を傾げると、ヴィクトルは少し怒ったように、ないよ!、と答える。
(そうだったっけ?)
あれ?、と思考を巡らせていると、ヴィクトルの腕が微かに緩んだかと思うとすぐに耳元にヴィクトルの吐息が掛かり、エレナはびくりと肩を揺らす。
「でも、好きなのは俺のスケートだけ?」
「ひゃ…! や、やだヴィーチャ、そこで喋らないで!」
ヴィクトルが話す度にその唇と吐息が耳に触れ、エレナの身体が勝手に反応する。
その反応の良さにヴィクトルは内心笑いながら、自分の胸を必死に押して逃げようとするエレナの身体を逃がさない、と抱き締める腕に力を込める。
「ねぇ、レーナ…俺の事は?」
「…え?」
「俺自身の事は好き?」
「!!っ」
耳元で囁かれた声はとても甘く、けれどどこか切ない響きが混じっていた。
目を見開いたエレナのヴィクトルの胸を押す手が、動きが止まる。
胸に置いた状態になった手から、ヴィクトルの心臓の鼓動が伝わり、その鼓動の速さに気付いてエレナは息を呑む。
身長差があるがヴィクトルが少し腰を曲げているため、ヴィクトルの肩越しの景色は見えるが、鼻を擽る香はヴィクトルのもの。
この質問は、いつもの悪ふざけではない、とエレナは気付いてしまった。
「……ヴィーチャ…私は……ッ!?」
エレナの言葉はそこで途切れた。
一緒について来ていたマッカチンが2人が遊んでいると勘違いし、エレナの足に背後から飛び付いたからだ。
どし、とのし掛かる結構な重量にエレナはなんとか踏ん張るが、長くは保たないだろう。
「マッカチン! ダメだよ」
ヴィクトルがマッカチンを見下ろして言うが、マッカチンは尾をブンブン振り回して、嬉しそうに吠えるだけ。
諦めたように溜め息を吐いたヴィクトルは、エレナを抱き締めていた腕を離し、変わりにマッカチンを抱き上げる。
マッカチンは、相変わらず嬉しそうにヴィクトルの顔を舐める。
「マッカチン〜、せっかく良いとこだったのにぃ〜! 邪魔した奴にはお仕置きだよ!」
言いながら、アスファルトに下ろしたマッカチンの頭をグシャグシャに両手で揉みくちゃにする。
楽しそうに笑うヴィクトルとマッカチンのじゃれ合う様子に、エレナは気付かれないように息を吐く。
(マッカチンが、助けてくれた……)
まだ心臓の鼓動が速い胸元に手を起きながら数回深呼吸し、倒れたままの自転車を起こした後、ヴィクトルとマッカチンを呼ぶ。
「帰ろう? 私、温泉入りたい」
「いいね! あ、そうだ…早く終わったし、温泉終わったらラーメン食べに行こうよ!」
エレナから自転車のハンドルを握る手を交代しながら、ヴィクトルが思いついたように言えば、エレナは目を輝かせる。
「ラーメン! 食べたい! …あ、でもあの2人、まだ帰って来ていないんじゃ…?」
エレナが、ハッと気付いて言うと、ヴィクトルは不思議そうに首を傾げる。
「帰ってきてなくても、俺達で食べに行けばいいでしょ?」
「え、私とヴィーチャで?」
「そう、俺とレーナで!」
「えぇ〜…?」
2人だけで行こう、と言われ、エレナは顔が引き攣る。
思い出すのは、先程抱き締められたばかりのヴィクトルの言動と、掌から感じた胸の鼓動。
どこのラーメン屋に行くつもりなのかは分からないが、例え近場だろうと2人だけで行くのをエレナが躊躇うには充分だった。
(こういう時、なんて言って断れば良いの!? 助けて、ミーリャぁああ!)
ヴィクトルまでとはいかないが、ほぼ皆無のエレナより恋愛経験値を明らかに積んでいる親友に心中で助けを求めるが、ロシアならまだしもここは日本…親友が駆けつけて助けてくれる筈もなかった。
仕方なく、エレナは知恵を絞って反論してみたが、それは悉くヴィクトルに笑顔で論破され、じゃ、温泉上がったら玄関で待ち合わせね!、とニコニコのヴィクトルに最後に押し切られ、エレナはヴィクトルと2人で出掛ける事になった。
話が終わってちょうど良くゆ〜とぴあかつきに到着すると、マッカチンを抱えてヴィクトルは中へ入って行ってしまい、エレナも続いて中へ入ると部屋で支度を整えて温泉へ向かう。
(どうしよう……ヴィクトルと2人きりなんて、気まずい。非常に気まずい)
温泉のお湯に身を委ねながらエレナは息を吐く。
恋愛経験値が低いエレナではあるが、ヴィクトルが自分に示す好意に気付かないほど鈍くはなかった。
気付いた際親友に、「ヴィーチャって……もしかして私の事、好きなのかな? いや、んなわけないか!」と、笑って言ったのだが、「え、気付くの遅くない!?」と驚愕の反応を返されたことは内緒だが。
(…あぁ! ミーリャが居てくれたら!!)
