短編 | ナノ


 外は雨が降り、空を黒く染めていた。

 ぼうっとソファに座り外を眺めていた遊兎の隣に恋は腰を落ち着かせて華奢な肩を抱く。

「どうしたの?」
「何が」
「悲しそうに見えたけど」
「別に、思い出してただけ」

 寄りかかってきた遊兎の表情は髪に隠されて覗くことは叶わない。布越しに感じる体温だけが二人の存在を表現しているようで、酷く幸せな気持ちになれた。

 あの頃には味わえるなんて思ってもいなかった甘い感覚。遊兎と同じ時間を過ごせるだけで死んでもいいような、そんな感覚。

「思い出してたって何を?」
「……父さんのこと」
「…父さんって、裕司さん?」

 いつになく抑揚のない声音に不安になる。遊兎はふとあるときに精神が不安定になってしまうから。いなくなってしまうんじゃないかと、不安になる。

「ううん、本当の、父さんのほう」

 本当の、遊兎の父親。それは誰か。

 遊兎が父親と読んでいる人物は知っている。それも血の繋がったではなく、養父の兎藤裕司。兎藤家に養子として引き取られた柔和な笑みが印象的な男性だ。
 そこまで考えて、思い至る。遊兎は裕司や母親の話はするが、血の繋がった父親の話は一度もしなかった気がする。

「おれの父さん、死んでるんだ」
「っ……」
「雨の日だった。秋になりかけの頃で、ちょうど、今日みたいな日。事故らしいよ。おれと母さんと父さんと遊深姉さんとで海外旅行に行こうってとき。空港に向かう車でさぁ、姉さんも母さんも笑ってて、おれも、そのときは笑えて、父さんも……笑ってて」
「遊兎。もういいから、」

 シャツの裾をシワになるくらい力強く握り込み、声はだんだんと震えていく。弱々しく放たれる言葉に、恋は無性に泣きたくなった。本当に泣きたいのは遊兎のはずだ。何を思って今その話をするのか。

 室内はひんやりとしていてちょうどいいはずだったのに、じっとりと髪が肌に張り付いて暑いくらいだった。

「雨はだんだん強くなって、ライトで照らさなくちゃ見えないくらい。ちょっと急なカーブを曲がったとき、トラックがいたんだよ。大型トラック。慌てて避けようとしたけど間に合わなくて、母さんは意識不明重体、姉さんも車椅子で生活しなきゃならないような怪我で、おれもしばらくは入院。父さんは、即死だって。おれさ、助手席にいたから、見えたんだ。父さんのこめかみあたりにガラスが突き刺さって、右腕がぐちゃぐちゃになってて、横転し車内でおれに向かって伸ばしてくるてが血まみれで、指がところどころおかしな方向向いてて、それで、あ、あ、あぁぁあ、」
「っ遊兎!! もういい!! 無理するんじゃない!!」

 バッと顔をあげた遊兎は恋の目を見ると喉を鳴らし、悲痛な声をあげた。痛いくらいの力で腕を掴んでくるが、今はそれさえもどうでもいい。遊兎を、遊兎をこちら側へと連れ戻さなくては。

 焦りと焦燥が恋を駆り立てる。

 遊兎はいつ壊れてもおかしくないのだと、かかりつけの医者が言っていた。当時はなんで、どうしてとしか思わなかったが、今ならわかる。トラウマが深く深く遊兎の心に根付いているのだろう。きっと生涯消えることのないそれはいつ切れるとも知れぬ細い糸のように遊兎に絡みついているのだ。

「遊兎、遊兎。お願いだから、落ち着いて、俺を見て、ちゃんと、」
「れ、ん……恋、恋、れん、れんれんれんれん。恋はどこにもいかないでしょ、ねぇ、おれを一人にしないで…っ」

 遊兎は学生の頃よりも弱くなった。でもきっとそれは自分のせいだろう。けれど後悔はしていない。俺だけを求めてくれるようになればと願う。

「大丈夫。俺は遊兎を一人にしないし、置いていかないから。ずっと一緒だよ」

 幼子をなだめるように遊兎を抱きしめ、耳元で催眠術でも施すかのようにゆっくりと言い聞かせる。

 雨は怖い。遊兎を知らないところへ連れて行ってしまうから。

 願わくば、愛しい人が壊れてしまわないように  

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