「君しか愛せない」:前編

2月14日の仕事終わり。
芥川に遭遇した。

きょとんとした顔で敦は満月みたいな目を丸くして、目の前の人物を凝視した。敦の目線の先――真っ黒な丸い目がみるみるうちに瞳孔を開いていった。まるで猫が暗闇から真昼の明かりに飛び出たように。
カッという勢いで、芥川は目を見開いた。
二人の距離はわずか数メートル。おそらく敦が三歩ほど大股で踏み込めば届く距離。
その距離で見詰め合ったままふたりは固まった。先に口を開いたのは芥川の方だった。
「じ、人虎……」
血色の悪い色白の唇がわなわなと震え出す。うんざりするほど呼ばれた名前は、既に敦にとってはあだ名みたいなものだった。
少しだけ前屈みになった体勢の芥川の手にはビニール袋が提げられていた。自然と敦の視線がそこへ向けられる。
ビニール袋の口から覗くのは、サッと見ただけでも泡立て器、ゴムベラ、計量カップ、シュガーストレーナーなどなど。
それらの物体が一体何の用途に使われるのか?敦が首を傾げようとした時、
「ッ!?!?」
鬼のような形相で芥川が急に距離を詰めてきた。声を上げることすら出来ないタイミングだった。
思わず立ち竦む敦の腕がガシッと掴まれる。
敦を射抜く芥川の眼差し。そこには憎悪とか嫌悪とかそういう色とは違った別の何かが含まれていた。
何かに縋るような、何かを求めるような、そんな目をしていた。
「な、なに……?」
おそるおそる問い掛ける。芥川は瞬きすることなく、丸い目で真っ直ぐに敦を見据えたまま告げたのだ――
「教えろ」
と。
は?と敦が返すより先に、芥川の外套の裾が形を変えた。黒い螺旋が蛇みたいに畝って、敦の腕をぐるぐるときつく縛り上げる。
「ちょ、おい……教えろってなにを――」
「つべこべ言わずついて来い」
反吐を吐くように吐き捨てられる。
もしかしたら、このままマフィアまで連行されてしまうのではないか?――そんな不安も過ぎった。それでも敦は抵抗しなかった。
何故なら、もしそうだとしたら芥川がこんなに穏便なやり方(今までに比べたらだが)で、敦の身柄を確保する筈がないからだ。
人虎として敦を売り飛ばすのが目的なら、きっとここで片腕を拘束するのではなく、両腕両足を切り落としにくるに違いないのだ。


事情を良く分からないままに、結局のところ辿り着いたのは敦が住まうアパートだった。
ついて来い、なんて息巻いた癖に直後に「ところで貴様の住居は何処だ?」と問いただされ今に至る。
探偵社の寮。古びたただの安いアパートだ。
芥川はアパートの前に立ち尽くすなり、ぽわんとした顔で建物を見上げた。人間の敦を見ている時よりも、無機質なおんぼろアパートを見ている時の方が目が輝いていた。
「……ここに太宰さんが」
ぽつりと呟かれた言葉。敦はようやく納得した。
「もしかしてお前、太宰さんに会いたかったのか?」
ぐるんっとすごい勢いで芥川は敦を振り返った。敦は未だに腕を拘束されたままだった。
「勘違いするなよ人虎……僕は其の様な個人的な欲望に従属するような愚者ではない」
「……そ、そう」
敦はこの時思った。
(こいつって分かりやすい性格してるよな……)
そしてそれはなんだか自分にも共通しているように感じられた。