遠いロシアの地にいる親友が恋しい。
(……もう、あの2人が帰ってきている事を祈るしかない…)
だが、エレナの祈りは神に届かなかった。
出掛ける準備を終えても、2人は帰ってこなかった。
「仕方ない…ラーメン食べたらすぐ帰る! そうしよう!」
エレナはなんとしてでもすぐ帰る!、と決意して玄関へ向かうとヴィクトルと合流し、寛子に行ってきます、と2人で告げてゆ〜とぴあかつきを出たエレナは、目を丸くした。
「タクシー?」
「俺が呼んだ。さ、乗ろう」
「え!?」
ヴィクトルに肩を抱かれ、あっという間にタクシーの中へ押し込まれる。
「オネガイシマース!」
「はい! 任せてください!」
ヴィクトルが日本語で運転手に言うと、運転手は何故かノリノリで返事をして車が走り出す。
エレナは嫌な予感にヴィクトルを見る。
「ねぇ、ラーメン食べに行くんだよね? 近場だからタクシー呼んだんだよね?」
「ん? さぁ? 彼にお勧めの長浜ラーメンのお店に連れてってってお願いしただけだから、分からない」
「はぁ!?」
まさかの場所不明!?、とエレナは焦る。
歩いて行ける距離の…商店街辺りのラーメン屋だと思っていたというのに、それではさっさと帰ろう計画が無に帰してしまう。
エレナはヴィクトルから運転手に視線を移すと、運転手はウキウキで、とても嬉しそうだ。
エレナには運転手の後ろ姿から、彼が何故ウキウキなのか考える。
(単にヴィーチャのファンで自分のタクシーに乗せれて嬉しい、ってだけなら別に良いけど…長距離上客でやったぜ!っていうのは……ヤバい)
「運転手さん! どこに向かっ…!?」
行き先を訪ねようとしたエレナの口を、ヴィクトルの大きな手が塞ぐ。
「シー! ダメだよ、レーナ。行き先聞いちゃったら、楽しみがなくなっちゃうだろ?」
「!?」
「それに、彼には内緒にしてねってお願いしてるから、答えてくれないよ」
「何ですと!?」
ヴィクトルの手を両手で口から剥ぎ取り、エレナは驚きに声を上げる。
「試してみる?」
余裕たっぷりに笑うヴィクトルにエレナは背凭れに身体を預けた。
「お客さん? どうかしました?」
「いえ、何でもありません」
不思議そうに聞かれたが、エレナは大丈夫だと答える。
(──もう、良いです。私が世界一のモテ男に勝てる筈なかったのよ。無駄な抵抗でした!)
エレナは、大きな溜め息を吐くと外の景色を眺める。
(知らない景色……私、どこに連れて行かれるんだろう)
結局、タクシーが着いたのは博多。
車で拘束を利用して片道で60分以上かかる距離を移動してきたことになる。
タクシーのメーターにも驚いたが、それを笑顔のままに払ったヴィクトルにも驚いた。
運転手に日本語でお礼を言って、ヴィクトルはエレナの手を引いて歩き出す。
「レーナ、サプライズ驚いた?」
「ええ! とってもね!」
良い意味でじゃありませんけど!、とはヴィクトルの表情を見たエレナには言えなかった。
喜んでもらえた、と嬉しそうに笑うヴィクトルはとても綺麗に見えた。
(ユーラといい、ヴィーチャといい、どうしてロシアの男はこんなに強引なんだ! 私が押しに弱い日本人だから? そんな馬鹿な…12歳で日本を離れてからずっとロシアに住んでるんだもの。耐性の1つや2つ、出来てる筈でしょ!?)
