短編 | ナノ


「ただいまって言ったらおかえりって返してくれる相手がいるのって、幸せだよな」

 意味深に呟いた遊兎に、心臓がドキリと波打った。

「急に、どうしたの?」
「ん、別に。こないだテレビで、そんな感じの番組やってたの思い出して。きっとさ、帰ったとき部屋に誰もいなかったら、おれ泣いちゃうぜ」

 クスクス笑いを零す遊兎はソファに座り背を向けているため、今どんな表情をしていりかわからなかった。
 肩越しに、初めて会った頃よりも細く肉薄になった恋人の体に切なくなる。
 ただ、泣いちゃう、というのが比喩でもなく揶揄でもなく、本当のことなだけだ。
 暗い玄関でくず折れた痩躯を掻き抱いて、声もあげずにボロボロと涙を流していた。その姿は痛々しく、今にも切れてしまいそうなピンと張られた糸があったようにも感じられる。

「おれはさ、幸せだよ。恋さん」

 煮込んでいた煮物を見ながら、やけにクリアに聞こえた遊兎の言葉に恋は目を見開いた。
 すぐそばで聞こえた気がした。
 ハッとして振り返れば、遊兎は何気ない顔をしてソファに座っている。ただの、思い違いだったか。

「恋さんは、幸せ?」
「……うん、幸せだよ」
「そっかぁ」

 噛み締めるようにはにかんだ遊兎に、恋も頬を緩めた。
 やはり思い違いだったのだ。
 遊兎と同居を始めて数年。この数年で遊兎のことをたくさん知ることができた。だが、この数年間で遊兎は確実に崩壊へと向かっているのにかわりはない。
 なにもできない自分が虚しい。
 医師によれば、今はゆっくりコワレていっているのが、ふとしたことで一気にコワレてしまうのだと。過去のトラウマが、心の奥に刻まれ、癒されることなく今も傷を広げていっている。
 早ければ、一年持たない。

「遊兎、明日は暇?」
「明日? 明日ー……うん、大学の講義も入ってないから」
「そっか。あ、料理運ぶの手伝って」
「おっけーい」

 この日常がなくなってしまうのだろうか。
 壊れる。
 何が、どう壊れるのか。
 心が? 体が? どちらにしたって、最悪なことにかわりない。

「今日のは和風だ」
「昨日はフレンチだったし。ほら、煮物食べたいって言ってたじゃん? 俺も焼き魚食べたかったから」
「美味しそう。でも、食べきれないと思う」
「だーめ。ただでさえ細いのに、これだけでも食べないと」

 むくれた遊兎の頭を優しく撫ぜて座った。
 いただきます、と声を合わせて夕飯を口にする。

「……あ、でさ、明日、どうかした?」

 サラサラと揺れる黒髪に目移りしながら、恋は続きを口にした。

「ペアリング、買いに行こう」
「ペア、リング?」
「そう。遊兎が、勝手にいなくならないように。俺のとこに帰ってくるように。本当は結婚式もあげたいんだけどね」

 呆然と見返してくる遊兎に悪戯っ子のように笑えば、恋人の顔が驚愕に彩られた。
 唇を震わせ、零れるんじゃないかと思うくらい見開かれた目。
 赤い、色素の薄い他とは違う瞳が愛おしかった。宝石みたいで、遊兎を飾り立てる一部のようで。

「い、の?」
「何が?」
「お、おれが、貰って」

 なんだそんなことかと溜め息を吐いた恋に肩を震わせる。
 捨てられたらどうしようという不安に溢れる瞳に、うっそりと安心させようと微笑んだ。
 遊兎の白い頬に手を添えて、テーブル越しに目元にキスを落とした。

「俺は、遊兎じゃなきゃ嫌だ」

 泣きそうなほどくしゃくしゃに歪められた顔をする。
 淡白そうに見えて、感情豊かなこの子が好きだ。手放したくないほど愛してる。
 短くてあと一年。許される限り、共に時間を過ごしたい。
 叶うならば、この日常がずっと続きますように思う。




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