芥川に拘束されたまま、敦は先導してアパートの敷石を踏んだ。
一歩踏み込んだ途端に、背後で芥川が息を呑んだのが分かった。決して振り返って確認した訳ではない。腕を拘束する羅生門から、芥川の緊張が伝わってきたのだ。
「僕は一階」
言いながら部屋の扉の前までやってくる。
「ちなみに太宰さんはこの上」
人差し指を立てて真上を指す。芥川がおもむろに上を向いた。
羅生門で腕を拘束されているといっても、あくまで犬のリードのようなものだった。そのまま敦は拘束されたままポケットをあさって鍵を引っ張り出すと、それを鍵穴へ捩じ込んだ。
回すとガチャリと音がした。
「鏡花ちゃんはまだ帰って来ていないみたいだね」
「鏡花?」
「ああ」
淡々と靴を脱いで部屋へ上がる。三和土に脱いだ靴を、敦はきちんと揃えて隅っこに並べて置いた。孤児院で叩き込まれた癖のようなものだった。その様を芥川は意外そうな顔で眺めていた。
やがて芥川も靴を脱ぐと、敦と同様にちゃんと揃えて、敦が置いた方の反対側へ並べた。
「どうして鏡花が関係してくるのだ?」
改めて質問をぶつけてくる芥川。敦は振り返ると、軽く微笑みながら腕を上げた。
「まずはこれを解いてよ。もうここまで来たら逃げられないし、ここの住人に迷惑をかけるようなことはしたくないからさ」
「……ふん」
忌々しげに芥川は鼻を鳴らした。羅生門の黒布が解かれる。黒い流砂みたいに、布はもとあった外套の裾へと戻っていった。
「僕と鏡花ちゃん、今一緒に暮らしているんだ」
「へぇ」
自分から質問をしておいておきながら、関心なさげに芥川は返事をした。少しだけムッとしながらも、敦は拘束が解けて自由になった腕を無駄に曲げ伸ばしした。
「それで、ここからが本題なんだろ?」
「……は?」
敦の視線が再び芥川の手元へと落とされる。
そのビニール袋の中身の正体。
「お菓子作りなんてしたことないけれど、ここまできたら仕方がないから手伝ってやるよ」
溜め息まじりに敦が言う。カーッと芥川の顔が即座に真っ赤に染まった。
「な、何故貴様――」
「だって今日は2月14日だろ?」
2月14日。
孤児院育ちで馴染みの薄い敦にだって、考えなくても今日が何の日かなんてすぐに分かった。
「つまりお前はバレンタインに、誰かにお菓子を贈りたかったんだろ?手作りの」
「…………」
芥川は黙り込んだ。
少し揶揄いすぎたかな?と思いつつ、敦は首を傾げて顔を覗き込もうとした。覗き込もうとして、ドキッと心臓が跳ね上がる。
芥川は何も言わずに顔を赤らめたまま、ただ目を伏せていた。蝋人形みたいに色白な肌に朱色が差して、長い睫毛が影を落とす。
改まって芥川の顔を捉えた時、その顔の作りの精巧さに思わず敦は唾を呑み込んだ。そして思った。

(こいつ……こういう顔、太宰さんの前でもするのかな……?)
だとしたら、太宰さんはどんな気持ちでこの顔を眺めていたのだろうか?
目の前でこんな顔をされて、嬉しいとか思わなかったのだろうか?

つい、そんなことを考えてしまった。
敦からの視線に気が付いたのか、芥川がちらりと敦を見た。一瞬だけ目が合う。気まずさを感じて、咄嗟に敦は視線を逸らした。
気まずい空気が流れる。何か言った方がいいかな、と思い適当に敦が口を開こうとした時、
「……そうだ。それの何が悪い?」
その声は強がっているように聞こえた。
自らの行動が間違っているのか、と敦に問い詰めているみたいだった。