心の中で文句を言っていたエレナだったが、長浜ラーメンを食べてそんな文句は言えなくなった。
「美味しい!!」
「フクースナー!」
さっきまでムスッと不機嫌そうにしていたエレナが、今はもうニコニコと美味しそうに屋台でラーメンを啜っている。
その変わり身の早さに、ヴィクトルはクスクスと笑うが、ラーメンに夢中のエレナは気付かない。
「屋台でラーメンなんて食べたことなかった。おいしかったー!」
「美味しかったね。じゃ、次行こう!」
屋台から出て来たエレナが満足してニコニコ言うと、ヴィクトルは頷き、エレナの手を掴むと歩き出す。
「は? ちょっとヴィーチャ、帰んないの?」
「えー、せっかくヤタイに来たのにお酒飲まないなんて勿体ない! 昨日付き合ってくれなかったんだから、今日はいいだろ?」
「屋台でお酒…」
その言葉に、エレナの心がグラグラと揺れる。
エレナは酒が嫌いなわけじゃない。
あまり強くないので多くは飲めないが、嫌いではない。
どちらかと言えば好きなのだ。
屋台でお酒、という何とも甘美な誘惑に、エレナは負けそうになるが、一緒に飲む相手はヴィクトル。
ヴィクトルは酒に強いし、何よりエレナを好いている。
そんな相手と2人で飲むのは、果たして大丈夫だろうか?
(いやいや、大丈夫じゃないでしょ!)
「もうすぐロシアへ帰るし、今日を逃したらこの先ずっと飲めないかもよ? レーナは一杯だけでも良いから、今夜は俺に付き合って」
「……………分かった、じゃあ一杯だけね!」
一杯だけ、と言われ、見事にエレナは誘惑に陥落した。
ヴィクトルと2人だけでお酒を飲むのは、当たり前だがこれが初めてだ。
今まで何度が誘われた事がなかったわけじゃないが、それは全て断ってきていた。
バンケットでは皆と一緒にであれば飲んだことはある。
屋台に入ると、お勧めの日本酒を頼み、2人で日本式に乾杯をする。
舐めるように飲めば、スッキリとした喉越しで飲みやすい。
「ん、美味しい」
ペロリとお酒が付いた下唇を舐めながらエレナが目を細める。
その様子を隣で見てしまったヴィクトルは、口を手で覆う。
「? ヴィーチャ?」
「ヤバい…今日は、もう酔った」
「え!? 早過ぎない!?」
まだ一口しか飲んでないよ!?、と驚くエレナに、ヴィクトルは笑う。
「──いや、大丈夫、まだ酔ってない。今日は、いつもより飲めそう」
「どっち!?」
エレナがわけが分からないことを言い始めたヴィクトルに、本当にもう酔っ払ったのではないかと、これ何本?と立てた指の数を当てるゲームをし出す。
ヴィクトルはそれに難なく答えたので、エレナは息を吐いてまた日本酒を今度は普通に飲み込み、お通しを箸で摘まんで口に運ぶ。
ヴィクトルも箸を使ってお通しを食べているのを見たエレナが感心したように言う。
「ヴィクトル、お箸上手だよね」
「最初は全然使えなかったけど、今は慣れた」
「ユーラも帰るまでには使えるようになるかな?」
「多分ね」
「でも、グーとかで握って使いそう。覚えたての赤ちゃんみたいに」
「あぁ、確かにやりそう」
言って想像するとおかしくなり、エレナは笑う。
(なんだ、案外普通だ。この調子なら、変な空気にはならなさそう)
エレナは、そう思って肩に入れていた力を抜いた。
存外、日本酒での一杯というのはビールジョッキ一杯より簡単に飲み終わる。
最後の一口を飲み終えると、エレナは烏龍茶に変えようと店主に話し掛けようとしたのだが、思わぬ横槍が入った。
「お姉ちゃん、旨そうに飲むね。よし、俺が一杯奢ってやろう! おっちゃん、このお姉ちゃんに俺のお気に1つ!」
「え!?」
「あいよー!」
ヴィクトルと逆隣に座っていた赤ら顔のおじさんが、上機嫌で店主に声をかけた。
固まるエレナに、日本語の分からないヴィクトルが首を傾げる。
彼は既に三杯目だ。
「どうした?」
「い、いや、隣の人が…」
不思議そうなヴィクトルに今、自分でも良く理解出来ていない状況を話そうとした途中で、店主がにこやかな顔で、新しい日本酒をエレナの前に置いた。
「あれ、レーナおかわり? 一杯だけじゃなかったの?」
「と、隣のおじさんが、何故か一杯奢ってくれるって言って、断る間もなく…!」
どうしよう! と困っている事が丸わかりのエレナの頬は、お酒のせいか仄かに赤く色づいている。
「……俺が飲もうか?」
「お姉ちゃん、それ、旨いよ。俺のお勧め! 飲んで飲んでー!」
ヴィクトルが心配そうに言ってくれたが、隣のおじさんの早く飲んでという笑顔の圧が凄い。
(仕方ない、コレを飲んだら烏龍茶を貰おう…もう一杯位平気だし)
そう思い、ヴィクトルに頼まず自分で飲んだエレナはここで選択を誤った。
升を持ち上げ一口飲むと、エレナは驚く。
「これ、最初はピリッとくるのに、鼻から抜けていく香がフルーティーで後味が面白い」
「! そう! そうなんだよ! お姉ちゃん良いね! 分かってるじゃないか!」
「あはは、ありがとうございます。美味しいお酒、ご馳走様です」
おじさんにご機嫌で肩を叩かれ、エレナは誉められて、照れたようにはにかんで礼を述べる。
その表情に、おじさんの…否、楽しそうに様子を見ていた屋台の他の客達の動きが止まった。
それには気付かず、エレナは奢って貰ったお酒をもう一口飲む。
「良かったね。次は俺もそれにしようかな」
「うん。あ、焼き鳥私も食べたい! 店主さん、焼き鳥下さい! 塩で!」
「あいよー!」
店主の了承の声に、固まっていた客達がハッとして動き出す。
「店主! あっちの姉ちゃんに、俺のお気に入りを1つ!」
「オレも!」
「あいよー!」
ヴィクトルと話していたエレナは、背後でそんなやり取りがされていたなど気づいておらず、店主から焼き鳥と日本酒を二杯
目の前に置かれて、目を瞬かせる。
「え? 私、お酒は頼んでいません」
「酒はあっちの2人からね」
「え!?」
店主に言われて、目を丸くしたまま視線を向ければ、顔を真っ赤にしたサラリーマン風のスーツを着たお兄さん2人が手を振っていた。
エレナはそれに苦笑いで手を振って返す。
(えぇえええええ〜…何してんの、お兄さん達〜…)
2人は、ジッとエレナを見ている。
(あぁ、これは……マズいことになってるような…?)
もう2杯目も飲み終えそうだったエレナは心中で激しく狼狽えながらも、平静を装う。
「え、レーナまた貰ったの? 今度は誰から?」
「あっちのスーツのお兄さん達2人から貰った」
「……ふーん…大丈夫?」
ヴィクトルは先程とは違い、エレナにお酒を奢ったのが若い男性2人だと見て、目を細める。
エレナを見ていたお兄さん達は、ヴィクトルの表情にびくりと肩を揺らし、ソッと視線を外して2人で話を始める。
「あんまり大丈夫じゃないけど、せっかくご厚意でくれたものをその人の目の前で断るのは、申し訳ないし……飲むよ」
「でも、顔、もう結構赤くなってるよ? 日本酒ってアルコールわりと強いって聞いたことあるし……」
言いながら、ヴィクトルがエレナの赤くなった頬に掌を宛てる。
ヴィクトルの手は、お酒で火照ったエレナの頬には心地よい温度だったため、エレナは思わずその手にすり寄る。
「!? レーナ!?」
「ヴィーチャの手、気持ちいい…もっと触って…?」
ギョッと驚いたヴィクトルが手を引こうとしたが、エレナはその手を握って自分の頬に持っていき、更にもう片方の手も握って自分の頬に宛てるように持っていく。
自分の手に心地良さそうに酒の為に潤んだ目を細めてエレナは力なくユルリと笑う。
その表情を間近で見たヴィクトルの顔に、カッと熱が集まる。
「っ、ちょっ……待って! マズいから!」
頼むから、そんな顔しないでくれ、理性が…っ、と慌て出すヴィクトルに、周りの客はニヤニヤと笑い出す。
「お姉ちゃん酔っ払っちゃったか?」
「いえ、まだイケます!」
肩を叩かれたエレナは、何故か敬礼して答えると、目の前にあった日本酒を豪快に飲む。
周りの客が、おー!と歓声を上げる。
酔って力の加減が出来なくなって来ているのか、傾け過ぎて飲みこめきらなかった酒が、口端から漏れて顎を伝って首筋、胸元に流れていく。
目の前のその光景に、ヴィクトルの喉が鳴る。
3杯目を飲み干し、4杯目を飲み始めた所まではエレナに記憶はあった。
だがその後から目を覚ますまでの間に一体何があったのか、とんと記憶になかった。
目を覚ましたエレナは、まず目の前に見知った人物の安らかな寝顔があって驚いた。
そして、驚いた拍子に出た自分の声に、頭がグワァンと揺れ、ズキズキ痛むことに混乱する。
混乱しながらも痛む頭を押さえながらゆっくりと上体を起こそうとしたエレナは、己の格好に声にならない悲鳴を上げた。
隣に寝ていたエレナが動いたためか、まだ心地良い眠りの中にいるヴィクトルの腕がな持ち上がり、上体を起こそうとしたままの姿勢で固まっていたエレナの首に巻き付き、引き寄せる。
「!?」
視界の急激な変化と走る頭痛に顔を歪めたエレナは抵抗出来ず、なすがままにヴィクトルの首筋に顔を押し付けられ、次いで伸びてきた片腕がガッチリとエレナの腰に巻き付き、素肌と素肌が密着する。
驚愕と混乱するばかりの情報量に、キャパオーバーし、エレナはフリーズしてしまった。
(な、な…ななな…何が……一体これは、何が起こって…? これは、夢? あ! そっか、夢だ!!)