誰かが誰かを好きだと思うこと。
誰かを大事だと思う気持ちに間違いなんてない。

「……ううん」
敦は小さくかぶりを振った。



取り敢えずは芥川が調達してきたお菓子作りの道具セットをずらりと並べてみることにした。明らかに必要がなさそうなものまで見受けられたが、敢えて敦は口を出さなかった。
「それで、お前は何を作りたいんだ?」
ふむ、と芥川は口元へ手を添えた。
「……以前、太宰さんがまだポートマフィアに所属していた時――僕の上司だった時の話だ」
「うん」
「太宰さんは非常に女性の目を惹く存在だ。だから毎年この日になると、低俗な輩が太宰さんへ様々な貢ぎ物を贈りつける」
なんだか話が長くなりそうな予感がした。
さりげなく敦は部屋の時計を見遣った。せっかく今日は定時に上がれたというのに。
「勿論、太宰さんはそれらへは一切、口を付けることはなかった」
「へぇ……なんだか意外だな。太宰さんが女の人から貰った物を無駄にするなんて」
「当時と今とでは立場が違うのだ。そこのところをきちんとわきまえろ、人虎」
どうして自分が叱られているのか訳が分からなかったけれど、敦は「ごめん」と謝った。芥川が腕を組み話を再開させる。
「毒殺の可能性があるからだ」
当時の太宰の立場なら考えられる。
「太宰さんはそれらの貢ぎ物を、直接手渡されそうになったものはその場で断り、間接的に押し付けられたものは部下へ処分を命じた」
一体どれくらいの量のチョコレートが太宰さんの元に贈り付けられてきたのだろう、漠然と敦は考えた。
「つまり、太宰さんの手元にはひとつとしてチョコレートの類は届かなかった。あの頃、太宰さんを直属の上司として仰いでいた僕は太宰さんの護衛の為に、太宰さんから特別な指示がない限りは常にお側に仕えていた」
(この話、どこまで続くのだろう……?)
ぼんやりと敦は思った。
「帰り道、太宰さんはおもむろに百貨店へ寄ると、バレンタインデー用の売れ残ったブランド物のチョコレートを購入された。そのまま帰宅し晩酌された。勿論、僕はそれにお伴した。そして、太宰さんは自らの購入したチョコレートの箱のラッピングを解いた。中身は一口サイズの小さなチョコレート。口にするなり太宰さんはこう仰った――
『やはりウイスキーボンボンに限るね』
と」

…………。

そこで芥川の話は終わった。
微妙な空気が流れる。
敦は、語り切ってなんだか酔いしれているみたいな芥川を横目に見遣った。
「……つまり、ウイスキーボンボンを作りたいと」
「そうだ」
芥川が買ってきたお菓子作りセットには酒が含まれていた。
「レシピは?」
「知らぬ」
「はあ!?」
「嘘だ」
なにこのやりとり――芥川は動揺する敦の姿を楽しんでいるように見えた。外套の懐へ手を突っ込むと、折り畳まれたメモ用紙を取り出した。
カサッと紙が擦れる音がして、メモ用紙が開かれる。中にはウイスキーボンボンのレシピが詳細に記されていた。それも手描き(らしき)図まで用いて。
「樋口が用意してくれた……」
彼奴は出来る部下だ、なんてさり気なく褒める芥川の隣で敦は複雑な思いでいた。

さっそくそのレシピを用いてお菓子作りを始めることにした。まずは板チョコレートを砕いて、湯煎で溶かす作業から取り掛かる。
台所いっぱいに、部屋中にチョコレートの甘い匂いが充満した。
まさか自分の部屋の台所で芥川と肩を並べることになるとは思ってもいなかった。
芥川の隣に立ちながら、ほんの僅かだけ高い背丈を見上げる。
鍋の中のチョコレートへ視線を落とす芥川の横顔は、どことなく幼く見えた。もともと童顔だとは思っていたが、何も言わずに敦と並んで歩いていたら同い歳に間違えられても可笑しくない。
「……むっ、こんなものか?」
芥川の声で我に返る。つい、横顔に見惚れてしまっていた。
「た、たぶんそれくらいで大丈夫だと思うよ……えっと、次は――」
なんだかチョコレートの香りが濃くなった気がした。