夢なら、驚く事ばっかりで支離滅裂でも仕方ないな、とエレナはヴィクトルの腕の中で自分の頬を抓る。
ほーら、やっぱり全然痛くないもの! 全然痛く…ないぃ…、と痛みを我慢しながらエレナは笑う。
「ん、…」
「っ!」
耳元にヴィクトルの声が響いて反射的にエレナの身体がビクッと跳ねる。
「……ヴィ、ヴィーチャ…?」
恐る恐る上を見上げて名を呼ぶと、ヴィクトルの長い睫が震え、ゆっくりと開いていき、二、三度小さく瞬きを繰り返し、やがて視線が何かを探すように彷徨った後、自分を見上げているエレナに気付いて優しく愛おしそうに微笑んだ。
その表情に、ドキリとエレナの心臓が音を発てる。
「おはよう、レーナ…」
自分の腕の中に収まっているエレナをぎゅうっと抱き締め
、耳元で寝起きの為か少し掠れた甘い声はひどく腰に響いて、エレナの体から力が抜けていく。
「ヴィーチャ、やだ…そこで喋らないで……なんか…力、抜けちゃう」
「え」
「腕も、離して。これじゃ起きられない」
「嫌だ、もう暫く君を全身で感じていたい」
言いながら、もっと全身が密着するように足も絡ませるように動かすと、エレナは息を呑む。
耳元で囁かれる度にゾクゾクと背筋を走る何かに、エレナは訳が分からずにまた混乱する。
分からないことだらけで、エレナはもう限界だった。
「ヴィーチャ…お願い、離して……っ…」
ポロポロと頬を滑り落ちる涙は、ヴィクトルの首筋に触れ、ヴィクトルはその感触に目を見開いて両手でエレナの頬を包んで顔を覗き込む。
「レーナ…?」
「ヴィーチャ、私…私、覚えてないの。怖い……な、なんで、なんで一緒のベッドで、寝ているの…? なんで、私…下着姿で…ヴィーチャも……っ、…なんで? 怖い…怖いよう…教えてよ……っ」
滑り落ちる涙をヴィクトルは丁寧に優しく親指で拭うと、宥めるようにエレナの額に、頬に、瞼に口付け、優しく頭を撫でる。
「───覚えてないの? なにも?」
「屋台で、お酒を……4杯目位までは、何とか覚えてる……けど、その後は…」
口ごもるエレナに、ヴィクトルの眉が下がる。
「そうか……覚えて…ないのか……」
「…ヴィーチャ……?」
悲しげにヴィクトルの瞳が影を落とし、エレナは目を見張る。
「……何があったか、知りたい?」
「!」
ヴィクトルの強い視線が、エレナの視線を捕らえる。
絡め捕られた視線を、エレナは逸らす事が出来ない。
「多分、知ったら君はショックを受ける…俺を嫌いになるかも知れない……そして、きっとユウリの前で、心から笑えなくなるかもしれない」
「え…? な、んで…?」
エレナの目が大きく見開かれ、突然ヴィクトルの口から出た名前に、動揺と恐怖で身体が震える。
「俺が気付いていないと思ってたの? 君のここに、誰が居るのか」
ヴィクトルの指が、エレナの胸元に触れる。
「やっ! やめて!」
エレナがヴィクトルの手から逃げるように体を捻り、自分の身体を隠すように、守るように身を縮めて抱き締める。
ヴィクトルはその姿に悲しげに微笑み、丸くなった背中を下から上にゆっくりと撫で上げ、項にキスを落とす。
エレナの口から、声が漏れる。
「───いいよ、昨日…たっぷり触らせて貰ったから」
「!?っ」
エレナの目がヴィクトルの言葉に息を呑み、次いでその顔がクシャリと歪む。
「言ってなかったけど、昨日、出かける前にユウリにメッセージを送っておいた」
「…え?」
「レーナと2人で長浜ラーメン食べに行ってくる、ってね」
「!!っ」
「ねぇ、レーナ、ユウリはどう思ったかな? 何とも思ってないかな? それとも、俺達の帰りをずっと…待ってたかな?」
「っ、…い……いま…なん、時……」
「今? 9時過ぎだよ。時計確認する暇もないくらい動揺してたの? ユウリもユリオも、もう朝食摂って、アイスキャッスルに向かってるだろうね?」
(そ…んな……そんな……っ)
エレナの目からまた涙が溢れ出す。
「心配しないでレーナ。俺とユウリの関係も、勿論君とユウリの関係も何も変わらない。変わったのは、俺達の関係だけだ、そうだろ?」
「!? そ、それって…」
「うん、そうだよ。君が俺のものになった…それが、君の知りたがってた昨日の夜の事だよ、レーノチカ」
ヴィクトルが伸ばした手は、エレナの長い髪を絡め取り、家族や極親しい者…たとえば恋人が呼ぶのを許されるレーノチカと言う名で呼び、キスを落とす。
エレナはその手を勢いよく弾いた。
乾いた音が部屋の中に響き、勢いで振り向いたエレナの目から溢れ出た涙が飛び散る。
「嘘! 私、そんなの覚えてないもの! 出鱈目言わないで!! 私は貴方のものにならない! 私が…っ、私が好きなのは、昔からずっと!! ずっと勇利くんだけだもの!! 私をその名で呼んでいいのは貴方じゃない!!」
「──〜っ、」
「!?ッ」
ヴィクトルは顔を歪めると、エレナの後頭部に手を伸ばして引き寄せるとその唇を塞ぐ。
「んぅ…っ、や…っ!」
ガッチリと押さえた後頭部の手の力を決して緩めず、角度を変えて舌を絡ませてエレナから言葉を奪う。
「ユウリはきっと、君の事なんてただの幼馴染みとしか思っていないよ。昨日だって、ユウリに避けられてたじゃないか。ユウリは、君じゃない誰かと結ばれる…それを、その姿を見て君は1人で耐えられる?」
「そ、んなの……」
耐えられる訳ないじゃないか、とエレナは頭を激しく左右に振る。
途端に忘れていた二日酔いで視界が酷く歪む。
「二日酔い? お酒弱いのにあんなに飲むから……無事に、帰してあげようと…思っていたのに───…君が、俺を誘うから…」
「私が…貴方を……誘った?」
「そうだよ。君が、俺の手を握り締めて頬に宛て、もっと触ってと…」
「!?ッ 聞きたくない! もうこれ以上何も聞きたくない!!」
エレナの顔は、涙に濡れてグシャグシャで、酷く、疲れきっている。
「言わないで! 私にも、誰にも何も言わないでヴィーチャ! あ、貴方のものになるからっ、だから、勇利くんには…っ、お願い!」
「!!」
ヴィクトルは、たまらず口から零れ出たエレナの声に嬉しそうに微笑み、エレナを優しく抱き締める。
その笑顔が、涙のせいかひどく歪んで見えて、エレナは狼狽える。
(怖い…っ、ヴィーチャが…怖い!!)
ヴィクトルの腕の中で、エレナの身体がガタガタと震え出す。
「良かった……これ以上君を傷付けずに済む。俺、こう見えて独占欲強いし、かなり嫉妬深いんだ……君が気付かせてくれたんだよ。君とユウリの関係は素敵なものだと思っているけれど、必要以上に近付いたり、長い間2人っきりで話してたりしたら、俺、ついカッとなって色々言っちゃうかも知れない。───だから、気をつけてね?」
「わ、分かった……」
頭を撫でる手付きはとても愛おしげで優しいのに、その言葉と声はやけに冷えていて、その温度差にエレナの頬を涙が伝い落ちる。
「後、俺の事はヴィチューシュカって呼んでね。俺は、君をレーノチカって呼ぶから。良いよね?」
コクコクと頷くエレナの頭にキスを落とし、エレナはきっともう逃げられないだろうと思った。
逃げれば、きっと話してしまうだろう。
勇利に、知られたくなかった。
勇利の事が好きなくせに、酔っていたとは言えヴィクトルを自分から誘い、一夜を共にしただなんて……幻滅されるに決まっていた。
エレナは、勇利に真実を知られるより自分の気持ちに蓋をして、耐える事を選んだ。
ロシアに帰るまでの後数日、例え地獄のような日々になろうとも、勇利に軽蔑の目で見られる事の方が辛いことに思えた。
ホテルをチェックアウトして、ヴィクトルがまたタクシーで帰ろうとするのを止め、エレナは電車で帰る事を提案した。
少しでも遅く帰りたかった。
けれど、勇利がひどく恋しかった。
矛盾している感情に、エレナは自分でも自分が分からない。
電車に揺られながら隣に座り、指を絡ませて繋がっている手が、ヴィクトルのもう片方の手に優しく上から包まれる。
「大丈夫? 身体、辛くない?」
「……大丈夫、ありがとう」
優しい声音に、エレナもうっすら笑みを浮かべて応えると、ヴィクトルの手がエレナの頭を撫でる。
ヴィクトルの肩に頭を預けるようになったエレナは、優しいヴィクトルの手つきに、先程の事が嘘のように感じる。
エレナも、幾らか冷静になってきていた。
(勇利くんと出会っていなければ、私はヴィーチャを好きになっていたかもしれない)
ヴィクトルとの思い出の中で、ヴィクトルは常に紳士で、エレナに向ける眼差しも声も優しかった。
たまに子供らしくなる所も、スケートをしているヴィクトルの真剣な表情も、エレナを見つけて嬉しそうに笑う笑顔も、感情表現が豊かな所も、エレナは好ましく感じていた。
だが、その全ては友人として、という言葉が当てはまる。
エレナの心には、想いを伝えられないまま別れた結果、拗らせてしまった初恋がしまってあり、ずっと淡い火が着いたままだった。
(あのお別れの日、ちゃんと自分の気持ちを伝える事が出来ていたら、初恋に、区切りをつけられていたら、きっと……私は、ヴィーチャを好きになってた)
エレナの目が伏せられると、ヴィクトルが身動ぎし、エレナの頭にキスが落とされる感触。
他に乗客が居ないわけではなかったが、今のエレナに人目を気にしている余裕はなかった。
(理由は分からないけど、勇利くんには避けられているし、初恋を諦めて…勇利くんから離れるには、ちょうど良いのかも知れない……)
ヴィクトルが言ったように、いつか勇利が自分ではない誰かと一緒になったとき、心から祝福出来るようになるには時間が必要だ。
ヴィクトルであれば、そんな自分ごと優しく微笑んで抱き締めてくれるだろう、と考えて、エレナはポツリと呟く。
「───これで、良かったのかも知れない…」
声が聞こえているだろうに、ヴィクトルは何も言わなかった。
それから互いに無言で電車に揺られ続けていると、やがて長谷津の駅に着いた。
改札を出て、駅前のオブジェを見上げる。
「レーノチカ、君はこのまま部屋に戻って休んで。俺はアイスキャッスルに行くから」
「うん…二日酔い、ちょっと辛いし……今日は、休ませてもらう。ありがとう」
眉を下げて言うエレナの赤くなってしまっている瞼に口付け、ヴィクトルは離れがたいと抱き締める。
「2人共…特にユーラは怒ってると思うよ? 早く、行ってあげて」
ヴィクトルの背中に腕を回して応えるようにぽんぽんと叩いてエレナはヴィクトルを見上げて苦笑いを浮かべる。
「じゃ、君はタクシーを…」
「歩いて帰れるよ、心配性だなぁ……私よりヴィーチャがタクシー使った方が良い」
「………レーノチカ?」
エレナの言葉に少し拗ねたような顔をしたヴィクトルに、エレナはあ、と口を押さえる。
「ごめんなさい、まだ慣れなくて……ヴィチューシュカ」
「君も心の整理があるだろうし、少しずつで構わないけど…。…大事に愛おしむと君に誓うよ、レーノチカ」
「ありがとう、嬉しい…練習、頑張ってね」
「うん、ありがとう…あぁ、離れたくないな……」
言ってもう一度抱きついてくるヴィクトルにエレナはクスクスと笑いながら、応えるように背中に腕を回す。
「あ、そうだ…部屋、マリの隣の部屋から俺の部屋に移っておいでよ。今日から一緒に寝よう?」
「え?」
「もうすぐ君はロシアに帰っちゃうし、少しでも長く君といたいんだ…ダメ?」
耳元で甘く囁くヴィクトルに、エレナの肩がびくりと揺れる。
「無理強いはしないよ。部屋で考えて? 俺が帰ったら、どうしたいか聞かせて」
「うん…分かった」
頷くエレナに唇に触れるだけのキスをして、ヴィクトルはタクシーに乗ってアイスキャッスル長谷津へと向かった。
タクシーが走り去るのを見届けたエレナは、先程ヴィクトルの唇が触れた唇にそっと指を宛てる。
「…キス、嫌じゃなかった……」
ホテルでされた言葉を奪うような強引なキスの時とは違い、嫌悪感は感じなかった。
驚く程すんなりと受け入れられた。
その事実に、エレナは苦笑いを浮かべる。
(私って…チョロい奴。──大丈夫、きっと……私、勇利くんのこと、思い出に出来る…)
エレナは、ゆ〜とぴあかつきに向けて歩き出した。
時刻は11時を過ぎた頃、ヴィクトルがアイスリンクに現れた。
「お待たせ! あれ、今何の練習してたの?」
「「!」」
2人で一緒に練習をしていた様子の2人に問うが、2人からの返事はない。
「おせぇよ! ヴィクトル! テメェ朝帰りとはいつまで飲んでたんだよ!?」
ユーリの朝帰り、という言葉に勇利の肩がピクリと揺れる。
「え、何時までだったかな? ごめんごめん、ちょっと羽目外しちゃって…」
あははは、と笑って頭を掻くヴィクトルに呆れたようにユーリが溜め息を吐く。
「─────ヴィクトル、エレナちゃんは?」
ユーリとは違い、静かに勇利が問う。
ユーリはその問い掛けにエレナの姿が無いことに気付いたようだった。
ヴィクトルは、勇利のどこか睨み付けるかのような眼光に、ふと微笑む。
「ああ、レーナは…レーノチカは二日酔いで、部屋で休んでるよ」
「「!?」」
ヴィクトルが言い直した名前に、2人の目が見開かれる。
「おい、今…なんて?」
「ん? あぁ、確かにレーノチカが二日酔いに成る程飲むなんて珍しいよね。身体辛そうだったし、勘弁してあげて…俺のせいでもあるから」
「その呼び名! アイツが許したのか!?」
「? おかしな事を聞く奴だなぁ、ユリオは。本人の許可なしに呼ぶわけないじゃないか」
ヴィクトルが笑うと、ユーリの顔が驚いた後険しく歪む。
勇利は目を見開いたまま動けない。
「まぁ、そういう訳だから。さ、練習始めよう」
「…っ、待って!」
練習を始めようと話を打ち切ったヴィクトルに、勇利が滑って近付く。
「ユウリ?」
不思議そうに首を傾げるヴィクトルに、動揺で揺れる瞳を悟られないようにキッと睨み付けて、勇利はヴィクトルだけに伝わるように声のトーンを落として口を開く。
「エレナちゃんに、何したの?」
勇利の問いとその眼光の鋭さに、ヴィクトルは目を瞬かせ、目を細めて微笑むと人差し指を唇に宛てる。
「秘密だよ。君に話すと俺が怒られるし…それに、ユウリには関係ないよね?」
「!!っ」
ヴィクトルの顔は笑っているが、勇利を見据える目は笑っていなかった。
「ユウリは彼女の幼馴染み…ただそれだけだろう?」
「───…ヴィクトル、僕は……っ」
「ユウリ、今君が考えなければいけないのは昨夜から今朝までの彼女と俺に起きた事じゃなくて、君のプログラムについてだ」
さ、練習を始めよう、と目つきを柔らかくしたヴィクトルに、勇利は自然と後退った。
(───あぁ、やっぱり僕はいつも気付いた時には遅いんだ……あの時も、そして今も…気付いた時には、エレナちゃんは手の届かない所に行ってしまった後で…っ)
うなだれる勇利の背中に、ユーリはつまらなさそうに顔を顰め、息を吐いた。
「……もう、諦めろよ。馬鹿な奴…」
ヴィクトルの言葉に、エレナはヴィクトルを選んだのだと分かったユーリは、口うるさいお節介な姉貴気取りの女は、今どうしているのか、と考え、自分の胸にジワジワと広がる不快な感覚に舌打ちを1つ零した。
(幼い日からの初恋に、終止符を打とうか)
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