芥川はわりと不器用だったが、敦が手伝うことによってなんとかチョコレートを作ることが出来た。
チョコレートを冷蔵庫で固めている間――その時間が敦にはとても長く感じられた。
いつまでも台所に立っていてもしょうがない。敦は畳の上に敷いてあった座布団へ座るよう、芥川へ声を掛けた。その返答は、
「要らん」
きっぱりと断られてしまった。
「気遣いなど無用……」
すっかり憔悴しきってしまっていた敦は「ああそうですか」と心の中で呟きながら、畳へと腰を下ろした。
時刻は夜のゴールデンタイム。
未だ帰って来ていない鏡花のことが気が掛かりだった。ひび割れた壁に背中を預けて、窓の外を眺める。何もない。ただの闇。
何気なく視線をスライドさせると、芥川は台所に突っ立ったまま、じっと冷蔵庫を見詰めていた。
さっきから何度となく感じる違和感。
明らかに敦を見るよりも柔らかい視線。
ふいに、その視線の先が見据えているものに敦は気付いてしまった。
このアパートに到着した時、チョコレートを溶かしている時、冷蔵庫を眺めている時――きっと、その目は目の前のモノだけを捉えていた訳ではなかったのだ。
そのモノの先にあるモノ。繋がるモノ。
芥川はモノの先に、太宰の姿を見据えていたのだ。
それは太宰ではないのに。
あたかも、そのモノが太宰であるかのように。
おそらく今、芥川の目には冷蔵庫が太宰に見えているのだろう。やんわりと微笑んで名前を呼んでくれる。太宰の優しい声が、敦の耳にも聞こえたような気がした。
「……なあ、芥川」
「なんだ?」
「太宰さんはきっと、喜んでくれると思うよ」
思いがけずそんなことを呟いてしまった。
冷蔵庫を見詰めていた芥川の丸い目が、ゆっくりと敦へと向けられる。
芥川は何も言わなかった。
ただ、その丸くて大きな目の表面がキラリと揺らいだ気がした。


「じ、人虎……!」
アパートの外。二階へと続く錆びた鉄骨階段を上りながら、背後にいた芥川が敦の服をギュッと掴んだ。
振り返って見下ろす。芥川は完成したチョコレートが詰まった紙袋を大事そうに抱え込んだまま、真っ直ぐに敦を見上げていた。
「だ、太宰さんは……その、もしや既にご就寝では……」
いつになく動揺しているみたいだった。
大きな目が忙しなくくりくりと動き回る。
「この時間に寝ているとしたら泥酔している以外あり得ないと思うけど……それよりも帰ってきているかどうかの方が問題だよ」
「まさか!どこぞの川にでも飛び込んで……」
はあ、と敦は溜め息を吐いた。
「それも充分にあり得るけども。今日はバレンタインデーだから」
「え?」
「さっきお前も言ってただろ?あの人モテるから」
さらっと言って階段を上ろうとする。前を向いたところで、敦は動きをピタッと止めた。
背後の芥川が微動だにせず、ただ俯いたまま敦の服を掴んでいた。そのせいで敦は階段を上ろうにも上がれなかった。
もう一度だけ溜め息を吐いて振り返る。
「しっかりしろよ」
思わず手が伸びていた。
くしゃり、と芥川の髪を掴むと時々自分が太宰にして貰っているみたいに、敦は芥川の頭を撫でてやっていた。
芥川が顔を上げる。夜空の雲間から射した月明かりが、二人の顔を明るく照らした。
次に月が隠れるまで何も言わずに見詰め合っていた。
すると、やがて決心がついたようで。
芥川は口端を僅かに釣り上げると、ぎこちなく笑った。不意打ちで、敦は胸が締め付けられた。
再び敦の中に先刻と同じ質問が浮かんできた。
――果たして芥川は、太宰さんの前でもこの様な顔をするのだろうか?
こんな風にぎこちなく、怯えながら、挑戦的に、笑ったりするのだろうか?

[ 279/346 ]



[もどる]
[topへ]
[しおりを挟む]



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -